知ると一層遺作が惨めに映る(”三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実”を見て)

今から半世紀ほど昔、東大駒場キャンパスで行われた、三島由紀夫と全共闘の学生たちの討論フィルムから制作されたドキュメンタリー「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」を観てきました。 https://gaga.ne.jp/mishimatodai/ トークショーの記録として見るなら、この上なく面白い討論で、今日、これほど面白くて質の高いバトル出来る人達が居るだろうか?と思うほど。けれどその充実した内容を知ってしまうと、この討論から一年半後に三島が遺した遺作(自決)の内容が、あまりに惨めで悲しくなります。 本作の第一印象は、思想や哲学を、自分の日常の糧になるまで咀嚼した人は、畑違いの人達にとってもこんなに刺激的で面白い論議が出来るんだという驚き。そして三島由紀夫は、聴衆を魅せるためなら今でも言う自虐ネタも厭わず、自身の思想の背景になった自分の思春期の影響も隠さず、そこから逃げない。(当時世界同時革命を標ぼうしていた全共闘の)学生から「それでは日本人から一歩も出られないじゃないか」と言われば、「出る気は無い」と返すリアリスト。議論の勝ち負けなど関係なく、どれだけ実りのある議論が出来るかに徹している。とても魅力的なステージ。 三島由紀夫の魅力を引き出した全共闘の学生達の、勉強ぶりも見事。特に、全共闘に加わっていながら、現実的な社会変革には興味を示さず、芸術家としての”解放区”作りに徹しようとする芥正彦と、芸術界のトップスターに登り詰めながらそこに留まることをよしとせず、社会変革を目指してもがく三島由紀夫という、対照的な二人のやりとりは、どちらが正しいという訳ではなく、今も昔も変わらず、表現を極めようとする者が直面する葛藤を、端的に表していているようで、とても勉強になりました。 今も現役のアーティストである芥正彦は、表現者としての道を踏み外さなかったと言える一方、安全な場所から一歩も出なかったとも言えるでしょう。片や三島由紀夫は、見世物のような死に様を想うと、道を踏み外して哀れな最期を遂げたとも言えそうですが、真摯に現実社会に向き合ったことも否定できないでしょう。 三島はこの討論会で、自分の言う天皇とは、現実の天皇制でも天皇のことでもなく、日本の民衆に染みついている意識を象徴的に表した言葉だと説明していましたが、芸術は、既存のしがらみから自由になってこそと、討論会でも一貫して主張していた芥は、本作制作のため新たに行われたインタビューでも、(天皇を国のトップに掲げようとする)自分と共闘してほしいと、学生に呼びかけた三島に対し、「学生をばかにしていた」と語り、今でも三島の考えを容認していません。この対立は、あって然るべきでしょう。 とはいえ・・ この討論を、社会運動の討論として見れば、上から目線も甚だしい机上の空論バトル。こんなことしてたから、(三島も含めて)彼らは結局、何も変えられなかったという、反面教師の典型例であることも、否定できないと思います。 実際、討論の壇上で持論を語っていた当時の学生達(のうち存命の人達)は、本作のためのインタビューで学生運動の総括を問われても皆、のらりくらり、うやむやに語るのみ。主義主張が一貫しているのは討論の当時から、闘争を表現行為の一環としか位置付けていなかった芥のみで、現代の社会運動に関わる人達にとって、学びになるような話は、彼らが結局は何も変えられなかったという現実以外には、見当たりませんでした。 そして私達は皆知っている三島の遺作(自決)。言葉で語る物語は、言葉の世界だから魅力的なのであって、それをそのまま現実にやってしまったら、単なるアブナイ人間にしかなりません。 人に対して誠実な三島は恐らく、自分の闘争的な主張を曲げず、なおかつ実際には誰も傷つけないように、熟慮に熟慮を重ねて、あの自決を遂げたのだとは思いますが、本作の討論場面を見てしまうとなおさら、道化のような三島の死に様が惨めに見えます。あれで自衛官が決起すると本気で考えるほど、思慮の浅い人ではなかったはずなのに。 あんな無様な死に方をせず、成田空港闘争や湾岸戦争のときも三島が社会に激を飛ばしていたら、今ほどレイシストや、対米隷属でしかない(自称)保守、(自称)右派の類が、世間で大きな顔をすることもなかったでしょう。 あんな死に方では、当時20歳そこそこの若造に過ぎなかった芥が討論で、(芸術家としての)三島の活動を批判した「敗退」という指摘を、否定できないでしょう。  他の死に様は、なかったのか・・・・
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随時更新中:改憲が必要という、自民党の嘘(新型コロナウイルス肺炎対策を巡る、政権の不可解な怠惰)

今年一月、新型コロナウイルス肺炎(COVID-19)の感染爆発により、中国の武漢が封鎖されて以来、野党各党は、PCR検査の大幅拡大をはじめ、新型インフルエンザ等特別措置法の適用による外出自粛要請と休業補償等の金銭支援、新たな医療施設、機材、資材の確保などを政府に求めてきましたが、与党自民党はこれらをことごとく拒否し、対策を遅らせ、マスメディアの批判記事に晒されても、諸外国からの立ち遅れは、一向に改善されていません。 https://webronza.asahi.com/business/articles/2020042000004.html https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-52482946 https://toyokeizai.net/articles/-/347451 https://johosokuhou.com/2020/04/30/30254/ https://news.yahoo.co.jp/byline/takahashikosuke/20200430-00176176/ https://www.newsweekjapan.jp/marukawa/2020/05/post-62.php https://digital.asahi.com/articles/ASN5461B5N54ULBJ00Q.html https://digital.asahi.com/articles/ASN555QVWN54UTIL02Q.html https://toyokeizai.net/articles/-/349413 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59132920U0A510C2EA2000/ 5月1日には厚労省の専門家会議が、世界的に極めて稀なほど少ないPCR検査のデータから、強引に感染者数の増減を推計して公表したものの、その数値は4/7の緊急事態宣言発出時に既に感染者数がピークアウトしていた事を示すという、専門家会議の見解や外出自粛を要請する政府の政策を自ら否定するもので、日本での検査体制のずさんさが、改めて露呈する結果になりました。 https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020050400001.html (2月には、政府は国内での検査拡大を拒否する一方で、海外に検査キットを提供していました。自民党や、厚生労働省の対応を支持する医療研究者・従事者達は、PCR検査での誤判定率(陽性者を陰性と判定してしまう確率)などを理由に、検査拡大の必要性を否定していますが、 これはもっぱら、検査が本人の治療の役に立つかという視点の議論で、現在問題となっている、PCR検査が防疫に貢献するか、という議論を避けるための詭弁です。新型コロナウイルスの場合、PCR検査は、一人でも多く、感染者を隔離して、感染の蔓延を抑制するために行われていることを、忘れてはいけません。検査数を増やすと、病院が陽性者でパンクするという詭弁も、実は、新型コロナウイルスを、指定感染症ではなく、新型インフルエンザ等特別措置法の対象として、軽症者をホテル等(同法で規定されている臨時の医療施設)に隔離すれば解決する問題でした(2月半ばに野党が指摘済み)。 それどころか現実には病院がパンクする前に、4月以降、疑わしい症状が出てもなかなかPCR検査が受けられず、検査の結果が出る前や検査を受けられずに命を落とす人が、清水建設社員のケースが報道されて以降東京を中心に相次ぐという、取返しのつかない事態になってしまいました。 厚生労働省の政策の誤りは、感染症の専門家でなくても、計画立案・管理の素養があれば分かるほどひどいものでした。新型コロナウイルス感染症対策専門家会議クラスター対策班の押谷仁に至っては、今年2月25日のNHKニュースでは、「クラスターを見つけ連鎖を防ぐ態勢はできつつある。日本の状況は極々早期の段階、軽症の人は99.99%は感染していない。」と、PCR検査の抑制を正当化する解説しておきながら、4月4日放映のNHKスペシャルでは、2月25日の時点で、PCR検査を徹底的に行っても感染連鎖をすべて見つけることは出来ない状況だったと、2月の説明とは相矛盾する後付けの言い訳で、責任逃れを図っていたことが、ネットで批判されています。) そのうえ自民党は、今年1月末から、野党からの要求を拒否する一方で、新型コロナウイルス肺炎を利用して改憲運動を進めよと、党内にハッパをかけ https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/202001/CK2020013102000138.html https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55152430R00C20A2000000/ 緊急事態宣言が出され、政府が民間に対して休業要請、外出要請を出す中でさえ、自民党は党内の憲法改正推進本部の会合を強行し野党に改憲論議への参加を呼び掛けるなど、改憲の推進に固執しています。 https://this.kiji.is/621168423787545697?c=39550187727945729 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57922670Q0A410C2EA3000 こうした経緯を見ると自民党は、感染症対策を遅らせることで、あたかも憲法を変えなければ感染症対策が出来ないという誤った認識を、国民に植え付け、改憲強行を図っているように見えます。実際、自民党の公式発表ではないものの、自民党議員や、支持者達からは、憲法を変えなければ、強制的な外出規制も、強権を用いた医療支援もできないと言う話が、しばしば聞こえてきます。 けれど、現行憲法の条文を見ると、そのような制約はどこにもありません。 現行憲法では、 ・国民は、その自由と権利を、常に公共の福祉のために利用する責任を負っています(第12条)。 ・生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、公共の福祉に反しない限りにおいて、最大限尊重されます(第13条)。 ・居住、移転及び職業選択の自由にも、公共の福祉に反しない限りという制約が付いています。(第22条)。 ・更に私有財産も、正当な補償の下に、これを公共のために使うことができます。(第29条) つまり現行憲法下であっても、感染症蔓延防止という、公共の福祉のためであれば、様々な私権制限が可能です。 人々に強制的な外出制限を科すロックダウンでさえ、健康で文化的な最低限の生活を保障して、子供が教育を受ける権利を保障して、財産権を補償した上でロックダウンさせる法律を作るなら、現行憲法下でも、違憲にはなりません。 言い方を変えれば自民党は、国民が被る損失を補償せずに、強制措置を取りたいから、改憲に固執していると思われます。 海外では、中国、韓国などのアジア諸国も含めた先進諸国で、外出制限に伴う国民の損失を、国が補償する体制が次々整えられ、実施される中 https://www.shopify.jp/blog/small-business-government-relief-programs https://news.yahoo.co.jp/byline/mutsujishoji/20200406-00171637/ https://note.com/nyankoro_mochi/n/n418fc3ea0461 https://toyokeizai.net/articles/-/348167 自民党が、野党のみならず自治体首長からも要求されている、営業自粛、外出自粛に伴う損失の補償を、ことごとく拒否している現状からも、自民党が国民や事業者への損失補償をしたくないがために、ずるずると、感染症対策を遅らせている様子がうかがえます。 なお弁護士の宇都宮けんじさんは、たとえ要請であっても、外出自粛や休業を政府が要求する以上は、憲法第29条に定められた、国民が被る損失に対する正当な補償を、政府がしなければならないと、主張しています。 https://twitter.com/utsunomiyakenji/status/1248843975785504768 自民党政権の怠惰は、検査拡大の遅れや所得補償の拒否だけではありません。 医療現場では、新型コロナウイルス患者増大に伴う診察業務の制約や、院内感染拡大に伴う診療停止、医療従事者不足が深刻化する一方ですが、 https://www.news24.jp/articles/2020/04/03/07619919.html https://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2020-04-05/2020040501_01_1.html https://jp.reuters.com/article/japan-coronavirus-hospitals-idJPKBN21O0EY https://www.newsweekjapan.jp/headlines/world/2020/04/270602.php https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58077770V10C20A4MM8000/ https://www.nishinippon.co.jp/item/n/600947/ https://note.com/yo_tsu_ya_3/n/na4fb2c05ff55 https://this.kiji.is/625097079493821537 https://this.kiji.is/627055357531096161 https://www.asahi.com/articles/DA3S14456875.html https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200416/k10012389611000.html https://times.abema.tv/posts/7050422 https://www.j-cast.com/2020/04/16384389.html https://news.biglobe.ne.jp/it/0416/nlb_200416_2245680345.html 自民党は医療現場への支援策が具体化しない中突然、各世帯に、たった2枚の(劣悪な品質の)布マスクを配布するために、466億円もの国費を使うと発表し、各界から大きな批判を浴びています。 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200409/k10012377121000.html https://twitter.com/emil418/status/1250723077467471872 466億円があれば、新型コロナウイルス患者の増加につれ、不足が懸念されている人工呼吸器の調達に加え、医療体制の拡充や治療に必要な人材の雇用増加等に充てることができる他 https://twitter.com/renho_sha/status/1247805035766935553 医療用の使い捨てサージカルマスクの購入に宛てれば、日本国内の医療従事者3か月分の量が確保できるという指摘も出ています。 https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/2-masks-kusaba 1月半ばに中国の武漢が封鎖されて以来、中国との人の往来が活発な日本も、感染爆発に伴う医療崩壊が懸念される中、政府が医療職用装備の増産をメーカーに打診し始めたのは、4月に入ってからでした。 https://twitter.com/meti_nippon/status/1247368433823387648 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58089260V10C20A4MM8000/ 今年の2月以降、医療現場でのマスクや防護服の枯渇や不足がたびたび報じられていた中、 https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/report/t344/202002/564405.html https://www.m3.com/open/iryoIshin/article/746127/ https://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20200401/CK2020040102000020.html https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200413/k10012385191000.html https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/202004/CK2020041502000145.html https://times.abema.tv/posts/7050294 https://note.com/yo_tsu_ya_3/n/na4fb2c05ff55 https://twitter.com/buu34/status/1250782420686659584 日本政府は生産余力のある海外メーカーにさえ、供給を打診していなかった疑いも持たれています。 https://twitter.com/koheikana/status/1249963500304125953 私達が今最優先でなすべきことは、外出自粛要請の拡散でしょうか? 自民党政権の言うなりになっていれば、日々食べる物を買うお金がなくなる人が続出し、医療崩壊が全国に広まるのも時間の問題になってしまいます。 P.S. 政府はあたかも、自粛に伴う損失補償を始めているかのような情報も、流していますが、政府が実施済みだと宣伝した、雇用調整助成金の対象拡大は、千を超える申請の中で、4月上旬時点でたった一件、4月末時点でも申請の0.1%しか支給されていなかったことが、既に明らかになっています。 https://twitter.com/maiko_tajima/status/1248409176885231620 https://news.yahoo.co.jp/byline/mizushimahiroaki/20200429-00175816/ また、新型コロナウイルス肺炎で深刻化している、医療従事者不足、病床不足の背景には、自民党政権による、長年の、医療予算削減があります。 https://jp.reuters.com/article/japan-coronavirus-hospital-idJPKCN21Y0FZ https://www.msn.com/ja-jp/news/coronavirus/%E3%81%84%E3%81%BE%E7%97%85%E9%99%A2%E3%81%8C%E5%8D%B1%E3%81%AA%E3%81%84%EF%BC%81-%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E7%97%85%E5%BA%8A%E3%81%AF20%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AE%E7%B4%84%E5%8D%8A%E5%88%86%E3%81%AB%E3%80%81%E5%8E%9A%E5%8A%B4%E7%9C%81%E3%81%AF%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%82%92%E4%BA%8B%E5%AE%9F%E4%B8%8A%E6%94%BE%E7%BD%AE/ar-BB126fRC https://hc.nikkan-gendai.com/articles/272059 一方、新型コロナウイルス蔓延を抑制するためロックダウンに踏み切ったドイツは、日本とは正反対に、感染症蔓延に備えた医療体制の充実に取り組み続けた結果、医療崩壊を免れ、新型コロナウイルス肺炎でも、他国より低い致死率を達成しました。 https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00023/042000163/ https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020042000010.html https://www.afpbb.com/articles/-/3281152 なお、日本国内では、欧米の事例から、感染爆発防止には強制的な外出制限、いわゆるロックダウンが不可欠という論調が殆どですが、台湾と韓国では、徹底した感染検査と感染者隔離、そして厳しい入国規制によって、ロックダウンを免れている点に、注目すべきでしょう。 https://www.jiji.com/jc/article?k=2020041500944 http://akimotokazuya.com/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%B9%E6%84%9F%E6%9F%93%E8%80%85%E6%95%B0%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%AB0%E4%BA%BA%EF%BC%81%EF%BC%81/ https://friday.kodansha.co.jp/article/108687 https://toyokeizai.net/articles/-/340150 https://www.dailyshincho.jp/article/2020/04160600/ https://news.yahoo.co.jp/byline/pyonjiniru/20200415-00173446 https://twitter.com/eunjoo__jp/status/1250581937179123712 https://news.biglobe.ne.jp/international/0506/tbs_200506_3826053692.html 韓国のPCR検査方式は実質的に世界標準となり、台湾の新型コロナウイルス対策では、いわゆるIT技術を駆使した情報共有、情報公開に特筆すべき先進性が見られます。 新型コロナウイルス肺炎対策にまつわるIT技術の活用について、同国デジタル担当政務委員のオードリー・タン氏が、 >台湾では、政府よりもシビックセクター、ソーシャルセクターの方により権威があり、むしろ政府よりも支持されているほどです。 >内閣は、ソーシャルセクターやその一部であるシビックテックコミュニティと敵対するよりも、むしろ積極的に協働することが文化となっているのです。 と語り、権力を権威化させない民度の高さを示唆している点にも、注目すべきでしょう。 https://note.com/blkswn_tokyo/n/ne3513163c79b 以下、その他参考資料: PCR検査に関する問題 https://jeaweb.jp/covid/qa/index.html https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/1c8c791a40369bc7393ccb62a2c0a3e3 https://dot.asahi.com/aera/2020041700078.html https://access-journal.jp/49042 http://iina-kobe.com/entry151/amp/ http://iina-kobe.com/entry156/ https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/report/t344/202004/565349.html https://www.asahi.com/articles/ASN4V7WZCN4QUDCB00B.html https://twitter.com/ben501002/status/1255659026433470464 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57773940X00C20A4XB0000/ https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60385 https://www.worldometers.info/coronavirus/ http://cyuoh-ah.jp/blog/2060/ http://cyuoh-ah.jp/blog/2067/ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/272862 https://mainichi.jp/sunday/articles/20200518/org/00m/010/003000d https://rplroseus.hatenablog.com/entry/2020/05/22/222008 https://rplroseus.hatenablog.com/entry/2020/05/24/203515 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60128210Y0A600C2MM8000/ 経済・医療・教育支援関係 https://www.mag2.com/p/money/907698 https://diamond.jp/articles/-/236129 https://withnews.jp/article/f0200501001qq000000000000000W04v10301qq000021015A https://digital.asahi.com/articles/ASN4Z3HBDN4XPTIL03K.html https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5ea917acc5b6fb98a2b4dccd https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2020050402000126.html https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/05/post-93331_3.php https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20200505-00177052/ 給付金事業受託を巡る、電通、パソナ、経産省などによる不正 https://note.com/tokyodistillery/n/nb49eab457717 https://bunshun.jp/articles/-/38064 https://www.tokyo-np.co.jp/article/31661 https://www.tokyo-np.co.jp/article/32435 https://www.tokyo-np.co.jp/article/32679 https://www.tokyo-np.co.jp/article/32684 https://www.tokyo-np.co.jp/amp/article/32951 https://www.tokyo-np.co.jp/article/33216 https://digital.asahi.com/articles/ASN616744N61ULFA022.html https://digital.asahi.com/articles/ASN5Z3PXWN5YULFA031.html https://digital.asahi.com/articles/ASN636523N63ULFA01W.html https://www.tokyo-np.co.jp/article/34782 https://www.tokyo-np.co.jp/article/34780 https://mainichi.jp/articles/20200610/k00/00m/040/256000c https://www.tokyo-np.co.jp/article/35000 地方自治体独自の模範的取り組み 鳥取県 https://bunshun.jp/articles/-/37406 沖縄県 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1112306.html 愛知県 https://digital.asahi.com/articles/ASN517S50N51OIPE01N.html https://www.pref.aichi.jp/site/covid19-aichi/020501001.html 和歌山県 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200329-00010000-mbsnews-sctch https://www.mbs.jp/mint/news/2020/03/27/076177.shtml https://www.agara.co.jp/article/56637 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58726560R00C20A5LKA000/ その他 憲法、社会情勢 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%85%B1%E3%81%AE%E7%A6%8F%E7%A5%89 https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/272597 https://dot.asahi.com/aera/2020043000017.html 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https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20200516-00178807/ https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20200517-00178891/ https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20200516-00178852/ https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/t344/202005/565493.html https://hbol.jp/220596
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短文投稿:ほんとはいつからだったのか?(自己責任の蔓延)

今世紀に入ってからの日本固有の(悪い意味での)社会現象としてしばしばメディアに取り上げられるようになった「自己責任」。ほんとうに今世紀にはじまった風潮なんでしょうか? 社会学者の橋本健二氏(早稲田大学教授)は、”自己責任”を明確に拒絶する政策要求で注目を集めた、山本太郎について語るインタビューの中で、日本に蔓延する”自己責任”について、下記のように述べています。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69315 ---- 以下引用 ---- >橋本「ものごとを選択する余地がある場合に限り、人びとは責任を問われるべきです。アンダークラスの人びとに自己責任論は成立しません。低賃金で不安定な仕事を社会的に強制されているのです」 (中略) 橋本「自己責任論には表と裏、プラスとマイナスのふたつの側面があります。プラスは『自分が恵まれているのは自分のおかげだ』、『自分が努力し、能力があったからだ』という側面です。これがマイナスにはたらくと、『自分が貧乏なのは自分のせいだ』となります。これは表裏一体の関係です。新中間階級はこれまで勉強や仕事で成功してきた人たちです。この人たちはまず、自身の成功を プラスの側面で考える。『自分の地位や財産は自分で築いたものだ』という見方です。 そしてこの層の人びとは論理的にものを考えますから、いま世の中にある貧困についても同様の考え方をする。『貧しいのは本人の責任だ』。そうしておかないと論理整合性がとれないのです。こうして、強固な自己責任論が成り立ちます」 ---- 引用ここまで ---- このような解説を読むと、私の親や祖父母世代にも、今で言う”自己責任”を振りかざしている人達は、決して、珍しくなかったような気がします。 考えてみれば、日本社会でよく言われる、「感謝の気持ち」や「思いやり」というのは大抵、私が小学生のとき受けた道徳の授業なども含めて、キリスト教社会で言われる”博愛”や、仏教で言う”慈悲”とはいささか違って、自分との利害関係(金銭面だけでなく、世間体など社会的評価も含めて)が見通せる相手に、限られた話だったように思います。 それに加えて、その、利害関係が見通せる範囲でさえ、歳を取るにつれて、重要な評価基準が、感謝でも思いやりでもなく、競争の中のポジションになって行く。 私が、物心ついてから今に至るまで、日本の社会は半世紀以上一貫して、そういう方向に変化し続けているように見えます。 そういう社会の中で、安定した居場所を確保した大人達が、若い世代を、勝ち負けの軸でしか評価されない(どころか生活基盤さえ奪われかねない)世界に追い詰めながら、勝ち負けに縛られた世代を捕まえて、「お年寄に席を譲らない」だの「思いやりが無い」だのと、マウンティングして自分達の正義を誇示する。 その延長線上に現れたのが、今世紀に入って過激化した、”自己責任”による、日本社会の自滅ではないかと思います。 更に今世紀に入ってからの特徴は、政権側の政治家が自己責任の名の下、本来国家が責任を持たなければならない、国民の安全や、健康までも、公然と国民の側に責任転嫁をするようになった点です。 そのきっかけは、イラク戦争において、イラクで人質となった日本国民に対する、政権側(自民党)の政治家による非難ですが、 https://bunshun.jp/articles/-/9514 自民党の政治家たちがこぞって、日本政府の退去勧告に従わなかったことを、無責任だと非難していた一方、当時米国政府の国務長官だった、コリン・パウエル氏は、イラクで捕らわれた日本人の人質について >より良い目的のため、みずから危険を冒した日本人たちがいたことを私はうれしく思う >彼らや、危険を承知でイラクに派遣された兵士がいることを、日本の人々は誇りに思うべきだ とコメントしたのを忘れてはいけません。 自民党の政治家は、権力の指示に従うかどうかを、唯一の善悪の判断基準にしていたのに対し、 パウエル氏は、イラクへの攻撃の中心となった米国の閣僚という立場でありながら、戦場からの退避を拒否した彼らについて、権力の都合ではなく社会的な観点から評価したわけです。 日本では今なお、現実に起きている日本社会の自滅に対して、明確に”NO”を突き付けているのは、日本の野党の中でも、共産党社民党、そして、(俗に、ロストジェネレーションと呼ばれる世代の)山本太郎(率いるれいわ新選組)しか見当たらないのが実情です。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65987
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人間がAI化したような・・ - カミーユ・アンロ展を見て -

東京オペラシティーアートギャラリーで開催中の、カミーユ・アンロ(Camille Henrot)展を観に行ったのですが、非常に印象的だったのは、その表現手法の多彩さでした。 生花、絵画(ドローイング)、インスタレーション(それも、400㎡ほどの展示室全体を使った巨大な)に、ビデオ作品。作家本人のウエブサイトを見ると、彫刻作品も多数あり、作家として作品発表を始めてから10年も経っていないにも拘らず、既に多岐に渡る手法で多数の作品を発表しているのが分かり、その並外れた制作力に圧倒されます。 オペラシティーギャラリーに展示されていた生花や絵画を見ると、彼女はもともと、手先の器用さも美学の吸収力(既存の知識や技能への好奇心と集中力)も、生半可ではないようですが、一連の作品は良くも悪くも、バランスの崩れもなくそつない印象があり、作家自身の内面の表出というより、現代芸術というのはこういうものです、という解説を見ているような印象も受けました。 大きな部屋全体を使ったインスタレーション「青い狐(The Pale Fox)」では、その、”解説”のような印象は更に強まり、まるで作家が、人間の営み全体に対する、総括・評論を試みているような印象を受けました。 会場の一番奥で上映されていたビデオ作品「偉大なる疲労(Grosse Fatigue)」に至っては、博物館に収蔵されている資料などを映像素材にして、人間が築いてきた知の体系を、自然科学も宗教も含めた(両者を知の営みとして同列に扱っている)俯瞰的な視点から、科学用語と世界各地の神話から引用した詩をラップ風に語る声をBGMにして見せるという、正に解説そのもの(ただしあくまでアート作品なので、論理的一貫性は無い)。そして最後に、その知が招く孤独(自分が全てを知る神になってしまったら、世界には神以外、誰もいなくなってしまう)を語るという、総括まで付いていました。 10年に満たない短期間で、並外れて多彩な表現を展開する彼女は、既存の美学や技能を身につける能力が並外れているのは言うまでもないですが、それだけなら、ただの優等生に過ぎず、世界的に注目されることは無かったでしょう。 では彼女の唯一無二な部分はどこにあるか? というと、テーマに合う素材を取捨選択する、編集者としてのセンスと決断力ではないかと思います。「偉大なる疲労」は、彼女が2013年に、スミソニアン博物館のフェローシップで活動していた間に制作されたもの、つまり一年足らずで制作されたもので、壮大な物語を1年足らずで、たった13分のビデオに凝縮させたのであれば、彼女の名が世界に知れ渡ったのも無理はありません。実際、ビデオの映像を見ると、映像素材の撮影段階で既に、撮影対象がある程度絞り込まれていた(博物館に保管されている剥製など、生物標本の映像が多かった)ように見え、彼女の手際の良さが伺えます。 「青い狐」は、インターネットで調べて見ると、実は、「偉大なる疲労」制作の翌年の2014年、「偉大なる疲労」に基づいて制作されたインスタレーション「The Pale Fox」を、本展向きにアレンジした展示のようで、元の"The Pale Fox"では、人間が持つ、世界を隈なく知りたいという強迫的な好奇心が、テーマになっていたようです。本作に使われている素材集めには、多くの人々の協力があったようですが、それにしても、どの素材を選び?それぞれをどこにどう配置するか?を判断するのによほどのスピードがないと、数百平米の展示空間を膨大な素材で満たすインスタレーションなど、構成できないでしょう。 カミーユ・アンロの一連の仕事は、作家ならではの見方、見え方(つまり主観)が前面に出る、近代芸術における創作とは趣が異なり、人間の営みを、芸術自体も含めて、俯瞰的に捉えて、それらに通底する原理原則を、抽出しようとしているようにも見えます。まるで、現代のAI(機械学習ソフトウエア)が、膨大な学習データを読み込んで、文章の要約を作ったり、人間の代わりに何かを作ったりするように、彼女は次々と、作品を生み出していいるかのようにも見えます。 ありとあらゆる情報が溢れる海に溺れることなく、水を巧に操る彼女はまさに、ネットワーク社会の申し子と、言えるのかも知れません。
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2019年10月27日追記:当初は知事も少女像展示に反対だった(あいちトリエンナーレと大村知事)

展示妨害の脅迫が相次いだ、あいちトリエンナーレに対して、文化庁(というより萩生田文部科学大臣)は、既に決定済みの助成を取りやめたと、報道されていますが、その口実「事前の申請内容が不十分」を用意したのは、他ならぬ愛知県である点に、注意する必要があります。 助成取りやめが報道される前日の9月25日、愛知県は、脅迫の原因となった少女像の展示について、責任を全て芸術監督に転嫁するマスコミ発表を行いましたが、 https://mainichi.jp/articles/20190925/k00/00m/040/219000c https://www.huffingtonpost.jp/entry/hyougenn-no0hujiyuu-ten-geijutsukantoku_jp_5d8b202ee4b0c6d0cef3d4d1 その発表内容をよく読むと実は愛知県は、芸術監督を批判する体裁を取りながら巧妙に、問題となった少女像の芸術性も、否定していることが分かります。 愛知県は、検証委員会という体裁で、芸術監督に責任を転嫁していますが、その、検証委員会がトリエンナーレを、 >広く県民が楽しめる祭典 と、芸術を、レジャーと履き違えた位置づけをしている所からして、芸術のために奮闘した関係者、芸術の展示を期待する来場者を、バカにしています。日本各地で行われているトリエンナーレが、ヴェネチアビエンナーレなど、社会問題に正面から向き合う、欧州の芸術祭を模倣して始まった経緯を考えても、検証委員会の、 >「政治的テーマだから『県立や市立の施設を会場としたい』という芸術監督(津田氏)や不自由展実行委員会のこだわりは、公立施設が想定する使用目的から逸脱している」 という見解は、履き違えも甚だしいものです。 私は今回も含めて過去3回、あいちトリエンナーレの展示作品を見に行きましたが、検証委員会のメンバーが、これまであいちトリエンナーレで展示された作品群を知った上で >広く県民が楽しめる祭典 と言っているのだとしたら、愛知県民は、現代芸術への理解力が、日本社会の中では並外れて高い(大抵の日本人には全く楽しめない、どころか嫌悪感を抱かせかねない作品でも、じっくり鑑賞して様々な想いを巡らせることができる)ということになり、そもそも「表現の不自由展・その後」への批判(実質的には少女像の展示中止要求)は、少なくとも県民の間からは沸き起こらなかったでしょうし、名古屋市長が公然と、幼女像の展示中止を要求できる状況にはならなかったでしょう。ましてや脅迫などの展示妨害に対しては、ほかならぬ県民が、強く批判していたでしょうし、(先日ブログで指摘したように)愛知県警が妨害への捜査を渋るような事態は起きなかったでしょう。 その上同委員会は、史実を題材にしただけの「少女像」について、 >「政治性を認めた上で偏りのない説明」が必要 としていますが、史実を題材にすることが政治性なら、歴史を題材にした絵画などは全て、政治性を認めた上で偏りのない説明が必要になります。しかし愛知県が(私も所用で何度も愛知県に行き、県立美術館の展示は見ていますが)、少女像以外の、歴史を題材にした絵画の展示で、そのような説明をしているのを見たことがありません。実際検証委員会も、問題となった少女像について、どのような説明が望ましかったのかについては一切言及しておらず、実は、”偏りのない説明”とは何かを、一切提示していません。つまり検証委員会を名乗りながら、検証などしていないのです。 こうしたコメントは表向き「説明不足」という体裁を取っていますが、政治性があると決め付ける事自体が、少女像の芸術性(普遍性)を否定する内容で、少女像(のオリジナル)の作者への冒涜でもあります。そもそも、表現の自由が保障されている社会で、作品の中で史実がどう受け止められているかを、いちいち説明(=言語化して公表)しなければいけないという考え自体が、表現の自由を否定する態度です(言語化しなければ表現してはいけないと言うのなら、文学を伴わない表現は、成立しないことになる。ましてや抽象的な表現は)。 また検証委員会は、あいちトリエンナーレへの脅迫の口実が、(少なくとも報道を見る限りでは)少女像一点に集中し、他の作品については批判に留まっていたにもかかわらず、 >慰安婦を表現した少女像や昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品などに抗議が集中した と、抗議と展示妨害とを混同させ、少女像が問題の核心であったにも拘らず、他の作品と少女像とを同列に述べ、問題をぼかしている点も姑息です。 このように検証委員会は、少女像の展示や説明の是非について、具体的な論評を避けているにも拘らず、芸術監督の言動について、 >「誤解を招く展示が混乱と被害をもたらした最大の原因は、無理があり、混乱が生じることを予見しながら展示を強行した芸術監督の行為にある」 と結論づけていますが、これは、結論を裏付ける根拠を提示しない決め付けで、責任転嫁に他なりません。 更にマネジメントの基本に立ち返ってこの騒動を振り返ると、そもそもあいちトリエンナーレにおいて、芸術監督は、具体的にどのような事項について決定権や指揮権を持っていたのか? 具体的な責任範囲が、少なくとも私の知る限りでは、全く公表されていません。展示する作品の選定までのプロセスについて、芸術監督が権限を持っているだろうことは予想できますが、では、トリエンナーレの実行委員会が展示を承認した作品についての、安全な展示(作品の保護)と来場者の安全な鑑賞について、誰(どの役職)が、どのような権限と責任を担っているのか? 少なくとも私の知る限り、愛知県は一切明らかにしていません。 このように、責任の所在があいまいな組織での問題を取り扱う場合、最高責任者以外の責任を問題にしようとすれば、責任範囲があいまいなのですから、どうやっても責任転嫁にしかなりません。換言すれば、これまで公開されている情報を見る限りにおいて、あいちトリエンナーレの問題については、最高責任者である実行委員長、つまり愛知県知事の責任を問うこと以外は不可能で、愛知県知事以外の役職の責任を問題した、検証委員会の活動そのものが、責任転嫁だと、言っても差し支えないだろうと思います。 つまり愛知県は、検証委員会という体裁を使って、芸術監督に責任を転嫁した上に、少女像の展示まで否定的に評価していたわけで、愛知県自らが公然と、自らの決済で実施を承認した事業を後から、まるで部下が勝手な真似をしたかのように批判したのでは、文化庁(萩生田)に、展示内容をきちんと事前に申請しなかったと、因縁をつけられても仕方ありません。 大村愛知県知事は、政府に対し、補助金支給を取りやめるなら国を訴えると述べていますが、自ら展示内容に問題があると認めておきながら、補助金だけは確保しようというのは、虫がいいのも程があります。彼は表向き、展示中止に追い込まれた「表現の不自由展・その後」について、再開を目指し”たい”と述べていますが、再開する、あるいは再開を目指すといった、トリエンナーレ実行委員長でもある、自らの責任が問われるような発言を避けている点にも、注意する必要があります(2019年9月末時点)。 つまりどういうことかというと、大村愛知県知事は、トリエンナーレの展示妨害について、自らがトリエンナーレ実施の最高責任者であるにもかかわらず、その責任を全て、展示内容の検討という部分的な権限しか無い芸術監督に転嫁した上で、自らは責任を問われないよう、形式的に、展示再開を希望して見せて、補助金だけはしっかりもらおうとしているわけです。彼は、少女像の展示中止を公然と要求した名古屋市長より、悪い意味で一枚上手です。 私は先日もブログで指摘しましたが、県知事は、県警を指導・監督する権限があり、トリエンナーレの展示を妨害する、執拗な電話や脅迫について、県警に徹底検挙を指示する責任がありました。しかし、その責任を何ら果たさないまま、(検証委員会という体裁を使って)責任を全て芸術監督に転嫁するという姑息なことをしています。彼に、表現の自由を守ろうとする使命感があったとは、考えにくいです。 2019年9月30日追記: なお、「表現の不自由展・その後」を中心に追い込んだ脅迫電話のうち、少なくとも一件は、自民党員が掛けていたことが、既に明らかになっています。 https://mobile.twitter.com/FFMatudo/status/1177962219759267845 この自民党員は、ネット上で松平美濃守と名乗り(脅迫の電話をかけたことが世間に知られた後、ハンドル名を変えている) >自民党員 (河野太郎防衛相支持)。 座右の銘は「お天道様は見ています」。アイコンは不屈の宇宙飛行士、アラン・ シェパード。日本核武装論&パチンコ廃止論者。FGO民(ゆるめ/強運) という自己紹介で、自ら自民党員であることをアピールしていましたが、 あいちトリエンナーレ検証委員会が一連の電話の音声を公開した際、自分の音声を勝手に公開したと腹を立て、そのことをツイートしてしまった(自分が電話の主であると名乗り出た)ため、そのツイートを数多くのネットユーザにスクリーンショットされてしまい、彼が「表現の不自由展・その後」を中止するよう脅した人物の一人であることが、世間に知れ渡ってしまいました。 またこの、松平美濃守と名乗っていた人物が、岐阜県大垣市在住の自営業者(HP制作請負などの)らしいことも、ネットユーザの追跡によって、明らかになっています。 http://okinawansea.hatenablog.com/entry/2019/09/28/231736 2019年10月27日追記: 「表現の不自由展・その後」は結局一般公開されず、10/8から会期終了まで、抽選に当選した者(1日数十から数百名)だけが閲覧できる内覧のみで終わりましたが、同展展示再開後、同展抽選場所周辺で配布されていた、検証委員会の中間報告書には、脅迫の口実になった少女像について、愛知県知事も、県側のキュレータも、当初は展示に反対していたことが記載されていました。 今では表現の自由の守り神であるかのように賞賛されている愛知県知事ですが、展示作品が確定する間際まで、あまり良くない意味での、日本的な芸術展(当たり障りのありそうなものは出さない)を望んでいた様子が伺えます。 また大浦信行氏の作品については、トリエンナーレ実行委員会内部で、展示自体への、強い反対意見はなかったようですが、映像の一部だけが切り取られ、悪意で曲解されて広められる危険性はトリエンナーレ開催前から予想されていて、会場での撮影禁止や、SNS投稿禁止のルール創りが、開会直前まで議論されていたようです。
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「表現の不自由展・その後」ファクトチェック

名古屋市長による、少女像の展示中止要求からテロ予告に発展し、会期終了間際まで展示中止を余儀なくされた、あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」ですが、私は幸い、展示再開後の抽選に当たり、作品を直接観ることができました。展示されている作品の中には少女像のように、そのテーマ自体が暴力的な隠蔽圧力に晒された作品もある一方、(出品を拒否された)という武勇伝を、水増ししているかのような作品も、ありました。 話を一旦、先月末に戻しますが、9/29に東京で開催された、日本サウンドスケープ協会臨時総会&シンポジウムの席上、同協会理事長と前理事長(9月時点の)より、 日本サウンドスケープ協会が、2013年に、千葉県立中央博物館において開催した、「音風景の地平をさぐる」展で展示した「福島サウンドスケープ」というコンテンツが、「表現の不自由展・その後」にも展示されているが、コンテンツの説明に、事実とは異なる内容があり、(来年度から正式に社団法人化される)当協会の、社会的信用を損なわないためにも、当協会として事実関係を明確にしておく必要がある。 との問題提起がありました。 私が、抽選制で入場者を限定している「表現の不自由展・その後」に、わざわざ足を運んだのは、個人的な関心だけでなく、自分が理事を務めている日本サウンドスケープ協会の、理事長・前理事長(9月時点)も、「表現の不自由展・その後」の会場における展示内容を問題視しているのが分かったからです。 そして会場に足を運んで観ると、展示されていた「福島サウンドスケープ」の説明にはやはり、事実とは異なる記述がありました。 結論から書くと、 >本作は2013年の「音の風景」展(千葉県立中央博物館)に出品されたが、作家自筆の説明文が。福島大学の学長と執行部の除染活動不徹底への批判箇所の削除である。検閲の多様性も伝える例だ。 という説明文中、 >「音の風景」展(千葉県立中央博物館)に出品された という記述が不正確で、 >作家自筆の説明文 という記述が事実とは異なり >検閲・修正された という記述も、事実とは異なっていました。 以下、事実とは異なる点を具体的に説明します。 まず第一に、検閲とは何かと言うと、検閲を行う(制作物の公開可否を一方的に決める)側と、検閲を受ける側(制作物の公開を申請する)側という、上下関係にある、二つの、それぞれ独立した立場の存在が、大前提となります。更に、比喩ではなく、客観的事実として検閲という言葉を使う場合には、検閲を行う主体が公権力、という限定が付きます。 「福島サウンドスケープ」の展示は、日本サウンドスケープ協会と、千葉県立中央博物館との共催事業である、「音風景の地平をさぐる」展の一部であってので、検閲が成立する上下関係は、そもそも存在しませんでした。共催者に、任意団体である日本サウンドスケープ協会が含まれるので、客観的な意味合いではなおさら、検閲は成立しません。 そして、「福島サウンドスケープ」と命名されたコンテンツの制作者である永幡幸司氏は当時、日本サウンドスケープ協会の常務理事であり、同協会が行う全ての活動を、監督・承認する責務を負っていました。つまり永幡氏は、この展示の主催者側、すなわち出展物をチェックする側の人間でしたので、永幡氏自身と、展示の主催者との関係も、検閲が成立する上下関係にはありませんでした。 更に永幡氏は、日本サウンドスケープ協会の展示担当者と、(説明文原案の修正を求めた)千葉県立中央博物館との折衝で調整された、「福島サウンドスケープ」の説明文の最終的な文面について、電子メールで承認を与えています。すなわち、千葉県立中央博物館と、永幡幸司氏との間には、立場上も、文面を巡る交渉のプロセス上も、「検閲」は存在しませんでした。 次に、問題の説明文の文責は誰にあったかというと、これは、コンテンツ制作者の永幡氏ではなく、「音風景の地平をさぐる」展の、展示パネル(の版下)作成担当者でした。同展では、永幡氏作成のコンテンツに限らず、同展で紹介された協会員の活動全てについて、活動を行った当人ではなく、パネル作成担当者が、展示パネルに記載する文書を作成しており、個々の活動担当者は、永幡氏のみならず全員、パネル作成担当者に、説明文の原案を、提出していました。従って展示物の説明文は、「福島サウンドスケープ」に限らず、どの展示物についても、作家の自筆ではありませんでした。 展示パネルの説明文を、こうしたプロセスで作成したのは、「音風景の地平をさぐる」展が、日本サウンドスケープ協会員個々の、成果発表ではなく、日本サウンドスケープ協会という、団体名義での成果発表として企画されていたからで、同展の企画趣旨も、展示パネル作成のプロセスも、永幡幸司氏を含む、日本サウンドスケープ協会常務理事会が、承認していました。私自身も当時、日本サウンドスケープ協会の事務局長として、「音風景の地平をさぐる」展の構想から会期終了に至るまでの、永幡幸司氏も含む全常務理事、同展実行委員、千葉県立中央博物官側担当者の言動を、自分自身の会合出席と、議事録、メーリングリストによって、逐次確認していました。 上述の通り、千葉県立中央博物館における、「福島サウンドスケープ」の展示は、日本サウンドスケープ協会と、千葉県立中央博物館との共催で開催された、「音風景の地平をさぐる展」の中で、(個人名義ではなく)日本サウンドスケープ協会名義で出展されていた展示の一部でした。「表現の不自由展・その後」の会場パネルに記載されていた、「音の風景」展とは、日本サウンドスケープ協会制作の、「音風景の地平を探る」展も含む、複数の展示の総称なので、 >「音の風景」展(千葉県立中央博物館)に出品された という、「表現の不自由展・その後」での記述も、嘘ではありませんが、「福島サウンドスケープ」が同博物館に展示された経緯を考えれば、正しい記述とも、言えないでしょう。 なお、上述の事実関係の概要は、日本サウンドスケープ協会公式HPの中の、下記URLにも明記されていますので、ご確認願います。 http://www.soundscape-j.org/activity_20th.html
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2019年9月3日更新:科学の名を借り冤罪作り?(宮城県警と東北大関係者)

宮城県警が物証も動機もないまま検挙し、警察の客観性に乏しい鑑定で有罪が確定してしまった冤罪、いわゆる仙台筋弛緩剤中毒事件ですが、 http://miyaginouka.cocolog-nifty.com/blog/ 長崎大学大学院医歯薬学総合研究科の池田正行教授が、この冤罪が生まれた経緯を医学的見地から詳しく解説しています。 http://eritokyo.jp/independent/post-col001.htm http://square.umin.ac.jp/massie-tmd/nmodraft.pdf この冤罪事件では、亡くなった方の診察記録は、筋弛緩剤中毒を疑わせる記載が全くなかった(それどころか、他の原因による死亡と判断されていた)にもかかわらず、患者さんを診察していない医師(当時東北大学医学部麻酔科教授であった橋本保彦氏、他)が、検察側の証人として筋弛緩剤による死亡を主張したそうです。しかしおかしなことに、これら検察側証人の鑑定書は一切作成されていないそうです。つまり彼らは証言の根拠を記録に残していません。更に不自然なことに、筋弛緩剤中毒を主張した証人は全員、東北大学関係者だったそうです。一方、後年行われた症例検討会では、この事件で筋弛緩剤の使用を疑う見解を表明したのは、約1000人の医師のうち、わずか0.2%だったそうです。 http://square.umin.ac.jp/massie-tmd/ysnouso.pdf http://square.umin.ac.jp/massie-tmd/sendaimori.html また、北陵クリニックは、事実上のオーナーである半田康延・東北大教授が発明したFES治療※(機能的電気刺激)の実験のため、国から20億円、県から30億円もの補助を受け、理事には地元医師会だけでなく、県内有力企業が名を連ねていることが、これまでに報道されています。こうした経緯を見ると、 東北大学関係者が、同クリニックでの治療成績を隠すため、宮城県警と口裏を合わせ、事件を創作した可能性も、否定はできません。 http://yukikaze0808.blog.so-net.ne.jp/2009-01-29 http://miyaginouka.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-c6fc.html 更に、この事件の裁判で、大阪府警科学捜査研究所が行った鑑定も、手法が世界標準とは異なる特殊な手法だったそうで、その信頼性を検証できないばかりか、同所では試料を全量使い果たし、再鑑定が出来ないようにしていました。この鑑定に必要な資料は1mlほどだそうで、試料を全量使い果たす必要性は全く無く、大阪府警科学捜査研究所は、実際には鑑定を行っていないにも関わらず、鑑定を行ったかのような偽証を法廷で行い、更に証拠隠滅のために、試料を廃棄した疑いが持たれています。 http://www.jicl.jp/now/saiban/backnumber/sendai.html http://miyaginouka.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-5d6e.html 法的に言うと、 大阪府警科学捜査研究所は国家公安委員会規則中の犯罪捜査規範第186条を無視し、証拠隠滅を図った疑いが持たれている そうです。 この事件以外にも、例えば足利事件では、DNA鑑定が冤罪作りに悪用されてしまいました。 http://hiroshi-s.at.webry.info/200910/article_15.html これらの事例のように、客観性に乏しい鑑定を採用したずさんな裁判によって、被告の有罪が確定してしまうというのが日本の司法の現状ですが、 医師や鑑定官など、科学を駆使する立場の者が、科学的信頼性を欠く捜査や鑑定に手を貸している 現実も、冤罪の温床になっているのではないかと思います。 私達は、医師や鑑識官、その他司法に関わる科学分野の専門家のモラルを、もっと厳しい目で、監視しなければいけないのかも知れません。
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2019/08/28 追記:資料紹介:性奴隷(従軍慰安婦)問題

安倍政権が河野談話を見直すかのような姿勢をマスコミ発表したことで、再び注目され、米国をはじめ多数の国々から批判を浴びた従軍慰安婦問題ですが、本人の意思に反して慰安婦にさせられた被害者が居たかどうかと、それが、正式な命令系統を通じて行われた行為かどうかという問題は、分けて考えなければなりません。 後者は当時の日本政府内部の責任問題であり、今となっては歴史学の問題ですが、前者は、その加害者が日本の国家権力を利用したのであれば、日本政府は、被害者に対する責任を免れません。それが記録に残された公式命令によるものかどうかは関係ありません。 http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1 また私たちは、自国政府の責任を認めることによってはじめて、他国政府による同様な人権侵害を批判することができます。 「韓国軍のベトナムでの性暴力、謝罪を」元慰安婦ら会見 http://www.asahi.com/articles/ASG374Q7LG37UHBI028.html?iref=com_rnavi_arank_nr02 4/21追記: http://www.kanaloco.jp/article/70041/cms_id/76481 8/18追記: いわゆる従軍慰安婦という性奴隷は、当時の日本の法令にも違反していたという指摘 http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori157.htm 9/08追記:  フジテレビ創設者の鹿内信隆が、自身が在籍した日本陸軍による従軍慰安婦管理の実態を、『いま明かす戦後秘史』(サンケイ出版/絶版)という書籍に遺しており、以前は保守系陣営自らが、従軍慰安婦が軍の管轄であったことを公然と語っていた。という指摘。 以下、一部引用 >鹿内は召集後、1939年4月から9月にかけて陸軍経理学校で軍の後方支援のノウハウを学んでいたのだが、そのときに、慰安所の作り方も叩き込まれたというのだ。しかも、その内容は今、右派メディアがしきりに喧伝している「公衆衛生の管理だけ」というようなレベルではない。鹿内の発言に「調弁する女」という表現が出てくるが、「調弁」というのは軍隊用語で兵馬の糧食などを現地で調達するという意味。つまり、これは陸軍が慰安婦の調達に関与していたということではないのか。  さらに衝撃的なのが「女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか(中略)といったことまで決めなければならない」という発言だ。当時の日本軍が現地の女性を完全にモノ扱いし、どんな女がいいのかを品定めする作業までをも士官に命じていたことを証明するものだ。  断っておくが、この鹿内発言は老人の妄想でも記憶違いでもない。靖国神社の一角に靖国偕行文庫という図書館があるのだが、そこにこの鹿内発言を裏付ける一冊の本が所蔵されている。  300ページ以上はあろうかという分厚いその本のタイトルは『初級作戦給養百題』。昭和16年に陸軍主計団記事発行部が発行した、いわば経理将校のための教科書だ。   表紙はハードカバーで、「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」という文字。その9ページ目、第一章総説に、師団規模の部隊が作戦する際に経理将校が担当する15項目の「作戦給養業務」が解説されているのだが、その最後の項目「其他」の解説に以下の任務が列挙されていたのだ。 1 酒保ノ開設 2 慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演藝會ノ開催 3 恤兵品ノ補給及分配 4 商人ノ監視  ようするに、陸軍の経理将校向け教科書に任務として「慰安所ノ設置」が掲載されていたのである。軍が関与したのは衛生面の管理だけという保守派の主張が、明らかな嘘だということがよくわかるだろう。 http://lite-ra.com/2014/09/post-440.html 9/9追記: 法務省も、1962年の段階で既に、旧日本軍が軍命で従軍慰安婦を連行していた事実を把握していたことが、国立公文書館に保管されていた資料から判明。以下、記事を引用: >旧日本軍の従軍慰安婦問題で、太平洋戦争中にインドネシアのバリ島に海軍兵曹長として駐屯していた男性が、1962年の法務省の調査に「終戦後(慰安所を戦争犯罪の対象に問われないよう)軍から資金をもらい、住民の懐柔工作をした」と供述していたことが分かった。  元兵曹長は「(慰安婦として)現地人など約70人を連れてきた」「他にも約200人を部隊の命で連れ込んだ」と連行の実態も説明していた。  関東学院大の林博史教授(日本近現代史)の研究室が国立公文書館(東京)保管の資料で見つけた。林教授は「河野洋平官房長官談話が認めた軍の関与を裏付けるもので重要だ」と評価している。 2014/03/22 17:53 【共同通信】 http://www.47news.jp/CN/201403/CN2014032201001850.html 10/17追記: 日本政府が、クマラスワミ報告の修正を国連に要求し、世界各国から厳しく非難されている件 http://maeda-akira.blogspot.jp/2014/10/blog-post_15.html 2015年4月6日追記: 今日知ったのですが、従軍慰安婦問題について、これまで分かったことをまとめて紹介するサイトがありました。 http://fightforjustice.info/ 2017年11月25日追記: 日本政府は、未だ、従軍慰安婦の確保の過程で、軍による強制連行があったことを認めていませんが、実は、第2次大戦当時の日本軍が発行した公式証明書の中に、慰安婦を連行するとの、具体的記述が残っているそうです。 http://d.hatena.ne.jp/scopedog/touch/20150410/1428689812#20150410f2 http://ameblo.jp/qtaro9blog/entry-11779758678.html これは、当時中国に駐留していた台湾混成旅団(塩田定七少将を旅団長とする、通称塩田兵団)に所属する台湾歩兵第1連隊(林部隊)(連隊長・林義秀)に所属する慰安所の経営者を、慰安婦連行のために、台湾に向かわせるための証明書で、以下の文面の証明書が発見され、吉見義明著「従軍慰安婦資料集」の133頁に、その文面が掲載されているそうです。 証明書 ■■■■←慰安所の経営者名は、プライバシー保護のため伏せられている。 当年二十二歳 右ハ当隊附属慰安所経営者ニシテ 今回 慰安婦連行ノタメ帰台セシモノナリ 就テハ 慰安婦ハ当隊ノタメ是非必要ナルモノニ付 之カ渡航ニ関シテ何分ノ便宜附与方取計相成度 右証明ス 昭和十五年六月二十七日 南支派遣塩田兵団林部隊長 林義秀 2017年11月25日追記: 従軍慰安婦についての証言収集は、日本国内でも続けられています。 旧満州のチチハルでは、従軍慰安婦の徴用を、軍が業者を介さず直接行っていたと述べた、元日本兵の証言の詳細が、昨年公表されています。また証言によれば、軍が徴用した慰安婦の中には、「看護婦の募集」だと、騙されて慰安婦を強制された女性も居たそうです。 http://testimony-of-grandfather.webnode.jp/ また、「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正ノ件(昭和19年7月12日、閣議決定)」という公文も残っていて、そこにはるそうで、そこには、朝鮮総督府管内においても、国家総動員法に基づく労務調整令による動員も警察による動員によって、青少年女子が、軍慰安所の「酌婦、女給」として動員されたことが記載されているそうです。 http://masato555.justhpbs.jp/newpage147.html 2019年8月28日追記: 性奴隷の扱い方を記載した旧日本軍の公式文書は、実は戦時中既に、米軍によって翻訳され、保管されていたそうで、その資料の内容を、日本政府も承知しているそうです。 https://note.mu/tkatsumi06j/n/na61cc2f6db29 https://twitter.com/i/moments/1162549090586021889 https://togetter.com/li/928203 アジア女性基金も、性奴隷(従軍慰安婦)に関するディジタルアーカイブを、インターネット上で公開しています。 http://www.awf.or.jp/index.html
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世俗人を祀るは宗教に非ず(LOVEさんの素直な疑問)

8/14の昼に放送された、TOKYO FM の番組”LOVE CONNECTION”でのこと。パーソナリティーのLOVEさんが、毎日新聞論説委員の平田崇浩氏語る”NEWS CONNECTION”のコーナーで、靖国神社問題について、人間を神にして祀る宗教を、海外の人に理解してもらうのは困難で、靖国問題(A級戦犯合祀の是非について)は、これからも平行線のままになりそうだと、語っていました。この発言は残念ながら、番組の公式ブログではカットされてしましましたが、日本国内では見落とされがちな、重要な視点だと思います。 言われて見れば、日本以外の国で、戦死した兵士など、俗世の出来事のために尽くした人間を祀るのは、(地域限定の)民俗・風習に属する文化で、宗教とは別の概念とみなされます。実際、そうした風習に人々が期待するのは大抵、現実社会の生活でのご利益で、(少なくとも建前上は)現実世界の利益から離れた所に価値を見出そうとする、宗教における信仰とは全く異質なものです。 日本の神社は、形式的には一応、神官が居て巫女が居て、参道には鳥居があるなど、統一された様式はあるものの、そこで何が祀られているかと言えば神社ごとにばらばら。五穀豊穣や無病息災、子孫繁栄など、現世のご利益のためという共通点はあるものの、樹木や岩石、山といった自然環境の一部が祀られたり、広い意味での政治(戦闘も含む)で貢献のあった人を神格化して祀ったり、逆に、政治的に不遇なまま生涯を終えた人や部族を(祟りを恐れてか、その関係者からの復讐を防ぐためか?)神格化して祀るなど、様々な自然崇拝や呪術の総称と言った方が良いかも知れない存在です。 そして日本の神社が、もともとは、現在「宗教」と呼ばれる体系立った、かつ現実社会での利害や優劣・豊かさとはと関わりを絶った価値を尊ぶ思想ではなく、現実生活に直結した見返りを期待する、いわゆる”原始”宗教だったからこそ、少なくとも明治維新までの間は、宗教施設である仏教寺院とも共存できた(寺院の敷地の中に神社の祠がある、など)のではないでしょうか? それが明治維新以降、神社と、様々神社で継承されてきた様々な(原始宗教の範疇に入る)伝承・思想の集合体だった神道が、国民の精神を支配する道具として再編され、神格化された天皇と結び付けられたことで、あたかも神道を、(”原始”というただし書きのつかない、国や民族を超えて広まる)宗教と同列に語る人が、多くなったのではないかと思います。 現実世界の生活での見返りを求める気持ちや、人種や民族を比較する発想を(少なくとも建前上は)絶った、仏教やキリスト教、イスラム教のような宗教が、信仰として一般化している社会で生まれ育った人達にとって、神道を宗教とみなす考えは、理解困難だとしても、何ら不思議ではないでしょう。 ましてや近代国家が、政府側について命を落とした将兵だけを、神格化させるための施設を造って、更にそれを宗教法人にするというのは、”宗教”を真面目に信仰している人達から見れば、まさに、神をも恐れぬ、理解し難い行動かも知れません。 日本社会にはこれからますます、明治政府が造った、特異な文化や価値観について、日本の外からの視点で客観的に、考える必要があるのだろうと、思います。
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2019/09/39 追記:テロを隠れ蓑にした検閲(愛知県は被害者というより共犯者)

