人間がAI化したような・・ - カミーユ・アンロ展を見て -

東京オペラシティーアートギャラリーで開催中の、カミーユ・アンロ(Camille Henrot)展を観に行ったのですが、非常に印象的だったのは、その表現手法の多彩さでした。 生花、絵画(ドローイング)、インスタレーション(それも、400㎡ほどの展示室全体を使った巨大な)に、ビデオ作品。作家本人のウエブサイトを見ると、彫刻作品も多数あり、作家として作品発表を始めてから10年も経っていないにも拘らず、既に多岐に渡る手法で多数の作品を発表しているのが分かり、その並外れた制作力に圧倒されます。 オペラシティーギャラリーに展示されていた生花や絵画を見ると、彼女はもともと、手先の器用さも美学の吸収力(既存の知識や技能への好奇心と集中力)も、生半可ではないようですが、一連の作品は良くも悪くも、バランスの崩れもなくそつない印象があり、作家自身の内面の表出というより、現代芸術というのはこういうものです、という解説を見ているような印象も受けました。 大きな部屋全体を使ったインスタレーション「青い狐(The Pale Fox)」では、その、”解説”のような印象は更に強まり、まるで作家が、人間の営み全体に対する、総括・評論を試みているような印象を受けました。 会場の一番奥で上映されていたビデオ作品「偉大なる疲労(Grosse Fatigue)」に至っては、博物館に収蔵されている資料などを映像素材にして、人間が築いてきた知の体系を、自然科学も宗教も含めた(両者を知の営みとして同列に扱っている)俯瞰的な視点から、科学用語と世界各地の神話から引用した詩をラップ風に語る声をBGMにして見せるという、正に解説そのもの(ただしあくまでアート作品なので、論理的一貫性は無い)。そして最後に、その知が招く孤独(自分が全てを知る神になってしまったら、世界には神以外、誰もいなくなってしまう)を語るという、総括まで付いていました。 10年に満たない短期間で、並外れて多彩な表現を展開する彼女は、既存の美学や技能を身につける能力が並外れているのは言うまでもないですが、それだけなら、ただの優等生に過ぎず、世界的に注目されることは無かったでしょう。 では彼女の唯一無二な部分はどこにあるか? というと、テーマに合う素材を取捨選択する、編集者としてのセンスと決断力ではないかと思います。「偉大なる疲労」は、彼女が2013年に、スミソニアン博物館のフェローシップで活動していた間に制作されたもの、つまり一年足らずで制作されたもので、壮大な物語を1年足らずで、たった13分のビデオに凝縮させたのであれば、彼女の名が世界に知れ渡ったのも無理はありません。実際、ビデオの映像を見ると、映像素材の撮影段階で既に、撮影対象がある程度絞り込まれていた(博物館に保管されている剥製など、生物標本の映像が多かった)ように見え、彼女の手際の良さが伺えます。 「青い狐」は、インターネットで調べて見ると、実は、「偉大なる疲労」制作の翌年の2014年、「偉大なる疲労」に基づいて制作されたインスタレーション「The Pale Fox」を、本展向きにアレンジした展示のようで、元の"The Pale Fox"では、人間が持つ、世界を隈なく知りたいという強迫的な好奇心が、テーマになっていたようです。本作に使われている素材集めには、多くの人々の協力があったようですが、それにしても、どの素材を選び?それぞれをどこにどう配置するか?を判断するのによほどのスピードがないと、数百平米の展示空間を膨大な素材で満たすインスタレーションなど、構成できないでしょう。 カミーユ・アンロの一連の仕事は、作家ならではの見方、見え方(つまり主観)が前面に出る、近代芸術における創作とは趣が異なり、人間の営みを、芸術自体も含めて、俯瞰的に捉えて、それらに通底する原理原則を、抽出しようとしているようにも見えます。まるで、現代のAI(機械学習ソフトウエア)が、膨大な学習データを読み込んで、文章の要約を作ったり、人間の代わりに何かを作ったりするように、彼女は次々と、作品を生み出していいるかのようにも見えます。 ありとあらゆる情報が溢れる海に溺れることなく、水を巧に操る彼女はまさに、ネットワーク社会の申し子と、言えるのかも知れません。
