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zoom RSS 産業界と同じ(コモディティ化するアート)その2

<<   作成日時 : 2013/01/09 02:57   >>

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その1からの続き:企画のユニークさや、社会的意義は熱心に語られる一方、創った当人にとっての切実さはほとんど語られない。これは、SMFに限ったことではなく、おそらく、(カタカナで語られる)アート全般に言えるような気がします。私が、本末転倒だと感じた、「当人にとっての切実さ」の希薄さ。切実さを伝える姿勢が弱いのか、はじめから自分にとっての切実さよりも他者に対するユニークさで勝負しようとしているのかは分かりませんが、この本末転倒は、私がかつて籍を置いていた、日本の電機業界に、とても良く似た構図ではないかと思います。

はじめは、お客様のニーズに応えるためにやってきた。お客様に、喜んでもらうためにやっていた。それがいつの間にか、新しい形態や機能を考案すること自体が目標になってしまった。営業からは、「(お客様が使おうが使うまいが)新しい機能が付いていないと買ってもらえない」と言われ、機能競争・性能競争はエスカレートする一方。そのうち商品を作っている当人たちも、何が本当に良いのか?大事なのかを考えもしなくなり(その一例については、かつてブログに掲載させていただきました)、気が付けば、まともな品質の商品など作れるはずがないと、馬鹿にし切っていた韓国ブランド、更には中国ブランドが世界標準。更に視野を広めて見れば、かつてのステレオやテレビやカメラに代わって、今ではiPhoneに代表されるスマートフォンの時代。

(1990年代末から、一部電機メーカーは、自己目的化した機能・性能競争の危険に気付き、作り手の思いを消費者に伝えるマーケティングを試み始めましたが、そこで語れた”思い”の多くが、企画や宣伝担当者の描いたシナリオに従ったもの、つまりヤラセだったためか、多機能低価格競争の流れの前では殆ど無力でした)

かつて私が居た電機業界の人間達は、世界中のお客様から見放されたことでようやく、大事な事を忘れた新規性競争が無意味なことを思い知らされました。昨今の円安を喜んでいるのは、素人投資家と、市場に疎く利権にしか興味の無い経団連幹部くらいのものでしょう。現場の人間達は、円相場や人件費が本当の敗因で無い事を知って居ます(表立って認めるかどうかは別として)。

けれど、アート業界の人達はどうなんでしょう?

具体的な表現行為の必然性に触れることなく、つまりは中身に触れることなく、身近な場所でアートを享受し、支援するプラットフォームを目指すとか、アウトリーチプログラムがどうとか?そういう話に、机上の空論(良く言えば形而上学的議論)以上に何か意味があるのでしょうか? アートの中身に触れずに、どうしてアートと美術教育の関係を議論できるのでしょう? 自身にとっての切実さも無い、他者の比較での新規性(思考の拡張)が創造と言えるのでしょうか?(ちなみに産業界では、必然性を伴う活動である”創造”や”イノヴェーション”と、単なる思考の拡張にすぎない”ブレインストーミング”は明確に区別されます)

自分の行為について、自分にとっての切実さを、腹を割って語りもしない人達に、どうして他者との交流が出来るのでしょう? ましてや日常に様々な困難を抱え、文字通り一日一日を生きるのに精一杯な人達が、切実さがあるのかないのかも分からないような人達と、関わる必要があるのでしょうか?

SMFに限らず、アートの世界の人達は、アートと社会の関係を(抽象的に)語るのが上手です。でもよく考えてみると、世の中には、物質的にも精神的にも、具体的な目標を掲げて活動する非営利団体が、様々な成果を挙げています。厳しい見方をすれば、(日本の)アーティスト達は、「アート」を言い訳に、中途半端なことを正当化している、とも言えます。残念なことに、”類は友を呼ぶ”ようで、SMFの資料を見ると、アートボランティアの人達にも、アーティストと呼ばれる人達の言うことの受け売り以上の姿勢は見られません。

その結果は、産業界と同じコモディティ化。どれもこれも似たり寄ったり。どうでもいい枝葉の意匠にしか多様性がなく、世の中には、安売り競争で勝ち残ったものだけが残ればいい。世間のアートイベントを見て回ると、それが既に顕在化しているように思えてならないのですが・・・・?

彼らは行政その他から様々な公的支援を受けることを成果だと思っているのかも知れませんが、行政から見れば、これを大衆が「文化」だと言って喜んでくれるなら安いものです。 産業界ではブレインストーミング(柔軟な思考力を養う手法の中の一つ)と呼ばれている行為を、こちらの世界ではアーティストと称する人達や学芸員や大学教員が「創造」や「芸術」だと持ち上げ、ひとりひとりの生との関わりも問われない、自己目的化した新規性を、崇める大衆を増産してくれる。

施政者から見れば、手のかからないガス抜きです。この手の出し物が”文化”ということになれば、権威や権力の前でも毅然とした姿勢を失わない、他者との比較からではなく自身への問いかけから生まれる(歴史の中で後世まで語り継がれるような)文化は居場所を無くし、コモディティ化したアート界は、似たり寄ったりの商品で互いの市場を食い合ってきた産業界同様、(無自覚のうちに)公的補助を巡りアーティスト同士で共食いしてくれるでしょう。だから施政者にとってはコントロールも容易で、なおさら好都合(長期的には、その国の文化的アイデンティティーを喪失する結果になりますが)。

日本の(カタカナで表記される)アートは、携わる者の志の良し悪し以前に、構造的な課題を抱えているように見えます。その課題は自己崩壊プログラムとして動作し続け、確実にアーティスト達の将来を摘み取っているように見えますが、解決策が無いわけではありません。

方法論や新規性至上の価値判断をやめればいいんです。
表現の真髄は、方法論や新規性ではないでしょう。 キュビズムを継承した平面作品で歴史に名を残したピカソだって、写真もやっていたし、晩年は陶芸にも夢中になっていたのですから。 パフォーマンスでしか自分の切実さを表出できない人はパフォーマンスをすればいい。でも(表面的な様式としては確立されてしまった)バレエや民族舞踊が自分にぴったりならそれでやればいいし、誰が見ても何を描いているかがすぐ分かる絵(俗に具象画と呼ばれる)を描いたっていい。

アートかどうか?アートの価値は、手法(の新規性)で決まるのでしょうか?

日本における抽象表現の先駆者の一人である、清川泰次は生前、
>現代芸術の底流は「人間の自由」の尊厳ということであろう
とした上で、
安直な過去との対立や、なんらかの方法に頼る表現に陥ることを厳しく戒めています。

妙な固定観念を捨てれば、より多くの人が手を取り合って、より大きな力を発揮することが出来るのではないかと思います。


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