去る8月3日、愛知県は、県知事が実行委員長を務める「あいちトリエンナーレ」の企画「表現の不自由展・その後」について、出品者に何の聯絡もせず、一方的に、展示中止を通告しました。展示中止を発表した記者会見で愛知県知事は、あたかもテロの心配があったために止む無く展示を中止したかのような説明をしましたが、実は会場の警備に、機動隊員など、暴力犯罪に対応した警官を配備することもなく、警備員に警備させるだけでいたなど、そもそも県に、暴力を防ぐ意思があったのか?報道内容を見る限りでは、極めて疑わしいです。 https://news.yahoo.co.jp/byline/itokazuko/20190804-00137002/ https://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2019080402000069.html https://www.huffingtonpost.jp/entry/aichi_jp_5d45462ce4b0acb57fccde0c https://news.livedoor.com/article/detail/16876159/ https://www.asahi.com/articles/ASM836G75M83OIPE02G.html?iref=pc_extlink https://www.asahi.com/articles/ASM835SDPM83OIPE01R.html https://news.yahoo.co.jp/byline/akedotakahiro/20190805-00137053/ https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20190804-00136942 県の対応で不可解なのは、県警に警備強化を指示した形跡が見られないだけではありません。テロ予告を含む、数多くの脅迫が、業務に支障を来すほど実行委員会に殺到していたにも関わらず、実行委員長である県知事が、展示の妨害や脅迫を受け付けない、毅然とした姿勢を何ら示すことなく、突然展示中止を決めた点。実行委員長が、脅迫に無言では、脅迫する側が勢いづくのは当たり前で、芸術監督の津田大介氏が記者会見で、 >休止の選択肢もありました。しかし休止は(抗議の)電話を減らす効果がない、火に油を注ぐ可能性もあります と、中止受け入れの理由を述べた背景には、実行委員長である愛知県知事の、怠慢があると考えられます。 更に愛知県警の対応も極めて不自然で、愛知県警は、無差別テロ予告のFAXが送られて来たのを把握していながら、FAXが匿名化されているという口実で、捜査(通信経路の解明)をしなかったことが、津田監督自身のツイートによって暴露されています。もし、匿名化されたFAXの発信源を捜査することが、県警の言う通り、本当に不可能なのであれば、日本は、公衆通信回線を利用した犯罪は、やりたい放題の国ということになります。 これらの経緯を見ると、愛知県は、テロ予告などの暴力に屈して、展示中止を決定したというより、テロ予告を隠れ蓑に、法で禁じられた検閲に手を染めたと、理解した方が良いのではないかと思います。実際、実行委員長が、出品者側に、何の連絡もなく一方的に展示中止を通告し、出品者である「表現の不自由展・その後」実行委員会が抗議声明を出している状況を見ても、愛知県の対応は、出品者に対して高圧的なもので、出品者への配慮が感じられません。 https://www.asahi.com/articles/ASM837HV0M83OIPE034.html https://jp.reuters.com/article/idJP2019080301002161 更にツイッター上では、 >警察はすべて分かった上で止めてる様です。愛知県警だけで判断できないレベルの政治案件に成っています。県警は津田大介さんにも、そのFAXを公開する事を止めています。 と、脅迫自体が、県の権限を越えた政治案件であることを、示唆したツイートも出ています。 私は、これらの経緯を見て、愛知県に対しては、憲法と法を遵守し、暴力・脅迫は容認しない姿勢を国内外にアピールした上で、会場の警備強化をして展示を再開すべきと、提案しました。 また愛知県警に対しても、警察が法の番人であることを、国内外にアピールした上で、テロ予告犯や、実行委員会を脅迫した者を検挙すべきと意見を送りました。 あいちトリエンナーレの会場にはこれまで、入場券を持っていれば、誰でも入場できましたが、日本国内のイベントでも既に、入り口で、来場者の荷物をチェックしたり、会場に持ち込める荷物を制限するのは珍しいことではなく、海外に目を向ければ、例えばパリのポンピドーセンタ-では常時、入館者の荷物チェックを行っています。テロを未然に防ぐ手段は様々あり、とりわけ、あいちトリエンナーレへの脅迫文にあった、ガソリン缶を持ち込むような、小回りの利かない原始的なテロならは、会場周辺の警備を強化するだけで抑止可能です。 要は、愛知県に、表現の自由を守る意思があるか否かの問題でしょう。 2019年9月3日追記: 去る8月24日にネット上で公開された、下記の記事(骰子の眼「あいちトリエンナーレ津田大介芸術監督インタビュー」)では、愛知県警が、「あいちトリエンナーレ」関係者に被害届を出させないよう、一貫して捜査に否定的な姿勢を取り続けている実態が、暴露されています。 http://www.webdice.jp/dice/detail/5849/ 以下、該当部分を引用します: ──「大至急撤去しろや、さもなくばガソリン携行缶を持って館にお邪魔するので」と書かれたファックスによる脅迫事件について教えてください。容疑者の堀田修司が逮捕されたのが8月7日ですが、被害が発表されてから被害届が受理されるまでタイムラグがあったそうですね。脅迫なのに、なぜ警察がすぐ受けつけなかったのでしょうか? 津田:これは全然報道されていないので最も誤解が大きいところですね。また、不自由展実行委とも大きく認識がずれているところです。8月22日に東京で開催された緊急シンポジウムで不自由展実行委の小倉利丸さんが「抗議電話は7月31日、8月1日からあった。我々は暴力の予告があれば警察に委ねるよう言っていた。ガソリンファックスは8月2日だが警察に届けたのは8月6日。メールについての被害届は8月14日。これはサボタージュだ」と発言され、会場からも大きなどよめきと疑問や運営側を責める声が上がったそうです。しかし、端的に言ってこれは事実誤認です。現場で何が起こっていたのかといえば、初日の8月1日から3日まで、落ち着いた展示空間とは異なり、事務局はずっとトラブル対応に追われていました。そんな中、あの脅迫ファックスが来たのが2日の早朝です。脅迫ファックスが届いたと現場が大騒ぎになり、すぐに事務局はすぐ警察を呼びました。通報を受けてやってきた所轄の警察署員がファックスを見て、ヘッダーのところにある番号が5ケタだったため、「これだと発信者はわからないね」と、そっけない対応をされたそうです。このことは後から聞いて判明したことなのですが、いずれにせよ現場に来た警察署員の対応で終わっていて、そもそも被害届を出すような状況ではなかったということです。2日夜に捜査の状況を知事とともに確認しているときに、知事から言われたのは「警察からはファックスが匿名化されていて送り先がわからないと聞いている」という旨の話を聞きました。自分の中では引っかかりがありましたが、そのときはまさに不自由展を中止するかどうかを判断する瀬戸際で現場も大混乱していたため、あとで自分で調べようと思いました。3日の17時に、大村知事が記者会見を行い、不自由展の中止を表明。その後僕が単独記者会見を行い、不自由展のメンバーが記者会見を行いました。後片付けなども含めてすべてが終わったのは深夜でした。 8月4日になり、まだ現場の混乱は続いていましたが、多少僕に余裕ができたので、今回の中止の背景にある脅迫事件を何とかしなければならないと思って、脅迫ファックスの原本を見せてもらいました。実際に見たら発信者番号のところに5ケタの番号が書いてあった。これを警察の捜査にも詳しい専門家に見せたところ、機種は恐らくゼロックスG4で、オフィスにある複合機から送っているのではないかという分析が返ってきました。 その情報をもとにうちの会社の社員が5ケタの番号を解析したところ、オフィスの複合機ではなく、コンビニの可能性があるということがわかりました。コンビニの複合機は主にゼロックスを導入しているセブンイレブンと、それ以外のコンビニで多く使われているシャープの2つがあり、さらに解析すると、ゼロックスではなくシャープのヘッダーで、5ケタの番号はコンビニの店番号じゃないかということまでわかった。つまり、犯人は匿名化を全然やっておらず、単にコンビニから送っただけで、その店番号をウェブサイトで検索してみると普通に店舗名が出てくるんです。そこで、愛知県内のコンビニの特定までできました。送信時間まではわかってますから、あとはコンビニの監視カメラをチェックすれば犯人がわかる。とにかく早く警察に動いてほしかったので、こちらで調べた状況をテキストにまとめて事務局経由で警察にあげてもらいました。そうしたらその翌日に警察から「被害届を出してくれ」という連絡がきて、ようやく出させてもらえて、その1日半後に容疑者が逮捕されたというのが経緯です。 ──堀田修司は、別に本気でやるつもりはなかったと言っているそうですね。 津田:恐らく愉快犯でしょうね。しかし、だからといってトリエンナーレがさらされている脅威が除去されたという単純な話でもありません。これ以外にも多くの脅迫があるからです。一日中抗議電話や脅迫電話があるなかで、あのファックスが届いた。それは愉快犯であったとしても、職員の精神的な状況は察するにあまりある。 ──そのほかメールでの脅迫も大量にきていると。 津田:大量の脅迫メールが届いたのは8月5日の朝からです。あいちトリエンナーレ事務局にも来ましたけれど、それだけではなく、教育委員会への小中学校の爆破予告や職員に対しての射殺予告など、愛知県の関連施設に大量に送られてきました。それが760通、何回かに分けて送られてきました。こちらも届いたその日に警察には相談していますが、被害届は出させてもらえませんでした。メールのヘッダーを見せてもらって分析したら、偽装された形跡はありませんでした。ある宗教団体のメールサーバーを使って送られてきていんたんです。一目で見ておかしいと思いました。 ──僕へのDMでは、×××と言われていますよね。 津田:その宗教団体がまさかそんなことをするとは思えないし、文面を見てみると明らかにおかしい。いろいろ調べてカラクリがわかりました。この手法自体を話すと今後別の愉快犯に悪用されかねないので詳細は避けますが、一言でいってソーシャルハッキングみたいなものだと思いましたね。宗教団体のメールサーバーを使って脅迫メールを送ったらIP開示請求をその宗教団体にしなければならないわけで、警察も動きにくいでしょう。その宗教団体に依頼してIPアドレスを提出してもらうのも手間だし、そもそも適切にIPアドレスを管理しているかも、協力してくれるかどうかもわからない。そして、ここまで悪知恵が働いて身を隠そうとしているなら、IPアドレスがわかったとしても、その先も匿名化されているだろうなと思いました。いずれにせよ、この件もずっと警察には働きかけていたんですが、なかなか動いてくれなかったですね。 ──大村知事からの働きかけはなかったのですか? 津田:もちろんお願いしました。大村知事からの働きかけもあって、少しずつ動き始めた感じです。同時に正攻法でいこうとも思って、僕らがその宗教団体に電話して、理由を説明してIPアドレスを出してもらえないかとお願いしました。非常にその宗教団体は協力的で、状況を理解して2日後にIPアドレスを出してくれました。事前に予想した通り、IPアドレスを調べてみるとTorという匿名通信の手法により匿名化されていました。セキュリティに詳しい専門家に見てもらいましたが、この出口ノードだけでは本人特定は難しいと言われました。8月14日にようやく被害届を受け取ってもらえて捜査に入ってくれたので提供されたIPアドレスを事務局経由で警察に送りました。それまでに9日間かかりました。不自由展実行委の言う、我々が警察に届けてなかった、サボタージュしていたというのは誤解ですし、間違っています。むしろ、この対応に全力を挙げていたことが不自由展やトリエンナーレに参加した作家とのコミュニケーション不足を招いて、いまのような事態に陥っているので、それを「サボタージュしていた」と言われるのは辛いですね……。そして、「警察に脅迫が届いたその日から何度も捜査してくれとお願いしている、このことをメディアも報じてほしい」と報道各社には何度も繰り返し囲み取材などで伝えているのですが、このことをまともに取材して報じてくれるメディアはありませんでした。だから今日僕はこのwebDICEのインタビューを受けているわけです。 特に最初の2週間は、トリエンナーレが崩壊しそうになっている中で、これらのことを同時に対応しなければいけなかった。東浩紀には「なんで脅迫犯の対応や分析を芸術監督自らやってるんだ。それは行政がやるべき仕事であって芸術監督の仕事じゃない」と批判されましたが、なかなか警察の捜査が進展しない状況で、まずこの対応をきちんとやらないとトリエンナーレが崩壊すると思いました。安全で円滑な管理運営をする現場監督は自分。だから動かざるを得なかったという認識です。 引用おわり 2019年9月30日追記: なお、「表現の不自由展・その後」を中心に追い込んだ脅迫電話のうち、少なくとも一件は、自民党員が掛けていたことが、既に明らかになっています。 https://mobile.twitter.com/FFMatudo/status/1177962219759267845 この自民党員は、ネット上で松平美濃守と名乗り(脅迫の電話をかけたことが世間に知られた後、ハンドル名を変えている) >自民党員 (河野太郎防衛相支持)。 座右の銘は「お天道様は見ています」。アイコンは不屈の宇宙飛行士、アラン・ シェパード。日本核武装論&パチンコ廃止論者。FGO民(ゆるめ/強運) という自己紹介で、自ら自民党員であることをアピールしていましたが、 あいちトリエンナーレ検証委員会が一連の電話の音声を公開した際、自分の音声を勝手に公開したと腹を立て、そのことをツイートしてしまった(自分が電話の主であると名乗り出た)ため、そのツイートを数多くのネットユーザにスクリーンショットされてしまい、彼が「表現の不自由展・その後」を中止するよう脅した人物の一人であることが、世間に知れ渡ってしまいました。 またこの、松平美濃守と名乗っていた人物が、岐阜県大垣市在住の自営業者(HP制作請負などの)らしいことも、ネットユーザの追跡によって、明らかになっています。 http://okinawansea.hatenablog.com/entry/2019/09/28/231736
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中傷記事の向こうに透けて見えた立憲民主党

千葉商科大学准教授の田中信一郎が、HARBOR BUSINESS ONLINEに、根拠を示さずれいわ新選組を批判的に紹介する(つまり中傷する)記事を寄稿したのを、法政大学教授の上西充子ツイッターで拡散しているのを発見したのですが、両者の接点のは何なのかと思ったら、立憲民主党でした。 事の発端は、上西充子教授が拡散していた記事が、れいわ新選組への中傷しているのを見つけたことです。 田中信一郎が寄稿した、HARBOR BUSINESS ONLINEの記事「参院選は民主主義を再生する機会になったか?「ポピュリズム元年」に民主主義のためにできること」では、ポピュリズムを、 >本来の意味は、政府や資本の権力強化に対する「一般民衆の反感や猜疑心を醸し出す思想的潮流」(『現代政治学小辞典』有斐閣)となります。 >特徴は、主張の根拠や整合性に対し、主張者も支持者もほとんど関心を払わないことにあります。 と、否定的な意味合いで定義したうえで、今回の参院選で2議席を獲得した、れいわ新選組の活動について、具体的根拠を一切説明することなく、(筆者が定義する悪い意味での)ポピュリズムであると断定し(れいわ新選組の活動のうち、具体的に何が、どのような理由で、筆者の定義するポピュリズムに該当するのかを、全く説明していない)、更に、現与党(自民党・公明党)の政策とは全く相容れないれいわ新鮮組を、維新や,NHKから国民を守る党,、第二次安倍内閣といった、与党側の勢力と同列に扱うという、れいわ新選組に対する、論理的とは言い難い講評、つまり中傷を展開しています。 ※れいわ新選組の政策に影響を与えたと言われている、松尾匡氏も、ポピュリズムという言葉を使っていますが、これは、田中信一氏の定義するポピュリズムとはまた別の意味合いがあり、ポピュリズムという言葉は、論者によって異なる意味合いで使われているのが現状です。 http://hunihu2.hatenablog.com/entry/2019/02/19/%E3%80%90%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%80%91%E5%B7%A6%E6%B4%BE%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0 そればかりか、田中信一郎は、れいわ新選組の経済政策について、代表の山本太郎が街頭演説で繰り返し述べていた、法人税の税率見直しや大企業向け特例廃止、有価証券取引の譲渡益に対する課税の累進化など、歳入に関する主張には触れず、 >「れいわ新選組」は、消費税の廃止と異次元の財政出動を訴えて、熱烈な支持を集めました。それらの財源は、高額所得者や企業への増税でとうてい賄えるレベルでなく、国債のさらなる大量発行で賄うとしています。通貨の信用崩壊による国民生活の窮乏リスクを恐れる既存政党にはできない独特の主張 と、あたかも財政支出を増大させるだけの政策であるかのように中傷しています。 細かいところでは、全原発即時停止を主張するれいわ新選組が、当面の代替エネルギーとして、石油・石炭火力から天然ガス発電への置き換えを主張している点についても、 >火力発電の推進を訴える と、実際の主張内容に反する評論、つまり中傷を行っています。 そして、この中傷記事を、(筆者本人以外に)ツイッターで拡散させていた著名人の一人が、法政大学教授の、上西充子でした。 この、根拠を明示しない悪評、つまり中傷の拡散に対しては、私自身も含め、いくつもの批判ツイートが出ていたのですが、その、批判ツイートの中に、この二人が、立憲民主党の公式広報ビデオに出演していることを指摘するツイートがありました。 https://www.youtube.com/playlist?list=PLZaX2HgSozF6FprUEdS6McplvUv3CZkQI 実際、田中信一郎は、上述の寄稿記事の中で、 > 自民党がポピュリズム化している故に、責任勢力を担えるのは、与党だと公明党、野党だと立憲民主党と共産党になります。 既存政党への支持を呼びかけています。 こうした関係が見えてくると、田中信一郎、上西充子による、中傷記事拡散の背景に、立憲民主党が何か関係しているのではないかと、疑いを抱かざるを得ません。
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2019年4月15日追記:沖縄自民党と良く似た、”沖縄発 新しい提案”(撤退ではなく移設)

