「机上の空論」は政治から”アート”へ逃げ込んだか?

大宮市中心部で開催されていた、「埼玉国際芸術祭」を見に行ってきました。

総じて言えば、がんばった企画で、入場無料の企画にしてはよくできていたと思います。
玉石混交なのは、有料のビエンナーレやトリエンナーレでも同じ。
有料と無料の違いは、私自身がいろいろな作品展に足を運んだ経験からすると、世界的に名の通った作家を数多く呼べるか、とか、モノ造りとして完成度の高い作品を沢山持って来れるか、といった部分で、表現の質が、必ずしも料金に反映されるわけではないと思います(とりわけ現代芸術においては)。

とはいえ、この芸術祭に限らず、知識と頭の中の思考でこねくりまわした作品は、手間をかけて作られたものでも、結局は軽薄な印象に留まってしまうのは否めない気がします。ビデオやディジタル編集技術の普及が、表現の幅を広げたかというと、そこは議論の余地が大いにありそうです。作家自身の、心に刺さった”要”は何なのか? その探究を途中で終わらせて、かき集めた素材ぶちまけても、パッと見体裁よく編集すれば許されてしまう状況が、蔓延しているだけかも知れません。

会場で配布されていた資料や、公式HP上の解説を見ると、確かに、理屈の上では立派なコンセプトが並んでいます。論理的には、よほど芸術論を突っ込んで勉強してきた人でなければ、批判的にチェックするのは無理でしょう。前世紀末から盛んになった、市民(とりわけ地元民)参加の意義も、しっかり組み込まれています。

ただ、古今東西、(祭りではなく)、創作行為というのは、”市民”という文化的最大公約数から生まれて来るものなのでしょうか? 日本の伝統文化だけ見ても、茶道も、能も、現在”日本画”と呼ばれる平面表現も、市民はおろか、同業者の中でさえ異端であった者達が生み出した表現でした。今の日本社会に広まっている仏教の宗派も、その多くが、俗に鎌倉仏教と呼ばれる、平安末期から鎌倉初期にかけての異端僧が広めた思想です。

理屈の上ではもっともらしく見えるけれど、それが実行に移されると空虚。大事な事がおろそかにされている懸念がぬぐえない・・・

それはまるで右翼、そして左派と呼ばれるお年寄り達が語る政治談議のようです。現実から遊離した幾つもの”本質”同士が、ただ反目し合いぶつかり合うばかり。先日劇場公開された、「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」で記録されていた、三島と全共闘との討論もそうでした。

机上の空論を振りかざして世渡りする人達は、古今東西、どこの社会にも居るのでしょうが、今の日本では、そういう人達の世渡りの場のひとつが、かつての政治から、アート(芸術ではなくアート、とりわけカタカナでアートと表記される世界)に移行しているような気もします。

20世紀は確かに、表現の世界で、手法や考え方の開拓そのものに大きな意義があったのだと思います。けれど今世紀は、かつての作家が、一枚のキャンパス、一体の彫刻に何を込めるかが問われたように、自身にとっての核心を見極める能力が問われる時代ではないかと思います。どこまでぜい肉をそぎ落とせるかが、パソコンで何でもできる時代だからこそ大切なのではないかと。

P.S.
放送作家やジャーナリストの真似事にしか見えないビデオを何十分も、あるいは何本も流して、アートだと言ってる人達や、一般人のインスタグラム投稿とどう違うのか? 分からない写真とキャプションを並べてアートだと言ってる人達を見て、いつも思い出すのは、平山郁夫晩年の作品「平和の祈り-サラエボ戦跡」。

後半生は、シルクロードの文化財発掘調査の資金作りのために絵を売るような恰好になって、作家としての評判は、必ずしも良くはなかった平山郁夫が60代後半に差し掛かった1996年、NHKのスタッフと一緒に、停戦したばかりのボスニア・ヘルツェゴヴィナを取材して、その取材を元に一枚だけ、日本画を描いて日展に出した。世間から、偉そうな大家と思われていた作家が、それまでの自分の(遺跡発掘の資金作りで駆使した)作風を脇に置いて、(日本の)他の有名な絵描きが、どんなに財産があってもやらないようなスタンスでガツンと、アーティストだから出来ることを、行動で示した。安全が確保されたとは言い難い場所を、何日も回って、日本画家平山郁夫の作品としては一枚だけでした。

https://walkdntrun.exblog.jp/16976960/

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント