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zoom RSS 絵画ならではの強み(久松温子展を見て)

<<   作成日時 : 2010/06/02 01:36   >>

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先週のことですが、久松温子さん
http://ku-on.net/index.html
の作品を、久しぶりに見に行きました。

彼女の作品を初めて見たのはもう20年位前。初めは本の挿絵として作った作品展も開いていたような記憶がある。対象の形態を大胆にデフォルメした作品のみの個展になってから、確か15年位。

 正直に書くと、以前は、彼女の作品が特別強烈に、印象に残った訳でもなかったし、個展へ行く度に彼女と多少話はしたものの、彼女が何処へ向かおうとしているのか、理解できたとはとても言えないほど、自分は芸術に素人だった。一見もの静かな印象を与えながらも、意思の強さを感じさせる彼女の眼差しに惹かれていたのは確かだけれど、なぜ彼女に、ひっかかるものを感じていたのか自分でも分からなかった。

けれど今回の個展に足を運んでようやく、自分にとっての彼女の魅力が自覚できた。

 まず何より、壁に掲げられた彼女の作品達の作る空間が、とても居心地が良い。恐らくこの心地良さは以前の彼女の個展より格段に良くなっている。色相・明度・彩度といった、印刷物やパソコンの画面でも再現できる要素を越えた領域にある、色あいや色の強さが、丁寧にコントロールされた彼女の作品が作る空間は、とても心地良い。

 一見抽象的に見える彼女の作品には、いつも風景を思わせる(時として具体的な場所や物の)タイトルが付いている。今回も、彼女本人に確かめた所、どの作品も、彼女が実際に見た景色が元になっていると言う。彼女は気になる風景をスケッチしても、写真には撮らないと言う。旅先でも滅多に写真は撮らないと言う。写真を撮ると、写真の画面に残ったものしか記憶に残らなくなるから。彼女は写真という道具の危なっかしさを良く理解していた。撮影に夢中になると、映像だけ残る一方、他の思い出が残らなくなる事が良くある。更に表現者にとって、写真の危なっかしさは他にもある。

 彼女はスケッチをするとき、目の前に広がる視界の中から、例えば「あっ、この線は残したいな」というふうに、自分にとって大事な要素を確かめながら描いているという。文字にしてしまうと、絵描きなら誰でも普通にやっている事にも思えるが、彼女の場合、元の空間が具体的どうなっていたか第3者には分からないほど「大事な要素」を厳選する。見ていた対象が何かという、表現ではなく説明にしかならない要素が、徹底的に排除されている。

 これはなかなか出来ることではない。説明的な要素を排除すると、いわゆる「上手ね」という技術的評価は期待できなくなる(分かる人には分かりますが)。その上、説明的要素を排除した残りに「伝わる力」を宿らせるには、精神面でも余分なものを排除するだけでなく人並み以上の技術も居る。けれど、それが自由に出来るからこそ、写真がどんなに普及しても、写真や画像処理の技術がどんなに発展しても、絵画ならでは価値は揺るがない。

 写真をやっていると、(写真が基本的に、現実世界の出来事の記録であるせいもあって)表現者にとって大事な要素を選ぶ突き詰め方が、甘くなりがちになってしまう。甘くなって余計なものを画面に入れてしまうのとは反対に、写真の発表に慣れて来ると(私も過去4回ほど個展を開きました)、撮影の段階で、「あっ、これは(写真としては)絵にならないな」と、自分が感じた事を素直に記録に残すのを、放棄するようになったりもする。

 ギャラリーの壁に写真を展示するようになってから十数年経ち、写真の画面に余分な要素を入れない訓練は、大分成果が出てきたと思うけれど、彼女の作品を見て、改めて、自分は(写真に慣れてきたせいで)、記録に残すべきだったもの(シャッターを切るべきだった対象)まで、無視するようになってはいないか?気になってきた。 眼前に広がる視界の中で、自分が本当に心惹かれた部分は何処なのか?もう一度初心に返って見直してみよう。

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