 先日アップロードしたブログで、沖縄の海兵隊基地を、沖縄県外の日本国内へ移設させようとする、いわゆる基地引取り運動の主張のおかしさについて書きましたが、基地引取り運動を推進する人達は以前から、日本に海兵隊基地は要らないとする(主に左派の)人達を批判を続ける一方で、米軍基地を日本に押し付けている当事者である、自民党や外務省への批判はせず(少なくとも私が見聞きした限りでは)、私はとても不可解に思っていました。ところが最近の、基地引取り運動賛同者達(正しくは、基地引取り運動から派生した”沖縄発 新しい提案”の推進者達)の活動から、彼らの主張が、沖縄の自民党の主張とそっくりなことが分かりました。 私が、彼らの言動について、自分がそれまで思っていた以上に不自然だなと感じたのは、小金井市議会に提出された陳情について、共産党が賛成を見送った経緯が、報道などで明らかになったときでした。 この陳情は、「基地引取り運動」から派生した、「沖縄発 新しい提案」に基づくもので、沖縄海兵隊基地の移転先を、一旦、日本国内のどこかににする(本土の全自治体を等しく普天間代替施設の候補地にする)という前提で、米軍基地や代替施設の必要性を国民的に議論するという、議論の形式だけは、基地引取り運動の要求をそのまま残した陳情です。 http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/320293 (この陳情案が発表される前、電子署名サイトのChange.org では既に、この陳情と同じ内容の署名運動が行われています) この陳情に対し、日本共産党の市議が、一度は賛意を示したものの、後から賛成を撤回し、陳情の採択が見送られたことで、沖縄ローカル紙上などで、日本共産党に対する厳しい批判が沸き起こったのですが、 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-814817.html 日本共産党小金井市議団の釈明によれば、 この陳情について、日本共産党は、陳情内容(のうち、移転先を一旦日本国内に設定して議論を行うという点)が、オール沖縄(共産党も含まれる)共通の要望とは異なることを挙げ、陳情者に対して、共産党としては陳情内容全てには同意できないことを詫びた上で、「問題を沖縄県民だけでなく、本土の国民も当事者として考え、議論してほしい」という(陳情者の表向きの)趣旨を尊重しつつ、(オール沖縄の一員である)共産党も賛成できる内容に修正してほしいと、陳情者に相談したものの、陳情者に同意してもらえなかったそうです。 共産党の釈明は一般公開されており、陳情者本人もチェックできるので、釈明内容に嘘があるとは考えにくく、陳情者のこだわりは、本土の国民にも当事者意識を持ってもらう点というより、沖縄県外の全自治体を、一度、海兵隊基地の移転先候補にするという、議論の体裁であったことが伺えます。 当初、日本国内(但し沖縄県外)への海兵隊基地移転のみを主張していた、基地引取り運動が、日本に海兵隊基地が必要かどうかという、基本的な議論に立ち返るのを容認することろまで態度を軟化させたのを考えれば、日本共産党の対応は、融通が利かな過ぎますが、その一方で陳情者側のこだわりも、沖縄県民への負担を早急に無くすという、最優先の目標と照らし合わせれば、余計な揉め事を誘発するだけで、尋常ではないと思います。 そうした、陳情者側の、尋常ではないこだわりに疑問を抱いていたなか、この陳情者達と同様な主張を、ツイッター上で書き込んでいたアカウントが、自らの主張を正当化する根拠としてリンクしていた、琉球新報の記事が目に留まりました。
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2017年11月29日に琉球新報に掲載されたこの記事によると、沖縄県議会における、在沖米海兵隊員による飲酒運転死亡事故に対する意見書・抗議決議の審議では、11月27日の軍特委では与党会派が「在沖米海兵隊の撤退」を盛り込むよう主張したものの、野党の沖縄・自民が「その文言では乗れない」と削除を求め、更に「与党が主張する在沖海兵隊の撤退は実現性に乏しい」と主張し、最終的には、与党案から”撤退”の文言が削除され、代わりに移設の文言が入り、「早期の国外、県外への移転」でようやく、全会一致に至ったことが記載されています。 「撤退」と「移設」は、実現までのプロセスまで考えると、全く別の要求と言って良いほど、相異なるものです。 撤退要求では、沖縄県も日本政府も、米海兵隊の新たな駐屯場所について、一切関与する必要はありませんが、 移設要求では、米国政府との交渉当事者である日本政府が、米海兵隊の新たな駐屯先について、米国と合意しなければなりません。行先不明では、移設にならないからです。 つまり自民党(正確には、自民党と、最終的な文言をまとめたとされる公明党)は、米海兵隊の撤退を求める文言を決議文から排除する一方、米海兵隊の具体的な移転先が決まるまで、海兵隊が沖縄に居座っても構わないとも、解釈できる文言を、決議文に盛り込んだわけです。 この、「早期の国外、県外への移転という内容、そして、要求の中に、(米海兵隊の)撤退という文言は決して入れない姿勢は、上述の、陳情者達の姿勢と、ぴったり一致するわけです。 「沖縄発、新しい提案」の推進者達は表向き、普天間基地の閉鎖と辺野古基地の工事中止を求めていながら、撤退という表現は使わない。彼らの要望通り、普天間基地の代替基地をどこにするか?国民的議論を進めている間、普天間基地に駐屯している米海兵隊はどこに行くのか? と、現実的なプロセスに踏み込んで考えてみると、撤退という言葉を使わない、彼らの不自然さが分かります。その上、彼らの行った署名活動でも陳情書でも、普天間基地の運用停止と、彼らの求める国民的議論の、実行順序については、具体的な要望は示されていません。 (Change.org の電子署名では、辺野古の新基地工事についてのみ、”直ちに”中止と記載されています) つまり、彼らが求める国民的議論が行われている間、普天間基地が運用され続けたとしても、彼らの署名や陳情と、矛盾はしないのです。彼らの、(少なくとも表向きの)望みを叶えるためには、まずはじめに、在日海兵隊を、沖縄から(=日本から)撤退させ、その上で、普天間基地の代替基地が必要かどうか?徹底的に、国民的議論をするという、順序でなければならないはずです。 上記の新聞記事と、小金井市議会に提出された陳情内容は、陳情者とその賛同者達の言動が、沖縄の自民党の活動と、連携している可能性を、示唆していると思います。基地引取り運動の推進者達や、陳情の賛同者達が、陳情や電子署名が始まる前から、共産党を含む左派への批判を繰り返す一方で、(少なくとも私が見聞きした範囲では)沖縄に基地を押し付けている当事者である、自民党への批判はしない不自然さも、彼らが、沖縄の自民党と連携して活動していると仮定すれば、説明可能です。 *「沖縄発 新しい提案」の推進者達は、米海兵隊の移転先に国外を含めることに同意した自民党より強硬で、彼らの作った陳情書や、電子署名の文面には、国外という言葉も海外という言葉も、一切ありません。 実際、上記の琉球新報の記事を、ツイッターで紹介したアカウントも、この記事内容について、「全会一致の文字が読めんのか」と、誇らしげに語っています。
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基地引取り運動や、「沖縄発 新しい提案」に基づく署名や陳情活動は、全国紙に取り上げられたたこともあり、報道だけ見ると、沖縄県内の米軍基地反対運動の中で、大きな役割を果たしているかのような印象も受けますが、辺野古や高江の現地で、基地反対運動に取り組んでいる人達のブログやFBグループや、公式HPには、(私がこれまで見聞きした限りでは)取り上げられていない点には、注意が必要でしょう。私自身、これまで10回以上辺野古に通ったものの、辺野古で、基地引取り運動の人達の主張についての話題は、耳にしたことがありませんでした。個人的に、基地引取り運動の主張を、辺野古に行って広めている人は、居るそうなのですが、私はまだ出会ったことがありません。 また先月末、沖縄県知事選に勝利した、玉城デニー知事は、故・翁長前知事はじめ、オール沖縄の政治家達fが、表立って口にはしなかった、海兵隊基地の、米国内への撤退について、「米軍基地はもう必要ないと言うことであれば、米軍の財産は、アメリカに引き取って頂くと言うことです。その道理を正々堂々と、沖縄から主張していきましょう。」と、選挙に勝利した当夜、支持者たちの前で、遂に公言し、 https://www.buzzfeed.com/jp/yoshihirokando/denny-1 その後の知事就任会見では、日本政府だけでなく、米国政府に対しても、対話の必要性を、自ら米国に足を運んで訴えると、言明しました。 https://hbol.jp/176238 沖縄県知事でさえ、在日海兵隊基地の必要性そのものについて、議論を促す発言を始めた現在、一度沖縄県外の日本国内全てを、海兵隊基地移転の候補にするという、基地引取り運動や、その支持者達が拘るプロセスが、なぜ必要なのか? 私は甚だ疑問に思います。 2019年4月15日付追記: このように、昨年秋は、まるで自民党の下部組織であるかのような発信を繰り返していた、「沖縄発 新しい提案」の面々ですが、今年(2019年)に入ってからは、益々、自民党寄りの言動が鮮明になりました。 1/24と1/29 には、Chabge. org 上で2回に渡り、沖縄自民党の声明を転載する一方、 https://www.change.org/p/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3-%E8%A1%86%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E9%95%B7-%E5%85%A8%E5%9B%BD%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E4%BC%9A-%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%AD%B0%E4%BC%9A-%E8%BE%BA%E9%87%8E%E5%8F%A4%E6%96%B0%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E3%82%92%E6%AD%A2%E3%82%81%E3%82%8B%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E6%8F%90%E6%A1%88-%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%81%AE%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AE-%E5%85%AC%E6%AD%A3-%E3%81%A7-%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%9A%84-%E3%81%AA%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%99/u/23933468 https://www.change.org/p/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3-%E8%A1%86%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E9%95%B7-%E5%85%A8%E5%9B%BD%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E4%BC%9A-%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%AD%B0%E4%BC%9A-%E8%BE%BA%E9%87%8E%E5%8F%A4%E6%96%B0%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E3%82%92%E6%AD%A2%E3%82%81%E3%82%8B%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E6%8F%90%E6%A1%88-%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%81%AE%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AE-%E5%85%AC%E6%AD%A3-%E3%81%A7-%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%9A%84-%E3%81%AA%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%99/u/24070821 Change org の署名内容の一方の柱であった、海兵隊の日本撤退を求める主張については一切紹介しませんでした。 そればかりか、辺野古基地建設の賛否を問う、県民投票の呼びかけ人であった元山仁士郎氏が、条例として採決された県民投票の実行を拒む宜野湾市、沖縄市、宮古島市、石垣市、うるま市の5市長に抗議して行ったハンガーストライキや、 米国籍のウチナー4世、ロバート・カジワラ氏が始めた、辺野古基地建設中止をホワイトハウスに請願するための署名運動といった、全国ネットのメディアでも報じられた活動についてさえ、一切触れませんでした。 そして、彼ら(「沖縄発 新しい提案」実行委員会)が、Change. org で集めた署名の請願と矛盾の無い、米海兵隊撤退論も容認する陳情書を公表したのは、上述の県民投票の結果、辺野古での埋め立てに反対する票が多数派を占めたのが明らかになってから1か月も経った、3月27日でした。 https://www.change.org/p/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3-%E8%A1%86%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E9%95%B7-%E5%85%A8%E5%9B%BD%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E4%BC%9A-%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%AD%B0%E4%BC%9A-%E8%BE%BA%E9%87%8E%E5%8F%A4%E6%96%B0%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E3%82%92%E6%AD%A2%E3%82%81%E3%82%8B%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E6%8F%90%E6%A1%88-%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%81%AE%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AE-%E5%85%AC%E6%AD%A3-%E3%81%A7-%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%9A%84-%E3%81%AA%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%99/u/24347487 私の見立てが勘違いでなかったことは、今年(2019年)になってはっきりしました。彼ら(「沖縄発 新しい提案」実行委員会)がどういう勢力と連携して活動しているのか?少なくとも、長年地元で基地反対運動を続けてきた沖縄県民に、協力的な勢力でないのは明らかでしょう。
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粗雑な発表に要注意(名古屋市立大 村瀬香准教授の発表について

 福島第一原発事故で飛散した、放射性物質による健康被害については、いろいろなことが言われていますが、科学的な信頼性のある情報は極めて少なく、残念ながら学術誌に掲載されたレポートであっても、必ずしも信用できません。先日も、名古屋市立大学の村瀬香准教授が、福島第一原発事故後に、乳児の心奇形が増加したと発表しましたが、プレスリリースを読むと、科学分野の研究発表とは到底言い難い内容でした。 https://univ-journal.jp/25180/ https://research-er.jp/articles/view/78091  東日本大震災では、地震や津波による母体への身体的被害に加え、その後の生活環境激変など、胎児への悪影響が懸念される要素が数多くあり、原発事故後の影響を調べるには、こうした、地震そのものの影響と、放射能汚染による影響とを分離するための、何等かのデータ処理が不可欠です。  けれどこの発表は、そのような処理を何ひとつ行わずに、東日本大震災後の心奇形増加を、福島第一原発後の心奇形増加と言い換えて、発表しているだけ。  学術誌は、査読論文を除き、形式的に基準を満たしている投稿は信ぴょう性に關係なく掲載するので、査読論文以外は、学術誌に掲載されたからといって、信用できる訳ではなく、注意が必要です。著名学術誌に掲載された査読論文でも、STAPのように、掲載後に、(査読者ではない一般の研究者からの指摘で)ねつ造が露呈したケースもある位です。  このようなケースで、科学に誠実な研究とはどういう仕事かと言うと、例えば、 1.実際の、放射能汚染の多少と、心奇形発生率との相関を調べる。 2、過去の、津波を伴う大規模地震後の、新生児の奇形の内訳と、東日本大震災発生後の、新生児の奇形の内訳を比較し、地震や津波の影響では説明困難な、東日本大震災特有の奇形の発生が無いかを調べる。 3、心奇形の増加が、放射線被ばく特有の健康被害だと、疫学的に言えるのかどうかを、過去の奇形の症例研究などから検証し、その検証結果と共に、東日本大震災後の心奇形増加について、言及する。 といった研究ではないかと思います。 残念ながら、これまで報じられた、福島第一原発事故に関連した、健康被害の研究発表の中で、議論に値するのは、岡山大学の津田敏秀教授らによる、小児甲状腺がん多発についての分析くらいではないかと思います。 https://hiroshi-s.at.webry.info/201603/article_1.html 2019年4月9日追記: この論文の内容のおかしさについては、案の定、インターネット上でも数多く指摘されていました。 https://togetter.com/li/1328907?fbclid=IwAR0qp8YM-Nsk5TgjVlV2dJUPtfnCFroto1obBc7PkJJMCR2cOFTzjBmVBzQ とりわけ、 >これ手術件数ですよね。複雑心奇形の手術手技や手術成績は年々上がっていて、かつて「手術適応でない」と言われたケースも行われることが増えているので、全体の手術件数が増加傾向になるのは不思議ではないように思いますが >ARTの普及や高齢出産により先天性疾患そのものが増えているバイアスもありそうですね。 むしろ、考えうる各種因子との関係が知りたいところです(放射線は関係ないでしょうし…) 2019-03-14 22:08:00 ART= assisted reproductive technology, 生殖補助技術 体外受精、顕微授精法、胚移植、卵子・胚の凍結保存などの技術を駆使して体内での受精過程に問題のある患者さんに対して体外に取り出した卵子と精子で受精を行い、生じた受精卵を子宮に戻して妊娠を成立させる医療技術です。 http://www.jsfi.jp/citizen/art-qa01.html という、医療技術の進歩が反映されているだけではないかという指摘や、 心臓の奇形の他に、村瀬香が、原発事故との関連を訴えていた、停留精巣の増加について、 >増加は福島県が多いわけではなく,北海道から沖縄まで一律に増えている pic.twitter.com/sA787OYeU1 という指摘も重要でしょう。原発事故(=放射能汚染)と関連のある症例なら、地域ごとに増加の度合いが異なるはずですから、全国でほぼ一律に増えている出来事に関して、原発事故の影響を疑うべきだと主張するのが、科学的な思考かというと、はなはだ疑問を抱かざるを得ません。
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反戦アートへの疑問

 私が子供の頃、平和運動と言えば、空襲や飢餓の恐ろしさを語り継ぐ活動ばかりで、そこで語られる庶民は一方的に被害者でした。それから半世紀以上経った今でも、日本国内では状況はあまり変わらず、反戦の表現活動と言えば、政府が悪者で、庶民は善人で被害者と、相場は決まっているような印象を、未だに受けます。  けれど現実には、昭和の日中戦争も日米戦争も、マスメディアに煽動された庶民の多くが戦争に賛成し、メディアは競って、戦果に留まらず戦地での現地人虐殺行為まで報じていたことが、今では広く知られているし、戦後の戦争特需も、当事を知る多くの日本人が、(他国民の犠牲で利益を得ていたことを)誇らしげに語っていたのを、私は覚えています。在日朝鮮人や中国人への差別は、現在でも日常的に見聞きします。  戦争を体験なされた方ご自身が、自身の体験や、そこから生まれた表現を世に問うのは当然で、それはいつでも尊重されなければなりません。でも、自分に戦争の体験も記憶もない人が、ただ体験者の立ち位置を真似て、加害者としての側面に触れず、被害者としての庶民ばかりを描くのが、戦争を未然に防ぐ風土の育成に、貢献するのでしょうか? 以前も書いたことですが、反戦・平和を訴える作品の中で、実際に、人権を守る現場で闘っている人達への、リスペクトが感じられる作品が、滅多に無いのも、疑問のひとつです。 https://hiroshi-s.at.webry.info/201402/article_2.html  とりわけ今世紀に入ってからは、口先では平和を愛するとか優しさとか思いやりとか言いながら、人権侵害にも戦争にも無頓着で、現実に何が起きているのか知っていても、何の支援もしなければ発言もしない、冷たい日本の民衆の姿が、次々と露わになっています。 イラク戦争の口実となった「大量破壊兵器」が存在しないことを、米国政府が認めてもなお、漫然と、自民党のイラク戦争支援を支持し続け、戦争で治安が崩壊したイラクに赴くボランティア達にも、カンパをするどころか自己責任だと切り捨てる日本の民衆。そこから派生したシリア内戦の惨状を、日本に伝えようとするジャーリストも、自己責任で勝手な真似をと、突き放す。 2020年の東京オリンピックに向けた建設工事に人や資材を取られ、東日本大震災の復興工事に支障が出ていることが、ニュースで報じられても、何事もなかったように東京オリンピック開催の話題で盛り上がる。 原発事故で住む場所を失い、避難してきた人達を、放射能が移ると差別したり(それでいて、流通している生鮮食品の汚染には無関心)、大金(保証金)もらってるだろといじめたり(実際には避難者のごく一部しか、行政からの支援を受けられないでいる)、 与党が煽動する、生活保護受給者パッシングには付和雷同しても、貧困層への支援事業は、報道されても話題にしないしカンパもしない。 政治や政局を偉そうに批評するのに、沖縄の基地問題は語らない。沖縄での、警察官による暴力的な住民(そのほとんどが高齢者)排除が、何度ニュースで報じられようと。そのくせ、沖縄か米軍が居なくなったら日本はどうなるんだと言う。日本有事に、在日米軍は、直接その戦力を行使することはなく、自衛隊の支援しかしないことは、「日米防衛協力のための指針」にも明記されているのに。 などなど。  恐らくは、いつの時代もそうなのでしょうが、国を、差別や戦争に駆り立てるのは、政府だけではなく、大衆の後ろ盾が決め手になるのだろうと思います。大衆がそうなるように、政府が(マスメディアを使って)煽っているのは否定できないでしょうが、民衆が善で政府が悪、などという、古典的な時代劇のような構図が、現実の社会にあてはまらないのは、何か一つでも、弱者(人間でなくてもいい)を支援する活動に、ボランティアなどで参加してみれば、嫌でも分かることです。 では、表現者は、反戦や、平和を訴えるという文脈で、何をすれば良いのか?  2/24に沖縄県で実施された、辺野古基地建設の是非を巡る県民投票は、元山仁士郎という大学生が、ほんの数人で運動を初めたものです。 最終的には県政を動かし条例に基づく実施にこぎつけ、見事7割を超える反対票を獲得しましたが、当初は、基地建設反対運動をしている沖縄県民からも、失敗した(少なくとも過半数の反対票を獲得できなかった)らどう責任を取るんだ!と、厳しく批判されていたそうです。1~2ヶ月に一回ほど辺野古へ行って、基地建設反対運動に参加している私自身も、基地問題について意見が言いにくい風土の沖縄で、過半数の反対票を獲得できるのか? 懐疑的でした。 https://maga9.jp/190227-5/?fbclid=IwAR3Zpvijd0UXtcZLzRf9Ao4Ig7Oc5PUEDpyqfo99CJwKrUWdDuf2RKXA08I にも関わらず彼は、長年地元で基地反対運動を続けてきた人達の経験則を受け入れず、手探りで、様々な広報、対話を模索し、試しながら支持の話を広げ、周囲が予想する以上の結果を出したわけです。  またロバート・カジワラ氏は、米国人であるにも関わらず、祖先がウチナーンチュだったせいで、辺野古問題に無関心でjはいられなくなり、ホワイトハウス宛に辺野古基地建設中止を請願する署名運動を、インターネットを通じ、世界に呼びかけました。この署名活動は日本国内でも大きな広がりを見せ、これまで政権批判につながる発言がタブー氏されていた日本の芸能界でも、署名への協力を公然と呼びかける芸能人が相次ぎました。更にこの署名運動は、英語での活動だったため、ブライアン・メイ氏など、世界の著名人達からも声援が寄せられ、県民投票の投票率にも、大きく貢献したと、見られています。 https://hbol.jp/183872 https://petitions.whitehouse.gov/petition/stop-landfill-henoko-oura-bay-until-referendum-can-be-held-okinawa https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/361226 https://mainichi.jp/articles/20190108/k00/00m/040/154000c https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/248366/ こうした、県民投票実施に向けての一連の活動は極めて創造的であり、県民投票は、芸術作品そのものではないものの、ヨーゼフ・ヴォイスが1970年代に提唱した、拡張された芸術概念(社会彫刻)の、正に具体例に、該当するのではないかと、思います。 https://ameblo.jp/anthroposophy/entry-12066774044.html http://kusanone-bunka.com/396 https://hiroshi-s.at.webry.info/201002/article_1.html 彼のような結果を出すには、時間もかかるし運や偶然の出会いも必要で、誰にでも出来ることではないでしょうが、常識に疑問を抱き、その謎を探る過程を表現行為につなげることは、作品を作るスキルのある人なら、できることではないでしょうか? 表現活動は、元山氏のような、具体的な成果を出す必要も、ないのですから。 政府(あるいは政治)が悪で、庶民が善という、芝居がかった勧善懲悪も、今、私達が疑問を抱くべき常識、なのではないかと、思います。
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戦前とどうちがう?(公教育にまで差別を持ち込む自民党)

