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zoom RSS アートを追うばかりでは本物を見失う

<<   作成日時 : 2012/03/27 01:42   >>

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先週の金曜日、久々に加藤崇之さんのエレクトリック即興ソロを聴きました。

 即興と言っても現代音楽系のように無理矢理不協和音や無音階にこだわる訳でなく、フリージャズのように暴れまくる訳でもない。楽曲、和音、無音階、ノイズ(電気由来だけではない)、爆音が、シームレスに織り交ぜられながら展開する演奏。これらを使い分けているのではない、組み合わせるのとも違う。彼の頭の中で鳴り響く、多次元空間上の音楽が三次元空間に投影されている。そう思わせるような一体感。

 この孤高の世界を聴けるのは、ソロの時か、さがゆきとの即興ユニット”シナプス”として演奏する時くらい。

 こういう演奏を聴いてしまうと、コンテンポラリだのノイズ系だのインプロだのエレクトロニクスだの・・・カテゴライズされたパフォーマンスの不自由さを、実感せざるを得ません。カテゴライズすると、パフォーマ自身の発想が貧困でもそれをごまかせるし自覚しなくて済む。カテゴりに所属しないと居場所が作れないような人の舞台を用意したり、カテゴリ自体を用意したり、彼らが自分達の半端さを正当化する理屈(方法論、音楽論の類)を用意することで、自分の居場所をつくっている人達もいるし。

 加藤さんはソロパフォーマンスでの、独自の表現をカテゴライズしないし”論”じない。だから自由で創造的。でも論じないからアート(芸術)畑で語られることはないし、彼の普段のフィールドであるジャズ畑の中でさえ語られない。

 何か新しい表現が生まれた時、それを世の中に広めるためには言葉が必要。いちいち長い言葉で説明していたのでは広まらないからキャッチフレーズ(カテゴリ)も時には必要。でも、キャッチフレーズ(カテゴリ)が広まると今度は断片的な技法だけの模倣が横行して、創造的な努力を面倒くさがる連中が自分を正当化する道具に(カテゴリが)使われるし、そういう連中を増やして地位を得ようとする評論家だの指導者だの学者だのがどんどん出てくる。様式の呪縛から開放されるつもりが、新たな呪縛(志の低い人達にとっては居心地の良い逃げ場)をひとつ増やすだけで終わりがち。

(少なくとも日本では)、世の中の文化の中で最も先鋭的に精神の自由を追求する(からこそ存在意義がある)はずの”芸術(アート)”でさえ、カテゴリ(呪縛)の集合体だったりする。

だから(少なくとも日本では)、芸術(アート)ばかり追っていると、本物を見失う危険があると思います。たとえば加藤さんみたいな人を。

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