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運慶

昨年のことになりますが、国立博物館で開催中されていた、運慶展を見に行きました。  運慶を初めとする、慶派と呼ばれる仏師達の作る仏像は確かに、他の派と比べ、形態としては写実的要素が強いですが、現代の言葉で言う、”描写”、”リアリズム”に満ちていたのは、やはり運慶の(直接指揮で制作された)仏像に限られるようです。  当時の支配層の変遷や、それに伴う価値観の変遷、今風に言えば、反権威・反体制のゲリラ活動でもあった、いわゆる鎌倉仏教の勃興といった時代背景も含めて考えると、とても興味深い内容の展示でした。  様式論で語られがちな、日本の仏師達の技能が、現代の言葉で言う写実性においても並外れたレベルであり、また「表現」という観点から見ても、古代ギリシャ・ローマ時代やルネッサンス期のヨーロッパの彫刻よりも、むしろ、例えばロダンのような、近代の写実的な彫刻を彷彿とさせるリアリティーを有していることは、本展にも展示されている、興福寺所蔵の、四天王像、無著菩薩立像、世親菩薩立像の生々しい描写からも十二分に伺い知ることができます。  まるで優れた舞台演劇の上演中の一瞬を、ホログラフィーで3次元撮影したかのような描写。さらにこれらの仏像が、一人の仏師ではなく、作者として記名される指導者の指示の下、分業で制作されていた事実は、歴史に名を残した仏師達が、単に並外れた作家というだけでなく、高い技能を持っ複数の職人を擁する、今で言う工房のリーダーであったことにも驚かされます。 けれど、その卓越した技巧と表現力は、当時の日本社会の価値基準の中では、必ずしも、「優れた」能力とはみなされなかったようです。  運慶が築きあげた、リアリズムと言っても良い表現は、武士が貴族から、名実共に権力を奪い取った直後の時代は人気が高かったようですが、その子の世代には、形態の写実性(技巧)が引き継がれるに留まり、その写実性も、せいぜい運慶の孫の世代までで、1500年近くに及ぶ、日本の仏像の歴史の中では、ほんの100年足らずの、一時的な動きで終わってしまったようです。  とは言え、その卓越して写実的な表現は、リアリズムとはまた、別の方向性でも生かされたようで、例えば康弁(運慶の三男)作の龍燈鬼立像、天燈鬼立像は、今で言う、マンガ、アニメーションにも通じるような、生き生きした生命感を、実在しない怪物達に与えています。  こうした表現は、運慶の出現以前からあるようで、運慶の父・康慶の作とされる四天王像(興福寺蔵)に踏みつけられた邪気達の表情も、現代のマンガでもよく見られるようなユーモラスなデフォルメが施されています。 https://twitter.com/unkei2017/status/925976983217074176  表現という行為を、様式といった側面から見た場合、何が優れた表現なのか? という評価は結局、その時代の価値観に、大きく左右されるようで、時の流れに沿って進む特定の方向性、つまり、進歩とか後退といったモノサシで、評価できるものはないのでしょう。”印象派”に代表される、19世紀西ヨーロッパでの一部の画家達による試みに端を発し、20世紀(特に前半)に大きく花開いた、抽象表現や、いわゆるコンセプチュアルアートも、いずれは、創造や進歩というより、ある時代の空気を映した鏡として、語られる日が来るのではないかと思います。いや、ひょっとしたら、既に、そういう視点で、いわゆる”現代芸術”を歴史として捉え直すべき時代に、来ているのかもしれません。
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ムチャするなあ(すごく良い意味で)