アジア各国から連れて来られ、パスポートも取り上げられ、休みも与えられず最低賃金も守られない、実習生という名の奴隷達。何人命を落としたのか? 元締めも把握していない。 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190125/k10011790841000.html そして気がつけば、日本の経済は、法による保護が届かない外国人労働者が底辺を支えている。外国人労働者の数は、厚生労働省が把握しているだけでも146万人。日本人派遣労働者数130万人を上回る。 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40474100V20C19A1MM8000/ 更にこのような、外国人(日本以外のアジア人)への虐待と差別を、なんとも思わないような差別を、公教育を通じて、潜在意識に刷り込もうとしているのが、自民党と、その支持層なわけです。 https://toyokeizai.net/articles/-/260713 以下、上記URL (東洋経済 ON LINE 2019 1/27 前川喜平著:ヘイトを撒き散らす危険な「愛国思想」の元凶) より引用→ 国民と同胞とを一体視する思考は、国家と家族も一体視する。国家とは血筋を同じくする大きな家族、即ち血縁共同体だという観念だ。それはまさに「國體思想」である。1937年に文部省が作成・配布した「國體の本義」という文書にはこう書いてある。 「我が國は一大家族國家であって、皇室は臣民の宗家にましまし、國家生活の中心であらせられる。臣民は祖先に對する敬慕の情を以て、宗家たる皇室を崇敬し奉り、天皇は臣民を赤子として愛しみ給ふのである。」 このような家族国家観は、直ちに自民族中心主義につながり、それはさらに排外主義や人種差別主義を呼ぶ。「同胞を大切にする」ということは、「同胞でない人は大切にしない」ということだからだ。 日本社会に暮らしている「同胞でない人」の中で最も数が多いのが在日コリアンだ。彼らが自らの民族の言語、文化、歴史などを学ぶために設置しているのが朝鮮学校である。安倍政権は朝鮮学校を高校無償化制度から排除し、各都道府県等に対し、朝鮮学校への補助金を見直すよう促した。このような動きを、私は「官製ヘイト」と呼んでいる。 「在日に日本人の税金を使うな」などと筋の通らない主張をする者がいるが、在日コリアンの人々もしっかり税金を納めている。官製ヘイトがまかり通る背景には、在日コリアンの人々に対する偏見と差別意識がある。「同胞でない人は大切にしない」という意識が、その偏見や差別の土壌になっている。そういう偏見・差別の極端な姿が「在日特権を許さない市民の会」(在特会)のようなヘイト団体だ。 日本は血のつながった日本人だけの国だという國體思想は、移民という「異なる血」を日本の社会に入れることを拒否する思想である。安倍政権は國體思想にとりつかれた政権だから、当然移民を嫌う。 ところがその反面、深刻な人手不足に直面する経済界からの要求に押されて、外国人労働者の受け入れを本格化するための出入国管理難民認定法の改正を強引に行った。これは事実上の移民解禁だと言ってよい。 移民を受入れるのであれば、教育、福祉、医療、住居その他生活万般にわたる円滑な受け入れ環境の整備を行わなければならないはずだ。しかし、安倍首相は移民政策は採らないという。つまりは、外国人労働者を人間扱いしていないということだ。 ←引用おわり そればかりか自民党は、差別意識などの刷り込みを徹底させるため、自分の頭で考えるという主体性を、国民から奪う教育を推進しています。 https://toyokeizai.net/articles/-/260699 以下、上記URL (東洋経済 ON LINE 2019 1/26 前川喜平著:我慢と自己犠牲を美化する教育勅語のヤバさ) より引用→ ところが、実際の検定教科書を見てみると、「考え、議論する道徳」のための教材だとは到底考えられないような読み物であふれている。 一例を挙げれば、2018年4月から小学校で使われている8社の教科書のうちの1つ、教育出版の教科書「小学どうとく」には、「れいぎ正しいあいさつ」と題する教材が載っている。「つぎのうち、れいぎ正しいあいさつはどのあいさつでしょうか。」と設問を掲げ、3つの選択肢が示されている。 (1)「おはようございます。」といいながらおじぎをする。 (2)「おはようございます。」といったあとでおじぎをする。 (3)おじぎをしたあと「おはようございます。」という。 正解は2、1と3は不正解、だそうだ。 この教科書の監修に当った貝塚茂樹武蔵野大学教授によれば、正解の2は「語先後礼」という礼儀の基本に沿ったものなのだそうだ。私は60年以上日本の国で生きてきたが、「語先後礼」という言葉は初めて聞いた。 貝塚氏によれば、このことは明治時代に文部省が刊行した「小学校作法教授要綱」以来の基本なのだそうだ。しかし、あいさつの仕方について「これが正解だ」と教えることは、子どもたちを1つの型にはめ込む指導であり、子どもたちの主体性を育てるどころか、それを阻害してしまうことになるだろう。文部科学省が求める「考え、議論する道徳」とは正反対の教材だと言わざるをえない。 ちなみに、中央教育審議会の専門委員を務め、文部科学省の「道徳教育の充実に関する懇談会」の委員でもあった貝塚氏は、日本教育再生機構(2006年に「新しい歴史教科書をつくる会」から分かれて発足した団体)の理事を務めるなど、日本会議系といわれる学者だ。 貝塚氏は、「考えたり、議論するという過程を経なければ、自分の問題として道徳的価値を自覚し、内面化できない」(『特別の教科道徳Q&A』ミネルヴァ書房、2016)と言うが、彼が言う「考え、議論する道徳」は、それ「自体が目的なのではなく、道徳的諸価値を“自覚”するための方法である」(『「考え、議論する道徳」を実現する!』図書文化、2017)と言う。 彼の論においては、道徳的価値は絶対的なものとして子どもたちの「外」にあり、それを「考え、議論する」という方法によって「自覚」させ「内面化」させることが道徳教育なのだということになる。「考え、議論する」過程を経ることにより、子どもたちは外から注入される価値を、あたかも自ら見いだした価値であるかのように思い込む。 これは、単なる教え込みよりもさらに巧妙な教化であり、洗脳といっても過言ではない。 教育出版などいくつかの教科書では、子どもたちに個々の徳目に沿った自己評価をさせている。この「自己評価」も外在的な価値を子どもたちが「内面化」する効果的な手段になるだろう。 「絶対的な価値」を「内面化」した子どもは、その価値観を他者にも押し付けるようになるに違いない。そのような子どもが多数を占めるに至ったとき、その価値観に納得できない少数者は否定され、排除され、敵視される危険にさらされるだろう。 「考え、議論する道徳」がこのような考えの下に行われた場合、それは徳目の注入方法として単なる「刷り込み」以上に強力な方法になる。それよりはまだ個々の徳目を「教師が抱く正解」として認知する「いい子」になるほうがましである。 また、貝塚氏の論に拠れば、「道徳の上にさまざまな学問・科学が乗っている」のだという。道徳を基盤にして哲学、政治、経済、科学、文学などが成り立つというのだ。これは国語、理科、社会などすべての教科が道徳を基にして教えられなければならないということであり、修身科を「筆頭の教科」と位置付けていた戦前の教育課程の考え方を復活させるものだと評価できよう。 徳目の教化が全教育課程を覆い尽くすというのだ。歴史教育は愛国心教育の上に行わなければならないということになる。これでは科学的思考や批判的精神はまったく育てられないだろう。 ←引用終わり 日本の社会には既に、日本国籍所持者に対しても、血筋や権力の都合によって、手の平を返したような差別が横行しています。 国際的には容認されている、二重国籍者が議員になると、マスメディアは、まるで敵国のスパイであるかのような憎悪の記事を流す一方、海外で暮らす日系人であっても、(権力に差し障りの無い)娯楽の対象になるなら、”日本人”だと言って賞賛します。 日本人と、ハイチ人との間に生まれ、米国で育ち、米国で暮らす、二重国籍のテニス選手、大阪なおみの活躍を、日本のマスメディアは、日本人の快挙だと賞賛する一方、彼女のもうひとつのルーツである、ハイチについては一切触れない異常さに、私達は気づく必要があります。 https://www.nikkansports.com/sports/news/201901270000017.html 日本のマスメディアは、彼女の血筋の一方を、まるで存在しなかったかのように扱っているのです。
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必然(パイオニア株式会社の凋落)

かつてこの企業から、会社都合で解雇された一人である、私の目から見れば、これは「孤高が招いた漂流」などではなく、結局のところ、幹部同士の属人的な人間関係(〇さんがああ言ったから、▽さんがこうだから・・)で全てが決まっていった必然だろうと思います。一見もっともらしい、経営ポリシーはいろいろ掲げられましたが、それらは後付けの体裁造りというのが、私が勤務していたころからの、多くの従業員の実感でした。 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37207710R01C18A1000000/?fbclid=IwAR35usyT5xvvXjmIalvLtuS1a1mQUWSf2hD7ZGipUpjLNoWbeX84m8oZ3RI 今にして思えば、1990年代に掲げられた、戦略なき一兆円企業構想が、転落のはじまりだったのではないかと思います。具体的な商材の展望もなく、連結売上一兆円を目指す無謀さは、当初から社内でも指摘されていましたが、経営陣はお構いなしに、一兆円を前提にした財務計画(=机上の空論)を、各事業部に押し付けました。当然そこからは、実売に結びつくような商品も、販売戦略も出るはずもありません。 商品化ではパイオニアが先鞭をつけた、DVDプレーヤ、DVDレコーダも、一兆円企業につながる膨大な(松下はじめ大手家電とトップシェアを争えるような)売上高が期待できる商品戦略が生まれることもなく、生産コスト削減の要求に応えるべく、回路の集積化推進などしたものの、大手家電に対抗できる商品は出来ず、マニア向けの高級路線では、後発の三菱電機に高評価を奪われてしまう。 液晶ディスプレイと比べ、高画質ではあるものの、生産コストは高く、重量も重く、消費電力も大きいプラズマディスプレイは、マニア向けの小さな市場に向く技術だったにも関わらず、一兆円企業という体裁に合わせるため、液晶ディスプレイとの価格競争に適応できる量産技術もないまま、NECの子会社を買収するなど、生産力だけを急拡大したせいで、収益は悪化の一途を辿り、従業員の一斉大量解雇を招いてしまう。 今世紀のはじめ、”一兆円企業”の無謀さがはっきりしてくると、経営陣は突然、”PDCA(Plan, Do, Check, Action) cycle”を叫び始めました。 PDCAサイクルとは本来、企業の業務すべての工程に渡って、計画されたことが、ほんとに実行されているか? 計画時点での目論見からのずれはないか? 必要な計画修正は何か? 必要な計画修正は実行されたか? を、きちんと(記録に残る形で)漏れなく確認するマネジメントを指しますが、当時のパイオニアの経営陣は、売上が思うように伸びないのは、管理職が経営陣の言う事を守っていないからだと言い、取締役が決定する事項をPDCAの対象にはしませんでした。 つまり、収益悪化の原因だった経営方針を、聖域にしてしまったため、無謀な経営方針による収益悪化は改善されるどころか、一時的な揺り戻しはあったものの、悪化の一途を辿りました。今にして思えば、一時的な揺り戻し(収益改善)の裏では、問題の先送りが横行し、やがて先送りの弊害が、揺り戻しよりも大きな経営悪化となって、表面化していたのでしょう。 今世紀に入ると、パイオニアの屋台骨だったカーオーディオ、カーナビゲーション事業も、商品自体の低価格化競争に加え、iPodなどのディジタルオーディオプレーヤ、更にはiPhone などスマートフォン(のナビゲーションアプリ)普及に伴う、代替市場の拡大が進み、じわじわと収益が悪化して行きました。 カーオーディオ用の小さな筐体に、CDドライブやDVDドライブなど、メカニカルな機構を、車載品に求められる高い信頼性と耐環境性能を保ちながら、組み込む技術(ノウハウ)に強みがあったパイオニアにとって、情報の固体メモリ化、更にはネット配信化の普及が、大きな脅威になるという認識は、今世紀の初めには既に、カーエレクトロにクスの開発部門内では共有されていました。が、結局その危機感も、具体的な新規事業を生むには至りませんでした。 私が会社を解雇された2009年以降も、大規模な事業撤退(または売却)と従業員解雇は繰り返され、遂には日経新聞でも報じられた通り、DVD,プラズマディスプレイといったホームエレクトロ二クス事業が自滅した後の屋台骨だった、カーナビゲーション事業まで、存続の危機に陥ってしまいました。 今から30年近く前の1990年頃、レーザーディスク(カラオケ)事業が順調に収益を伸ばしていたパイオニアの社内では、当時パイオニアとは対照的に、ビデオデッキ事業の収益悪化で、存亡の危機に陥っていた日本ビクターの窮状を見て、私も含め、多くのパイオニア社員は、半ば冗談で、「明日は我が身か?」と語っていましたが、実際、それから十数年後には、我が身になってしまったわけです(その時は絶好調だったレーザーディスク事業も、1990年代に入ると、通信カラオケの普及で、急速に衰退した)。 昔から、転ばぬ先の杖、とは言いますが、事前に予想された危険に対しては、全力を挙げて対処しないと、パイオニアのようになるわけです。この会社の凋落要因で、事前に予測できなかったことは、ひとつもなかったと、思います。
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快慶:写実力あってのデフォルメ

東京国立博物館で開催中の特別展、「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」を見に行ってきました。特に印象に残ったのは、快慶(の指揮の下で制作された)十大弟子立像の写実性でした。 運慶と並び、「慶派」の立役者として歴史の残る、快慶の仏像の作風は、まるで演劇や舞踏の一場面を切り取ったかのような、今の言葉で言うリアリティに溢れた仏像も多い運慶の作風とは対照的に、それまでの仏像(彫刻ではなく、あくまで信仰の道具としての表象)の美学から大きく外れることのない、端正、というか保守的なものですが(快慶自身、信心深い仏教徒だったと言われている)、この十大弟子立像については、仏像というより、彫刻と言った方が良さそうな、非常に写実的な造形でした。 とはいえ、その写実性は、演劇や舞踊のステージ写真を3次元で撮影したような、運慶の作風とは大きく異なり、写実的だけれども、現実世界の出来事のようなリアリティは感じられませんでした。運慶の写実が、ステージ上の俳優やダンサーのポートレイトなら、快慶の写実は、写真館で撮るポートレイト。モデルがボーズを決めて、静止して、シャッターが切られるのを待っていたかのような写実性。現代の写真撮影に例えれば、ダイナミズムの表現のために、カメラアングルやレンズの画角、それどころか、撮影後の被写体の体型まで画像処理で加工するような、運慶の作風に対し、快慶の作風は、カメラアングルも撮影に使うレンズも、カメラと被写体の距離も、徹底的に吟し尽くした上で固定され、撮影した画像の加工も一切しないような、ストレートな趣。 考えて見れば、極めて高い写実力があればこそ、写実から自在にデフォルメして、自分が追い求める、あるいは顧客が期待する美学に即した仏像の表現ができるわけで、写実的な描写力あっての多様な表現力、というのは、古今東西、共通した原理原則なのかも知れません。 そして、本展のもうひとつの目玉が、肥後別当定慶作(彼の指揮の下で仏師達が制作した)の六観音。 (鎌倉時代に定慶と名乗った仏師は、少なくとも、肥後別当定慶と大仏師法師定慶の二人がいるそうです) 肥後別当定慶の観音像は、髪型と衣の表現の豊かさに特徴があるそうで、確かに、一体一体、髪型も、衣の形やシワの寄り方も異なり、かつ立体的で、まるでファッションショーのような趣でした。 日本の古い仏像の多くは、塗装がすっかりはげ落ちてしまい、今ではそれぞれの造形の特徴しか、確認することができませんが、完成した当初は、着色の効果も相まって、仏師(今で言えば、工房の経営でも作品制作でも陣頭指揮を取るリーダー)毎の作風の違いが、今より一層際立ち、仏像や仏殿は単なる信仰の対象にとどまらず、今私達が目にする寺院より、はるかに多様で個性的な、世界観の表現であったのかも知れません。 まるで演劇や舞踊のワンシーンを再現したかのような、運慶のダイナミックな世界。 信仰に関係のない演出を、意図的に排除したかのような、ストイックな肖像作りに徹した快慶。 衣装、髪型という、今で言う”ファッション”の部分で個性を発揮した肥後別当定慶。 12世紀後半の相次ぐ戦乱を経て、武士という新興勢力が、過去500年ほどに及んだ朝廷の支配を無力化、力を持つ者と持たざる者が大きく入れ替わった時代。日本の文化は、現存する文化遺産から私達がイメージするより、はるかに大きな振れ幅で、変化していたのかも知れません。
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資料紹介:土地の匂いと”正調”

下記の記事は、日本の民謡を録音した音源を素材にDJをしているユニット”俚謡山脈”のインタビュー記事で、直接的には日本の民謡についてしか語っていませんが、世界の音楽産業全般に通じそうな、大変興味深い内容でした。 https://www.danro.bar/article/11623411 上の記事中でも紹介されていた、『日本の民謡』(浅野建二著/岩波新書)の中での指摘「土地の匂い、すなわち郷土色を失った民謡はもはや民謡ではなくて、最下級の流行歌に堕したものといってよかろうと思う」 には、私も、「なるほど」と思いました。というのは・・ 1980年代はじめ、私は大学生だったのですが、講義の無い時間帯に部室へ行くと丁度、NHK-FMの、「民謡の時間」でした。そのせいもあって、当時は相当数多く日本の民謡を聴いたのですが、そのおかで分かってきたのは、一口に民謡と言っても、同じ曲でも、演者によってそれぞれ節回し(西洋音楽で言うところの、リズムやキーや、メロディーや音階)が少しずつ違っていること。同じ曲(演目)といっても、西洋近代音楽の”曲”とは、随分違う概念だということが分かりました。 その一方で、明らかに音階が現代の西洋楽器に合わされ、リズムも五線譜に書き記されたような、まるで、小学校の音楽の授業で歌わされた「ソーラン節」のような民謡も、どんどん放送されるようになっていました。実際には、そうした民謡の方が多かったかも知れません。 時代は丁度、民謡歌手出身の金沢明子さんが、テレビにもよく出演するようになった頃。私が大学を卒業し、社会人になった、1980年代半ばには、伊藤多喜雄さんが、西洋楽器も交えたバンドを率いて、全国を回るようになっていました。 ヒットチャート狙いに変貌した民謡を、「堕したもの」と呼んでいいのかどうかは、議論の余地が大アリですが、ヒットチャート狙いに転じた、と言うより、西洋近代音楽の音階と記譜法に馴染むように変換されてしまった民謡に、オリジナルの魅力が残っていないのは、確かでしょう。それは、名前は同じ民謡でも、もともとの民謡とは全く別世界の表現、近代西洋音楽の派生系と言った方が適切かも知れません。 そして私が社会人になってから、随分と年月が経った後に気づいたのですが、こうした変貌は、日本の民謡に限らないようです。 以前、インドネシアの民族音楽を同国の大学で専攻した人達(インドネシア人)による、ガムランの演奏を収録したCDを、聴いたことがあるのですが、明らかに、五線譜に従って演奏しているのが分かる、(民族音楽にしては)異様にゆらぎの少ない機械的な演奏に、びっくりした記憶があります(特に、新作の曲では)。1990年代以降、日本各地で盛んになった、和太鼓のグループによる演奏も、そのリズムやテンポの刻みは、明らかに五線譜に従っている機械的な演奏が大半で、伝統的な祭囃子とは、似ても似つかぬノリの音楽になっています。 実は、現在、”クラシック音楽”と呼ばれている音楽も含め、世界中のあらゆる音楽は、音楽産業界の”ジャンル”になる過程で、もともと持っていた、ある種の、一期一会のダイナミズムを、捨ててしまっているのかも、知れません。 そして、もうひとつ、音楽が、演奏者”以外”の人達が仕切るビジネスに変貌する過程で、新たに生まれる価値基準についても、上述の記事中で、俚謡山脈のメンバー、斉藤匠氏が興味深い指摘をしていました。 「民謡の世界に「正調」って言葉があるんですけど、それは、正統性を持たせちゃった言葉なんですよね。レコードになったり本で紹介されたりで、それまでいろんな節回しがあったものを、「みんなが歌うべきメロディはこれだよ」って決めちゃったやつが「正調」。そうなると他のやり方で歌っていた人たちが、そっちに合わせがちになっちゃう。」 特定の表現だけが、正しい表現として権威化されてしまう現象。これは、日本の民謡に限った話でしょうか? もともとは地域によって、人によって多種多様だった欧州の音楽が、産業革命の進展に伴い増加した、”ブルジョア”階級向けに大規模化・規格化されて”クラシック音楽”となり、それが、レコード産業や放送産業、更には教育産業の都合に合うように、絶対的なものとして権威化される。 レコード産業とマスメディアの影響力によって、ある時期に、あるプレーヤー達が行った試みが、””スイングジャズ”、モダンジャズ”、”バップ”、”フリージャズ”・・などと細かくジャンル化され、後を追う者達は(特に日本では)レコード会社とマスメディアが、ビジネスのために仮組みしたに過ぎない”ジャンル”を、まるでルールブックのように盲信しながら、勝手に”本質”などという神話を創作しては、本家争いに明け暮れる。 などなど・・・ 私達の、音楽についての感性は、実は、テレビやラジオ放送、最近ではストリーミングを通じて、ビジネス界の都合に合うよう、それこそ物心付く前から、洗脳されているのではないでしょうか? ”土地の匂い”とは、少し違う話かも知れませんが、以前、青森県の弘前城へ、桜を見に行った時、丁度、中学生の、お囃子のコンテストが行われていました。私は全く予備知識も無く、その現場に出くわしたので、詳しいことは分からないのですが、弘前市には、地域毎に、祭囃子を演奏する”社中”があって、その社中が更に、大人の社中と、学童の社中に、分かれて活動しているようです。 その日の課題曲は、岩木山にお参りに行った後、下山するときに演奏するお囃子だそうで、確か、50組前後のグループが、入れ替わり立ち代り、同じ演目を演奏していたのですが、その中にほんの1~2組、嫌でも体が動き出すような、絶妙なビートを刻むグループが居たのを、今でも良く覚えています。 同じ演目を、同じように演奏しているはずなのに、ごく限られた演者だけが、なぜか音だけで、聴衆を沸かせることが出来る。音楽の、とりわけ、民衆の”ハレ”の場で継承されてきた音楽の魅力、音楽の力というのは、そうした、記述や法則化が困難(恐らく無理)な、世界の中に、宿っているような気がします。 今では音源の入手はおろか、演奏の記録や歴史を辿ることさえ容易ではない、日本の古い民謡を、現代の”ハレ”の場の担い手であるクラブDJが、丹念に発掘しては、ダンスビートとして再編集する。 それは奇をてらった見世物というより、音楽的にはむしろ必然なのかも知れません。
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資料紹介:米国の代理で戦争するための南西諸島基地

