反戦アートへの疑問

 私が子供の頃、平和運動と言えば、空襲や飢餓の恐ろしさを語り継ぐ活動ばかりで、そこで語られる庶民は一方的に被害者でした。それから半世紀以上経った今でも、日本国内では状況はあまり変わらず、反戦の表現活動と言えば、政府が悪者で、庶民は善人で被害者と、相場は決まっているような印象を、未だに受けます。

 けれど現実には、昭和の日中戦争も日米戦争も、マスメディアに煽動された庶民の多くが戦争に賛成し、メディアは競って、戦果に留まらず戦地での現地人虐殺行為まで報じていたことが、今では広く知られているし、戦後の戦争特需も、当事を知る多くの日本人が、(他国民の犠牲で利益を得ていたことを)誇らしげに語っていたのを、私は覚えています。在日朝鮮人や中国人への差別は、現在でも日常的に見聞きします。

 戦争を体験なされた方ご自身が、自身の体験や、そこから生まれた表現を世に問うのは当然で、それはいつでも尊重されなければなりません。でも、自分に戦争の体験も記憶もない人が、ただ体験者の立ち位置を真似て、加害者としての側面に触れず、被害者としての庶民ばかりを描くのが、戦争を未然に防ぐ風土の育成に、貢献するのでしょうか?

以前も書いたことですが、反戦・平和を訴える作品の中で、実際に、人権を守る現場で闘っている人達への、リスペクトが感じられる作品が、滅多に無いのも、疑問のひとつです。
https://hiroshi-s.at.webry.info/201402/article_2.html


 とりわけ今世紀に入ってからは、口先では平和を愛するとか優しさとか思いやりとか言いながら、人権侵害にも戦争にも無頓着で、現実に何が起きているのか知っていても、何の支援もしなければ発言もしない、冷たい日本の民衆の姿が、次々と露わになっています。

イラク戦争の口実となった「大量破壊兵器」が存在しないことを、米国政府が認めてもなお、漫然と、自民党のイラク戦争支援を支持し続け、戦争で治安が崩壊したイラクに赴くボランティア達にも、カンパをするどころか自己責任だと切り捨てる日本の民衆。そこから派生したシリア内戦の惨状を、日本に伝えようとするジャーリストも、自己責任で勝手な真似をと、突き放す。

2020年の東京オリンピックに向けた建設工事に人や資材を取られ、東日本大震災の復興工事に支障が出ていることが、ニュースで報じられても、何事もなかったように東京オリンピック開催の話題で盛り上がる。

原発事故で住む場所を失い、避難してきた人達を、放射能が移ると差別したり(それでいて、流通している生鮮食品の汚染には無関心)、大金(保証金)もらってるだろといじめたり(実際には避難者のごく一部しか、行政からの支援を受けられないでいる)、

与党が煽動する、生活保護受給者パッシングには付和雷同しても、貧困層への支援事業は、報道されても話題にしないしカンパもしない。

政治や政局を偉そうに批評するのに、沖縄の基地問題は語らない。沖縄での、警察官による暴力的な住民(そのほとんどが高齢者)排除が、何度ニュースで報じられようと。そのくせ、沖縄か米軍が居なくなったら日本はどうなるんだと言う。日本有事に、在日米軍は、直接その戦力を行使することはなく、自衛隊の支援しかしないことは、「日米防衛協力のための指針」にも明記されているのに。

などなど。

 恐らくは、いつの時代もそうなのでしょうが、国を、差別や戦争に駆り立てるのは、政府だけではなく、大衆の後ろ盾が決め手になるのだろうと思います。大衆がそうなるように、政府が(マスメディアを使って)煽っているのは否定できないでしょうが、民衆が善で政府が悪、などという、古典的な時代劇のような構図が、現実の社会にあてはまらないのは、何か一つでも、弱者(人間でなくてもいい)を支援する活動に、ボランティアなどで参加してみれば、嫌でも分かることです。
では、表現者は、反戦や、平和を訴えるという文脈で、何をすれば良いのか?

 2/24に沖縄県で実施された、辺野古基地建設の是非を巡る県民投票は、元山仁士郎という大学生が、ほんの数人で運動を初めたものです。
最終的には県政を動かし条例に基づく実施にこぎつけ、見事7割を超える反対票を獲得しましたが、当初は、基地建設反対運動をしている沖縄県民からも、失敗した(少なくとも過半数の反対票を獲得できなかった)らどう責任を取るんだ!と、厳しく批判されていたそうです。1~2ヶ月に一回ほど辺野古へ行って、基地建設反対運動に参加している私自身も、基地問題について意見が言いにくい風土の沖縄で、過半数の反対票を獲得できるのか? 懐疑的でした。
https://maga9.jp/190227-5/?fbclid=IwAR3Zpvijd0UXtcZLzRf9Ao4Ig7Oc5PUEDpyqfo99CJwKrUWdDuf2RKXA08I

にも関わらず彼は、長年地元で基地反対運動を続けてきた人達の経験則を受け入れず、手探りで、様々な広報、対話を模索し、試しながら支持の話を広げ、周囲が予想する以上の結果を出したわけです。

 またロバート・カジワラ氏は、米国人であるにも関わらず、祖先がウチナーンチュだったせいで、辺野古問題に無関心でjはいられなくなり、ホワイトハウス宛に辺野古基地建設中止を請願する署名運動を、インターネットを通じ、世界に呼びかけました。この署名活動は日本国内でも大きな広がりを見せ、これまで政権批判につながる発言がタブー氏されていた日本の芸能界でも、署名への協力を公然と呼びかける芸能人が相次ぎました。更にこの署名運動は、英語での活動だったため、ブライアン・メイ氏など、世界の著名人達からも声援が寄せられ、県民投票の投票率にも、大きく貢献したと、見られています。
https://hbol.jp/183872
https://petitions.whitehouse.gov/petition/stop-landfill-henoko-oura-bay-until-referendum-can-be-held-okinawa
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/361226
https://mainichi.jp/articles/20190108/k00/00m/040/154000c

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/248366/


こうした、県民投票実施に向けての一連の活動は極めて創造的であり、県民投票は、芸術作品そのものではないものの、ヨーゼフ・ヴォイスが1970年代に提唱した、拡張された芸術概念(社会彫刻)の、正に具体例に、該当するのではないかと、思います。
https://ameblo.jp/anthroposophy/entry-12066774044.html
http://kusanone-bunka.com/396
https://hiroshi-s.at.webry.info/201002/article_1.html

彼のような結果を出すには、時間もかかるし運や偶然の出会いも必要で、誰にでも出来ることではないでしょうが、常識に疑問を抱き、その謎を探る過程を表現行為につなげることは、作品を作るスキルのある人なら、できることではないでしょうか? 表現活動は、元山氏のような、具体的な成果を出す必要も、ないのですから。

政府(あるいは政治)が悪で、庶民が善という、芝居がかった勧善懲悪も、今、私達が疑問を抱くべき常識、なのではないかと、思います。














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