今日(正確には昨日ですが)東京ろう映画際で、"LISTEN"という映画を見てきました。 http://www.uplink.co.jp/listen/ ものすごくいい意味で「ムチャ」している映画でした。  物心ついた頃から音が聞こえない、ろう者にとっても、”音楽”というもの(聴者にとっての音楽とは全く別の、音を完全に排した)が、存在するのではないかという、監督(ろう者)の、脳内での概念実験を、現実世界で強行してしまうという、正面切っての実験映画。  舞踏家の雫境(DAKEI)氏(彼もろう者)が制作に参加したものの、出演者の大半は、身体表現の訓練を受けたことの無いろう者達。中には演技の経験も無い素人も。そんなろう者達に監督は、「ろう者にとっての音楽とは?」とインタビューした上に、各自の体で音楽を表現してもらうという、無理難題を吹っかける。その根底には、(聴写の都合に合わせるためにプログラムされた)ろう学校での教育などへの疑問がある、とはいえ、理論武装も何もせず、いきなり、音という存在を知らない人達に無音の”音楽”を実演してもらうという・・・・ ほんと、ムチャしてます。  けれど、その結果は単なる混乱で終わった訳ではなく、(私も含めて)手話を少しでも習った経験のある人が本作を見ればすぐ分かるほど、出演者全員が、彼らの日常の”ことば”である、手話の動きから、緩急やリズムといった要素を、手話の意味から切り離して、これまで存在しなかった世界に、再構成しようと試みているのが分かります(とは言え暗い上映室内での完全無音の作品なので、正直私は何度か夢うつつになりました)。  後から映画のパンフレットを買って読んだところ、舞踏家の雫境(DAKEI)氏は既に、身体表現の講義で、手話を(言葉として意味をなさないように)でたらめな順に並べて、その手話の動きから身体表現を構成するという課題を出しているそうです。手話の所作と、意味とを一旦切り離して、ろう者にとっての音楽作品を開拓したり、ろう者が手話を習得する過程で、無意識に身につけているはずの、リズム感や”間”の感覚を、ろう者自身が自覚する試みは、これからの、身体表現の世界で、ひとつの流れとして、広まっていくのではないかと、期待させる一作でした。  私自身、もう20年近く前になりますが、当時の勤め先で行っていた、聴覚障害者向けのイベントで、音が全く聞こえないはずの幼児が、テレビアニメの主題歌に合わせて(音は聞こえなくても振動は感じられる)、夢中になって踊っている場面を目撃しているので、人間にとっての、音楽の根っこは、音波そのものではないのだろう、とは思っていましたが、今まさに、若い世代のろう者達が、その実証に取り組み始めたわけです。 私が生きている間には、市民権が得られるほどの成果は出ないかも知れませんが・・・ P.S.  本編では全く触れられていませんが、パンフレットの中で、何度も指摘されていることとして、聴者が手話を勉強するために行われている手話歌(既存の歌の歌詞を、手話に訳して、歌に合わせてその手話を披露する)を、ろう者のためと勘違いする聴者が多く、迷惑しているろう者が多いという指摘がありました。(聴者が聞く)音楽のフレーズに合わせて手を動かすと、ろう者が日常会話として使っている、手話本来の緩急やリズムを崩してしまうので、手話歌の手話は、ろう者にとっては不自然で、分かりにくい表現なのだそうです。ろう者の中には、手話普及の支援として、手話歌の指導をなされている方も、少なからずいらっしゃいますが、手話歌を勉強する聴者は、(私も含め)変な勘違いをしないよ う、気をつけたいものです。
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ポスターには描かれない本質(伊藤若冲展を見て)

 先月のことになりますが、東京都美術館で開催されていた、「生誕300年記念 若冲展」を見に行ってきました。作品の展示順やまとめ方は、学芸員がキュレーションしたのか首を傾げざるをない構成(見世物小屋)だったものの、それにもめげす会場内を3回まわってみたところ、本展のポスターに採用された、特異な作風の作品では分からない、伊藤若冲の奥深い底力を垣間見ることができました。 展示を見た感想を箇条書きでまとめると、 1.とにかく平面表現(筆遣い)の引き出しの多さが半端じゃない。  宣伝用のポスターには、当時の絵師らしからぬ作風の作品ばかりが使われていますが、鹿苑寺の屏風絵など、オーソドックスな墨絵の表現でも、美術遺産に相応しいデッサン力と表現力で圧倒されます。