以前のブログで、日本周辺で紛争勃発の危険が高まったときは、在日米軍は撤退してしまい、沖縄や南西諸島に配備された自衛隊が、沖縄県を主戦場に、米国の代理で戦争をするという、米国政府の方針を紹介しましたが、 http://hiroshi-s.at.webry.info/201303/article_2.html それに関連した資料、主に、伊波洋一参議院議員(元宜野湾市長)の寄稿や発言の幾つかが、インターネット上で閲覧できるようなので、以下にそのリンク先を掲載します。 IWJによるインタビュー記事(2013年4月2日) https://iwj.co.jp/wj/open/archives/72007 伊波洋一氏のツイートまとめ(2013年10月15日) https://togetter.com/li/577171 伊波洋一氏の発言を紹介したブログ(2014年8月3日) http://sun.ap.teacup.com/souun/14868.html IWJによるインタビュー記事(2014年12月20日) https://iwj.co.jp/wj/open/archives/215279 映画『標的の村』を撮影した三上智恵氏による解説記事(2015年9月9日) http://www.magazine9.jp/article/mikami/22529/ IWJによるインタビュー記事(2015年12月21日) https://iwj.co.jp/wj/open/archives/279853 上記URLより一部引用: その場合、限定戦争の主たる舞台になるのは沖縄周辺だ。伊波氏は、米国は南西諸島を舞台に自衛隊と中国軍とを戦わせて、日本が敗退するシナリオを描いていると説明する。  「中国に花を持たせ、台湾は米国が押さえて戦争を終わらせる。すべて米国の国益のため。日本にとって、選択肢は他にもあるのに選べない。もっと中国と仲良くやればいい。それができないのは、とても近視眼的だ」  伊波氏はインタビューの前半で、琉米修好条約締結160周年で、琉球新報と沖縄タイムスが沖縄の「自己決定権」を歴史的に検証した記事を紹介して、琉球王国の歴史を説明した。  「琉球国は武器を持たず、他国との信義を重んじることで、450年もの間、平和を保ってきた。1853年には独立国として、米国と琉米修好条約を締結している。その後、明治政府による琉球処分(1872〜79年)があり、明治政府は有利な通商権を得るために、宮古・八重山割譲案で、中国(清)に与えようとした。しかし、亡命琉球人が命懸けで清朝政府に抗議し、調印は撤回されている。このような琉球の歴史は、今まで隠されていたに等しい」  また、現在の沖縄で、イデオロギーを超えた「オール沖縄」から「島ぐるみ会議」に至った動きには、国際立憲主義と自己決定権という考え方があることを示し、自己決定権について、「ニュージーランド、オーストラリアやハワイで起こっている、先住民の土地の返還と権利の確認だ」と説明。「これに基づき、翁長知事が辺野古の埋め立て承認を取消し、『政治的イデオロギーよりもアイデンティティ』との言葉を生み出した」と述べた。  インタビューの終盤で伊波氏は、「日本にも、ひとつの指針が芽生えてくれれば」と期待を口にし、辺野古の問題は日本全体を左右するという危機感を、国民が共有できるかが問われていると訴えた。 映画『標的の村』を撮影した三上智恵氏の寄稿などを紹介したブログ(2016年1月21日) http://d.hatena.ne.jp/cangael/20160121/1453349535 ウエブジャーナル”コモンズ”掲載記事 「講演】辺野古埋め立て承認の取り消しと沖縄の自己決定権 「辺野古基地建設強行糾弾!12・5緊急関西集会」での伊波洋一さん講演録」(2016年1月24日) http://com21.jp/archives/10777 伊波洋一氏がネット上で公開しているpdf資料 http://ihayoichi.jp/yoichi_wp/wp-content/uploads/2017/06/4ec373358be7964b5ffc7627a7d8cac5.pdf 以上。
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運慶

昨年のことになりますが、国立博物館で開催中されていた、運慶展を見に行きました。  運慶を初めとする、慶派と呼ばれる仏師達の作る仏像は確かに、他の派と比べ、形態としては写実的要素が強いですが、現代の言葉で言う、”描写”、”リアリズム”に満ちていたのは、やはり運慶の(直接指揮で制作された)仏像に限られるようです。  当時の支配層の変遷や、それに伴う価値観の変遷、今風に言えば、反権威・反体制のゲリラ活動でもあった、いわゆる鎌倉仏教の勃興といった時代背景も含めて考えると、とても興味深い内容の展示でした。  様式論で語られがちな、日本の仏師達の技能が、現代の言葉で言う写実性においても並外れたレベルであり、また「表現」という観点から見ても、古代ギリシャ・ローマ時代やルネッサンス期のヨーロッパの彫刻よりも、むしろ、例えばロダンのような、近代の写実的な彫刻を彷彿とさせるリアリティーを有していることは、本展にも展示されている、興福寺所蔵の、四天王像、無著菩薩立像、世親菩薩立像の生々しい描写からも十二分に伺い知ることができます。  まるで優れた舞台演劇の上演中の一瞬を、ホログラフィーで3次元撮影したかのような描写。さらにこれらの仏像が、一人の仏師ではなく、作者として記名される指導者の指示の下、分業で制作されていた事実は、歴史に名を残した仏師達が、単に並外れた作家というだけでなく、高い技能を持っ複数の職人を擁する、今で言う工房のリーダーであったことにも驚かされます。 けれど、その卓越した技巧と表現力は、当時の日本社会の価値基準の中では、必ずしも、「優れた」能力とはみなされなかったようです。  運慶が築きあげた、リアリズムと言っても良い表現は、武士が貴族から、名実共に権力を奪い取った直後の時代は人気が高かったようですが、その子の世代には、形態の写実性(技巧)が引き継がれるに留まり、その写実性も、せいぜい運慶の孫の世代までで、1500年近くに及ぶ、日本の仏像の歴史の中では、ほんの100年足らずの、一時的な動きで終わってしまったようです。  とは言え、その卓越して写実的な表現は、リアリズムとはまた、別の方向性でも生かされたようで、例えば康弁(運慶の三男)作の龍燈鬼立像、天燈鬼立像は、今で言う、マンガ、アニメーションにも通じるような、生き生きした生命感を、実在しない怪物達に与えています。  こうした表現は、運慶の出現以前からあるようで、運慶の父・康慶の作とされる四天王像(興福寺蔵)に踏みつけられた邪気達の表情も、現代のマンガでもよく見られるようなユーモラスなデフォルメが施されています。 https://twitter.com/unkei2017/status/925976983217074176  表現という行為を、様式といった側面から見た場合、何が優れた表現なのか? という評価は結局、その時代の価値観に、大きく左右されるようで、時の流れに沿って進む特定の方向性、つまり、進歩とか後退といったモノサシで、評価できるものはないのでしょう。”印象派”に代表される、19世紀西ヨーロッパでの一部の画家達による試みに端を発し、20世紀(特に前半)に大きく花開いた、抽象表現や、いわゆるコンセプチュアルアートも、いずれは、創造や進歩というより、ある時代の空気を映した鏡として、語られる日が来るのではないかと思います。いや、ひょっとしたら、既に、そういう視点で、いわゆる”現代芸術”を歴史として捉え直すべき時代に、来ているのかもしれません。
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資料紹介:ペリー元国防長官の証言。辺野古基地は日本政府の意向。

先週のことになりますが、NHK教育テレビで、クリントン政権時代の国防長官であった、ウィリアム・ペリー氏へのインタビューが放映されました。 http://www4.nhk.or.jp/etv21c/x/2017-11-18/31/6516/2259599/ インタビューの内容は、1990年代半ば、北朝鮮の核開発が明らかになった時の、米国政府の沖縄基地政策に関する事柄が中心でしたが、ペリー氏は、普天間基地の県内移転は、日本政府の意向であって、米国政府の要求ではなかったと、明言していました。 沖縄の海兵隊基地を巡る、ペリー氏の証言の要点は、下記の通りです。 1.北朝鮮の核開発が判明した当時、米国政府は、沖縄の在日米軍基地を拠点にした北朝鮮への先制攻撃を考えていた。 2.当時国防長官だったペリー氏は、日本政府に対して事前に、北朝鮮への先制攻撃に、在日米軍基地を使って良いか尋ねた(ペリー氏曰く、「日本政府に”ノー”と言う機会を与えるため)が、日本政府からの答えは”Yes”だった。 3.米国政府は、普天間基地より能力の高い、新しい海兵隊基地を必要としてた。普天間返還というのは新しい基地を作るための表向きの理由に過ぎず、ペリー氏は、1995年の時点で、次期総理と目されていた橋本龍太郎(当時通産大臣)にも、米国政府が、普天間に代わる新基地を検討している旨を伝えた。そしてそれから3ヶ月後、総理大臣となった橋本龍太郎と、クリントンとの会談で、普天間基地返還を表向きの理由とした、海兵隊の新基地検討が決まった。 4.米国側は、普天間基地の移転先として、沖縄県内への移転にはこだわっておらず、ペリー氏は(沖縄県民に配慮して)県外移転を望んでいた。しかし、日本政府が普天間基地の県外移転に消極的で、県外移設の日米合意は出来なかった。 こうした経緯の延長線上に、現在の、辺野古基地建設がある訳ですが、NHK取材班に案内され、辺野古の工事現場を視察したペリー氏は、「普天間基地を訪れたとき以上に失望した」と、語っていました。 ペリー氏は、北朝鮮に対する抑止力(朝鮮有事の際には、迅速に大量の地上兵力を挑戦半島に送り込む体制を、北朝鮮政府に対し手誇示する必要性)として、今でも在日海兵隊基地が必要だと、番組中で主張していましたが、米国政府は既に、海兵隊のグアム島集結を決めていて、沖縄に海兵隊基地を作る必要性は、薄れる一方です。 米国が一方的に正義で、北朝鮮が一方的に悪であるかのように国際情勢を語り、米国が、北朝鮮への先制攻撃の姿勢を見せ続けることで、世界の平和が保たれるとする、ペリー氏の政治信条には同意できませんが、若き日に一兵卒として終戦直後の沖縄へ赴き、自らその惨状を目の当たりにしただけでなく、国防長官就任後に、沖縄戦の生き残りでもある大田昌秀元沖縄県知事と真摯に議論を交わし、強い信頼関係で結ばれたペリー氏にとって、自らの政治上の信念を、沖縄に押し付けることは、戦争を知らない世代には計り知れないほど、つらく厳しい役目だったのかもしれません。 沖縄の人達の苦難に一番無関心なのは、米国の政策担当者よりも、ヤマトの政治家や官僚や、大衆なのではないでしょうか?
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資料紹介:日本の学校制度は勉強が目的ではない

学校でのいじめ問題が、しばしばマスメディアで報じられるようになってから、もう数十年が経ちますが、いじめ問題は、前世紀の末期(概ね平成から)から急に、深刻化したのでしょうか? 明治大学で教鞭を執る、社会学者の内藤朝雄氏は、いじめの原因は、日本の学校制度(特に中学校)そのものにあると指摘しています。恐らくその通りでしょう。 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53333 日本の官僚達、そして戦後72年間のほどんどの期間、権力を握り続けている自民党は、戦後、より巧妙な形で、富国強兵の道具に最適化された、主体的思考能力を持たない人間を、大量生産するための教育行政を、堅持し続けているわけです。 最後に、上記記事の一部を、引用したいと思います。 日本の特殊な学級制度は、閉鎖空間に囲い込んで強制的にベタベタさせるよう、考え抜かれて設計されている。人間を個の人から群れの人へと内から変化させるのが、中学校の本当の目標である。 当然、兵営や刑務所のように、市民的な距離と個人主義が発生しにくいしくみになっている。逃げ場なく密着させて人を内側から変化させる爆縮レンズのような構造になっている。 日本の中学校のように、勉強ではなく、ベタベタ群れさせることに主眼をおいた学校教育は、世界でもめずらしい。 日本の中学校のクラスは、共に生きることを無理強いするための生活学級だ。どんなに嫌なひとたちでも、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、共に生きなければならない。 学校は勉強するためにいくところだ、と感じている生徒はほとんどいない。
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ムチャするなあ(すごく良い意味で)

今日(正確には昨日ですが)東京ろう映画際で、"LISTEN"という映画を見てきました。 http://www.uplink.co.jp/listen/ ものすごくいい意味で「ムチャ」している映画でした。  物心ついた頃から音が聞こえない、ろう者にとっても、”音楽”というもの(聴者にとっての音楽とは全く別の、音を完全に排した)が、存在するのではないかという、監督(ろう者)の、脳内での概念実験を、現実世界で強行してしまうという、正面切っての実験映画。  舞踏家の雫境(DAKEI)氏(彼もろう者)が制作に参加したものの、出演者の大半は、身体表現の訓練を受けたことの無いろう者達。中には演技の経験も無い素人も。そんなろう者達に監督は、「ろう者にとっての音楽とは?」とインタビューした上に、各自の体で音楽を表現してもらうという、無理難題を吹っかける。その根底には、(聴写の都合に合わせるためにプログラムされた)ろう学校での教育などへの疑問がある、とはいえ、理論武装も何もせず、いきなり、音という存在を知らない人達に無音の”音楽”を実演してもらうという・・・・ ほんと、ムチャしてます。  けれど、その結果は単なる混乱で終わった訳ではなく、(私も含めて)手話を少しでも習った経験のある人が本作を見ればすぐ分かるほど、出演者全員が、彼らの日常の”ことば”である、手話の動きから、緩急やリズムといった要素を、手話の意味から切り離して、これまで存在しなかった世界に、再構成しようと試みているのが分かります(とは言え暗い上映室内での完全無音の作品なので、正直私は何度か夢うつつになりました)。  後から映画のパンフレットを買って読んだところ、舞踏家の雫境(DAKEI)氏は既に、身体表現の講義で、手話を(言葉として意味をなさないように)でたらめな順に並べて、その手話の動きから身体表現を構成するという課題を出しているそうです。手話の所作と、意味とを一旦切り離して、ろう者にとっての音楽作品を開拓したり、ろう者が手話を習得する過程で、無意識に身につけているはずの、リズム感や”間”の感覚を、ろう者自身が自覚する試みは、これからの、身体表現の世界で、ひとつの流れとして、広まっていくのではないかと、期待させる一作でした。  私自身、もう20年近く前になりますが、当時の勤め先で行っていた、聴覚障害者向けのイベントで、音が全く聞こえないはずの幼児が、テレビアニメの主題歌に合わせて(音は聞こえなくても振動は感じられる)、夢中になって踊っている場面を目撃しているので、人間にとっての、音楽の根っこは、音波そのものではないのだろう、とは思っていましたが、今まさに、若い世代のろう者達が、その実証に取り組み始めたわけです。 私が生きている間には、市民権が得られるほどの成果は出ないかも知れませんが・・・ P.S.  本編では全く触れられていませんが、パンフレットの中で、何度も指摘されていることとして、聴者が手話を勉強するために行われている手話歌(既存の歌の歌詞を、手話に訳して、歌に合わせてその手話を披露する)を、ろう者のためと勘違いする聴者が多く、迷惑しているろう者が多いという指摘がありました。(聴者が聞く)音楽のフレーズに合わせて手を動かすと、ろう者が日常会話として使っている、手話本来の緩急やリズムを崩してしまうので、手話歌の手話は、ろう者にとっては不自然で、分かりにくい表現なのだそうです。ろう者の中には、手話普及の支援として、手話歌の指導をなされている方も、少なからずいらっしゃいますが、手話歌を勉強する聴者は、(私も含め)変な勘違いをしないよ う、気をつけたいものです。
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2016年9月29日追記:便乗アート

東日本大震災以来、不景気の長期化もあってか、大昔の「セクト」「動員」とは違った形での社会運動が、少しずつ広まってきたように見えます。デモもイベント化し(只のガス抜きで終わってしまうという弊害はありますが)、アーティストと称する人達が、それぞれに工夫を凝らして参加するようになっています。それは裾野を広げるという意味では、プラスの効果があったかも知れません。が、体を張って行政や極右の暴力と闘っている人達の真似事を、安全な場所から後追いでやることまでを、「表現」だと言って賞賛する”芸術家”や評論家、大学教員がいるのは、ちょっと困ったことだと思います。 福島第一原子力発電所のメルトダウンから2ヶ月ほど経ち、政府が隠していたメルトダウンや、ベント・水素爆発による広範囲な放射能飛散が明らかになった後、東京の渋谷に展示されている、岡本太郎の「明日への」に、いたずら書きをした人達が居ました。 http://chim-pom.syncl.jp/?p=custom&id=13339952 http://www.cinematoday.jp/page/N0032438 http://numero.jp/news-20130426-chimpom-pavilion/ http://d.hatena.ne.jp/dark_side_01/20110522/1306073148 当時このいたずら書きを、芸術であるとか、純粋な行為であると書き立て、賞賛している評論家や、大学教員を、少なからず見かけましたが、考えてみれば、原爆の被爆者の方々へのケアなど核兵器の問題は、もう半世紀以上前から問題になり続けていて、この問題にちなんだ作品の制作も、数限りなくと言って差し支えないほど行われています。ましてやいたずら書きが行われたのは、福島第一原子力発電所から大量の放射能が関東から南東北に至る子範囲に飛散したことが明らかになり、大きな社会問題になった後でした。 芸術というのは、もっともらしい”論”を組み立てれば、どんなことでも(机上の空論としては)正当化できますが、 このいたずら書きは、社会問題の表現としても数十年遅れの後追いで、3.11関連の表現としても、マスメディアが報じた原発事故問題に後から便乗して、点数稼ぎをしたに過ぎません。 表現の自由は大切ですが、その、自由という権利を行使して行われた行為の質は、まず同業者の中で厳しく問われるべきしょう。 最近も、中垣克久という人の作品が、展示会場である東京都美術館から、撤去を求められる事件がありました。 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014022202000144.html http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014021902000136.html http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-02-20/2014022001_04_1.html http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014021901001680.html http://www.huffingtonpost.jp/2014/02/18/nakagaki-katsuhisa_n_4812562.html 理屈(建前)の上では確かに、東京都美術館の要求は、表現の自由に対する侵害になるでしょう。けれど、表現の自由を主張する、ましてや署名を集めてまで美術館側を糾弾するのであれば、自由を主張する行動には、必ず、自由を主張して世に出す価値があるのかを、厳しく問いただす姿勢がなければなりません。 問題の作品はネット上でも一時大きな話題になり、私も作品を撮影した写真を何カットも見ましたが、少なくとも新聞やネットに掲載された写真を見る限りでは、彼の制作は、日頃体を張って、警察や極右の暴力と闘っている、運動家や弁護士、住民運動に関わる方々の真似事を、安全な場所から、後追いでやっている便乗に過ぎません。造形作品としての、美術的な配慮はあるのかもしれませんが、現実世界の、安全ではない場所で闘っている人達へのリスペクトは、どこにも見当たりません。 この作品の展示でも、極右による破壊活動などで真っ先に危険が及ぶのは、作者本人ではなく、作品が設置される美術館の職員です。自民党政権が、ヘイトスピーチを行う極右集団の暴行を、その模様がYouTubeに投稿されていても容疑者を検挙しないなど、極右の活動を事実上容認している現状を考えれば、職員に危険が及ぶ可能性は充分考えられます。 安全な場所から、現場で闘っている人達の真似事を、闘っている人達へのリスペクトも表現せずに、後追いでやることが、創作活動なのでしょうか? 表現行為なのでしょうか? 表現の自由とは、そんなことのためにあるのでしょうか? 建前に甘えた行動は社会からの信頼を失い、表現者自身の首を絞めることにしかならないでしょう。 2016/09/29 追記: こうした便乗は、視覚表現の世界の中でも、(失礼な言い方かも知れませんが)主流からは距離のあるところで活動している人達の、スタンドプレイだろうと思っていたのですが、名のある美術館に作品が収蔵されている作家の中にも、似たり寄ったりのことをしている人が、居るようです。 昨日、東京都写真美術館で開催中の、「杉本博司 ロスト・ヒューマン」を見に行ってきたのですが、2つある展示室のうち一つは、アンダーグラウンドな演劇の舞台装置が、いくつも並んているような構成で、その、舞台装置のような展示物ひとつひとつに、架空の人物によるモノローグの体裁をとった、コンセプトの解説が掲示されていました。 ところが、そのモノローグの殆ど全ては、これまで書籍やインターネット上の記事に、何度も掲載されていた、おなじみの話(人類滅亡や現代文明崩壊の危険性を指摘した警鐘)ばかり。明らかに、数多くの先人達(学者やジャーナリスト等)の功績を拝借した内容であるにもかかわらず、モノローグの元になった先駆者達への言及や謝辞は、会場内にも、展覧会の公式ホームページ上にも、一切ありません。 表現行為というのは基本的に、アイデアそのものではなく、アイデアを、どのように表すか?の問題です。 従って杉本氏の展示におけるモノローグも、オリジナルとは異なる人称、言い回しで記載されているので、形式的には表現行為と言えます。 けれど、表現の仕方よりも、むしろ表現の意図(コンセプト)が評価の対象となる現代芸術において、他者から拝借したアイデアを断りもなく、自分自身が創造したアイデアであるかのように展示することが、容認されて良いのでしょうか? 少なくとも、アイデアの提供者に礼の一つも無いというのは、人としてどうかと思います。一連の展示の中で、杉本氏自身の創作らしいのは、杉本氏自身が活動する業界を批判した、「コンテンポラリー・アーティスト」のモノローグだけではなかったかと思います。 既に多くの美術館に作品が収蔵され、スタンドプレーをする必要などないはずの知名度がある作家が、還暦を過ぎてから、なぜわざわざこんなことをしたのか?  私にはわかりませんが、この展示は、コンセプチュアルアートの中の、反面教師のひとつと、言えるのではないかと思いました。
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日本政府には無い歴史への誠実さ

去る8月6日に、NHKスペシャルとして放映された、「決断なき原爆投下 ~米大統領 71年目の真実~」を見て、一番驚いたのは、近年の研究で明らかになった、トルーマン演説の嘘そのものより、トルーマンの嘘を暴く資料が、米軍の施設も含め、公的な図書館にきちんと保管されて、(恐らくは一定の期間経過後に)社会に開示されている、という点でした。 更に、トルーマンの嘘を暴いているのが、米国内の現職の大学教員達であることも。 もしこれが、日本(特に今世紀に入ってからの)ならば、権力者に都合の悪い資料は、官僚が闇に葬ってしまい、図書館に渡ることはないでしょうし、歴史の闇を暴こうとする大学教員は、国内の愛国者達から、様々な脅迫を受けてしまうでしょう。 そして、今回の放送で紹介された、日本への原爆投下の経緯(近年の資料発掘で明らかになった史実)は下記の通りで、日本への原爆投下は、日米戦争の戦況とは関係なく、大統領の指示でもなく、米軍の意向によって強行されたとのことです。 1、レズリー・グローヴス率いる、米軍の原爆開発部隊は、戦況に関係なく、初めから一般市民虐殺(によって原爆の威力を世界に誇示すること)を目的に、日本の都市、それも、空襲被害を受けていない都市に原爆を落とす計画だった。しかしトルーマンは、ルーズベルトの急死により急きょ大統領になったため、軍の原爆開発(マンハッタン計画)については何も知らず、関心も無かった。大統領就任当初は、クローブスから計画遂行の承認を求められても、報告書に目を通すことすら面倒くさがった。 2. 一方、文民側のトップである、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、B29による度重なる日本空襲が、米国の国際的評価を落とすことを懸念していた。とりわけ、クローブスが強硬に主張した、京都への原爆投下については、実行すれば、米国はナチス以上に残虐な国だと非難されかねないと考え、決して認めなかった。トルーマンも、スティムソンの進言を採用し、グローブスの、再三の承認要求にも関わらず、京都への原爆投下を却下し続けた。 3.クローブスは当初、京都への原爆投下にこだわっていたものの、日本の敗戦が近い戦況となったので、日本の降伏前に、原爆を出来るだけ数多く落とす方針に計画を修正し、京都への原爆投下を断念した。その代わり、当初からの投下目標のひとつだった広島を、軍事都市だと偽って大統領に報告し、大統領が原爆投下を承認するよう工作した。 4.しかし、米国内に残る資料の中に、トルーマン大統領が、原爆投下を承認した記録は、未だ発見されておらず、広島、長崎への原爆投下が、どのような手続きで実行されたかは、未だ明らかになっていない。 5.トルーマンは、広島への原爆投下の2日後の、1945年8月8日に、広島の(軍事施設ではなく)市街地の中心に、原爆が落とされたことを知り、大勢の女性や子供までも犠牲にする作戦を、(事実上)黙認してしまったことを後悔しているとの私信を、友人宛に出している。トルーマンが、広島の市街地に原爆が投下された事を知ってから半日後には、長崎へ原爆が投下された。 6.トルーマンは、1945年8月10日になってようやく、原爆投下の中止を軍に指示したが、その際、「(原爆投下の度に)10万もの人々の命が奪われることは、考えるだけでも恐ろしい」と発言していたことが、記録に残されており、トルーマンが、原爆投下を、極めて非人道的な行為と認識していたことが、判明している。 7、にもかかわらずトルーマンは、その前日の8月9日に放送された、国民向けのラジオ演説では、戦争を早く終結させるために原爆投下を決断したと、実際の原爆投下の経緯とは異なる、嘘の説明を行い、その後も生涯、世界各地で、同じ説明を繰り返した。 トルーマンは、ルーズベルト急死により、何の引き継ぎ説明も受けることなく大統領に就任したため、何も知らされないまま、日米戦争にまつわる重大な決定を強いられていた、という事情はあるものの、軍の暴走を追認し、正当化するために、国民に嘘をつくという、大日本帝国が、中国大陸で行ったのと同じ過ちを、犯してしまった訳です。 今年5月、米国のオバマ大統領は、戦後の米国大統領としては初めて、広島の原爆慰霊碑を公式訪問しましたが、この訪問の背景の中のひとつには、今回放映されたような、米国内での歴史研究の進展が、あったのかも知れません。 原爆投下を正当化した、トルーマンの演説内容が、嘘だったと、米国内から指摘され始めているわけですから、これからの米国大統領は、かつての原爆投下に関して、これまでとは違った態度で、臨む必要に迫られるのかも知れません。オバマ大統領の広島訪問は、ひょっとしたら、その布石という意味合いも、あったのかも知れません。

ポスターには描かれない本質(伊藤若冲展を見て)

 先月のことになりますが、東京都美術館で開催されていた、「生誕300年記念 若冲展」を見に行ってきました。作品の展示順やまとめ方は、学芸員がキュレーションしたのか首を傾げざるをない構成(見世物小屋)だったものの、それにもめげす会場内を3回まわってみたところ、本展のポスターに採用された、特異な作風の作品では分からない、伊藤若冲の奥深い底力を垣間見ることができました。 展示を見た感想を箇条書きでまとめると、 1.とにかく平面表現(筆遣い)の引き出しの多さが半端じゃない。  宣伝用のポスターには、当時の絵師らしからぬ作風の作品ばかりが使われていますが、鹿苑寺の屏風絵など、オーソドックスな墨絵の表現でも、美術遺産に相応しいデッサン力と表現力で圧倒されます。彩色画でも、相国寺の釈迦三尊像では、モチーフが画面から飛び出してきそうな、ヴィヴィッドな配色は避けられていました。 2.手段としての写実の追及  若冲の彩色画というと、当時の日本では極めて稀だった、彩度の高い顔料の多用や、鳥の羽根一枚一枚まで精密に描き込む徹底した写実性が話題にされていますが、それは上にも書いたように、若冲の作品の一部であって、あくまで選択肢のひとつであったことが分かります。実際より彩度が高い配色を選びながらも、生き生きとして現実味のある鳥や花の描写は、彼が、モチーフにどのような存在感や、今で言うリアリティを与えるかについて、深く吟味する審美眼と幅広い選択肢を持っていたことを伺わせます。 3.西欧絵画とは位置付けが異なる写実へのこだわり  更に、これでもかという位に細かなディテールを描き詰めた、彼の作品をよく見ると、その細かさは愚直な写実というより、ある種のパターンに見え、彼が、徹底したデッサンの延長線上で、生物のテクスチャーを、デザインされたパタンとして描き込んでいるようにも見えました。彼の緻密な描写を、そう理解すると、まるで中東のタイル画のような、鳥獣花木屏風も、デザインの延長線上にある試みとして、違和感なく鑑賞できます。 4.その上最晩年に新たな地平に踏み出す  上述の感想は全て、18世紀半ばの、若冲の中年期の作品についての感想ですが、最晩年の1790年頃になると、これらとは全く方向性の異なる作品が出ててきます。  (中年期の一部の作品に見られた、今で言うマンガのような擬人化を突き抜けて)抽象化した描写で、対象の動きや内面をどこまで表現できるかを、試したような亀図(1790),伏見人形図(1800)。そうかと思えば蓮池図(1790)では、干上がったか、山火事で焼けたかのような、蓮池が広がる風景が、(地面に座るかしゃがんでスケッチしたような)ローアングルの墨絵で描かれています。それも、(西洋画ほど幾何学的ではないものの)遠近法をとり入れて。  ローアングルの墨絵なんて、日本の屏風絵で他にあるのか? というより近代西欧に風景画にもローアングルの描写なんてあるのか? 最晩年の作品だけに注目すると、本展の宣伝用のポスターでは分からない、若冲の、別の独創性が、見えてきます。  裕福な商家の跡継ぎとして生まれた彼は、若冲として有名になるまでは、周囲からは、絵を描いてばかりと言われ、あまり評判もよくなかったらしいですが、彼が”若冲”になる前の、数十年間に渡る、描画の修業と研究は、並大抵ではなかったのでしょう。裕福な家に生まれた彼は、世界各地から、長崎経由で日本に持ち込まれる、様々な平面表現を、目にしていたのではないかと思います。 以上。
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創作とは誇示に非ず(故・池田満寿夫氏の足跡を見て)

先日、熱海にある「池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家」と、網代にある池田満寿夫記念館を訪れ、故・池田満寿夫氏が遺した作品群を見てきたのですが、変化に富み、Challenging だった彼の制作物は、いわゆる”作品”にありがちな、押しの強さ(ドヤ顔)、問い詰め、謎かけ、苦悩の表出、創造性(既成観念破り)の強調、人生や社会への眼差しのアピール、と言った類のオーラを放つこと無く、ただひたすら、生命力に満ちていたのが印象的でした。 創作の家で上映されていたビデオでは、彼の最後のパートナーであった佐藤陽子氏が、「池田は誰にでも同じように接していた」と、彼の懐の広さを語り、記念館で上映されていたビデオでは、生前の池田満寿夫氏本人がテレビのインタビューで、「自分は世間からはヒモのように思われているが、パートナーに食わせてもらった事は一度も無い(実際、彼が版画を始めたのも、生活の糧のためだった)」と、日本的な固定観念に縛られた市井の人達に誤解されがちだったことを告白していましたが、彼はその作品においても、自分自身の生活においても、他者から偉ぶっていると思われるようなことは、一切しなかったようです。 だからと言って彼は、芸術界に自分の足跡を残す意欲が無かった訳ではなく、記念館で上映されていたビデオには、美大生達の前で、「芸術家というのは芸術の歴史に自分の様式・スタイルを遺そうとするものだ」と語る、死の10年ほど前の彼の姿が収録されていました。 ただしそう語る彼自身の作品は、(視覚的な特徴という意味での)スタイルには、全く囚われていないように見えました。 若き日の彼を世界に知らしめた、版画やコラージュでの業績など忘れたかのように、中年期には執筆活動やテレビ出演等が続く多忙な日々の中、陶芸作品制作に精力的に挑み続ける一方、絵画制作から遠ざかったわけではなく、若い頃、生活の糧にはならなかった油彩に再度挑んだ矢先に、心不全で急逝。 記念館で上映されていたビデオでは、彼自身が、作家として世に知られる前の自分について、 「(芸大に落ちて、少しでも糧を得なければと)アメリカ兵の集まる所へ行って似顔絵を書いていると、いつの間にか、自分より早く上手く似顔絵を描いている奴が後ろに居て、結局自分の絵はアメリカ兵に買ってもらえなかった」と、画家になる志は揺るぎなかったものの、結果を出すことができない年月だったことを語っていました。 ひょっとしたら、彼の作家としての半生は、絵を描くことへの熱意だけだった少年時代から死の瞬間まで一貫して、”今はまだ手が届かない”ことへのチャレンジだったのかも知れません。 創作の家で上映されていたビデオでは、彼の最後のパートナーである佐藤陽子氏が、「池田はエロスの探求を公言してはばからなかったが、実生活での彼は、そんなこと(世俗的な意味でのエロ)はなかった。初めて会ったときも、下心は全く感じなかった」と語っていましたが、少なくとも著名人になってからの彼が語った「エロス」とは、異性に対する憧れや探究心という狭義のエロスを離れ、人間や生き物全て、あるいは地球や宇宙の核心・正体、といった事柄への探求に、広がっていたのかも知れません。 二つの記念館に展示されていた彼の作品に、それが”作品”であることを強調するようなオーラが漂っていなかったのは、彼自身の意識が、他者に提示するものとしての、制作の結果より、探求行為としての制作過程そのものに、強く向けられていたせいなのかも、知れません。
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資料紹介:自民党の変貌と外務省の暗躍

2015年12月13日付けの、インターネット版産経ニュースに、日本共産党の、不破前議長の会見の模様(文字起し版)が、掲載されています。 終戦直後から現在までの政治の変遷を、保守政党からファシズム政党に豹変してしまった自民党の変化の様子や、対米隷属を支えてきた外務省の暗躍について、詳細な証言が記載された、貴重な資料になっています。 http://www.sankei.com/politics/news/151213/plt1512130002-n1.html
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備忘録として(デッサン力)

丁度一年前に、秋葉原で開催された、DOMMUNE/KANDA INDUSTORIAL というイベントで行われた対談の感想で、フェイスブックに掲載した文ですが、備忘録として自分のブログにも残しておくことにしました。 今夜の収穫は、DOMMUNE/KANDA INDUSTORIAL 夜の部の、冨田勲さん(シンセサイザ音楽の世界的フロンティア。82歳にはとても見えない若さ!)と、松武秀樹さん(言わずと知れたYMOのプログラマ)を交えた対談。 冨田さんは、シンセサイザー作品を作るとき、なぜ(当時の機材では合成が極めて難しかった)現実の音を模した音で作品を作ったのかと司会者に尋ねられ、「音のデッサン力が必要だから」と語っていました。 (1970年頃には、現代音楽畑などでシンセサイザ等の電子音を使った作品が次々発表されるようになっていたが)デッサン力の無い人の作品は、音がグシャッとしてしまうと。冨田さんのスタジオでシンセサイザの扱いを学んだ松武さんも若い頃、自然音をオープンリールのテープに録音しては、それをスロー再生して、音の構造を"耳で"自分なりに解析したとのこと。 冨田さんは、「自分は前世紀の人間だから」と、謙遜していましたが、テクノ、ハウスが、まるで20年位、時計の針が止まったようになっているのは、正に、音のデッサン力の無い(デッサン力という問題意識すら無い)パフォーマーが、殆どだからでしょう。 対談の最後には、冨田さんと松武さんが、その場で、MOOG3で鐘の音を合成するという実演がありました。複数のオシレータで、倍音構造からマニュアルで作り、最後にエンベローブを被せて仕上げるという、まさに”デッサン力”が問われる達人技でした。
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短文投稿:産業革命遺産と松下村塾

日本政府がユネスコに申請した、産業革命遺産の内容について。 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/yuushikisya/kadouisan03/singigaiyo.pdf 日本政府は、「萩の産業遺産群」と、ぼかしていますが、その具体的内容を見ると、この”群”の中には、産業遺跡とはほど遠い、松下村塾が、しっかり組み込まれています。 http://www.city.hagi.lg.jp/site/sekaiisan/h6081.html 松下村塾は、吉田松蔭が、暴力(今で言うテロとクーデター)による倒幕と、自分達が主導権を握りながら表向き天皇を立てる「尊皇」と、西欧と武力で戦う「攘夷」、更には琉球・アジア諸国の植民地支配を説いた場であり、彼(と、彼の死後彼を神格化して政治利用した長州藩)にとって、近代産業育成は、その手段のひとつに過ぎません。 http://harada-iory.cocolog-nifty.com/seikoudoku/2008/09/post-c5cc.html http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/08/002325.html http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150405/dms1504050830004-n1.htm http://digital.asahi.com/articles/DA3S11798172.html 今回、日本政府がユネスコに申請した”産業遺跡”の狙いが、日本の工業化史の保存・継承そのものではない点に、注意する必要があると思います。
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