彩色画でも、相国寺の釈迦三尊像では、モチーフが画面から飛び出してきそうな、ヴィヴィッドな配色は避けられていました。 2.手段としての写実の追及  若冲の彩色画というと、当時の日本では極めて稀だった、彩度の高い顔料の多用や、鳥の羽根一枚一枚まで精密に描き込む徹底した写実性が話題にされていますが、それは上にも書いたように、若冲の作品の一部であって、あくまで選択肢のひとつであったことが分かります。実際より彩度が高い配色を選びながらも、生き生きとして現実味のある鳥や花の描写は、彼が、モチーフにどのような存在感や、今で言うリアリティを与えるかについて、深く吟味する審美眼と幅広い選択肢を持っていたことを伺わせます。 3.西欧絵画とは位置付けが異なる写実へのこだわり  更に、これでもかという位に細かなディテールを描き詰めた、彼の作品をよく見ると、その細かさは愚直な写実というより、ある種のパターンに見え、彼が、徹底したデッサンの延長線上で、生物のテクスチャーを、デザインされたパタンとして描き込んでいるようにも見えました。彼の緻密な描写を、そう理解すると、まるで中東のタイル画のような、鳥獣花木屏風も、デザインの延長線上にある試みとして、違和感なく鑑賞できます。 4.その上最晩年に新たな地平に踏み出す  上述の感想は全て、18世紀半ばの、若冲の中年期の作品についての感想ですが、最晩年の1790年頃になると、これらとは全く方向性の異なる作品が出ててきます。  (中年期の一部の作品に見られた、今で言うマンガのような擬人化を突き抜けて)抽象化した描写で、対象の動きや内面をどこまで表現できるかを、試したような亀図(1790),伏見人形図(1800)。そうかと思えば蓮池図(1790)では、干上がったか、山火事で焼けたかのような、蓮池が広がる風景が、(地面に座るかしゃがんでスケッチしたような)ローアングルの墨絵で描かれています。それも、(西洋画ほど幾何学的ではないものの)遠近法をとり入れて。  ローアングルの墨絵なんて、日本の屏風絵で他にあるのか? というより近代西欧に風景画にもローアングルの描写なんてあるのか? 最晩年の作品だけに注目すると、本展の宣伝用のポスターでは分からない、若冲の、別の独創性が、見えてきます。  裕福な商家の跡継ぎとして生まれた彼は、若冲として有名になるまでは、周囲からは、絵を描いてばかりと言われ、あまり評判もよくなかったらしいですが、彼が”若冲”になる前の、数十年間に渡る、描画の修業と研究は、並大抵ではなかったのでしょう。裕福な家に生まれた彼は、世界各地から、長崎経由で日本に持ち込まれる、様々な平面表現を、目にしていたのではないかと思います。 以上。
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創作とは誇示に非ず(故・池田満寿夫氏の足跡を見て)

先日、熱海にある「池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家」と、網代にある池田満寿夫記念館を訪れ、故・池田満寿夫氏が遺した作品群を見てきたのですが、変化に富み、Challenging だった彼の制作物は、いわゆる”作品”にありがちな、押しの強さ(ドヤ顔)、問い詰め、謎かけ、苦悩の表出、創造性(既成観念破り)の強調、人生や社会への眼差しのアピール、と言った類のオーラを放つこと無く、ただひたすら、生命力に満ちていたのが印象的でした。 創作の家で上映されていたビデオでは、彼の最後のパートナーであった佐藤陽子氏が、「池田は誰にでも同じように接していた」と、彼の懐の広さを語り、記念館で上映されていたビデオでは、生前の池田満寿夫氏本人がテレビのインタビューで、「自分は世間からはヒモのように思われているが、パートナーに食わせてもらった事は一度も無い(実際、彼が版画を始めたのも、生活の糧のためだった)」と、日本的な固定観念に縛られた市井の人達に誤解されがちだったことを告白していましたが、彼はその作品においても、自分自身の生活においても、他者から偉ぶっていると思われるようなことは、一切しなかったようです。 だからと言って彼は、芸術界に自分の足跡を残す意欲が無かった訳ではなく、記念館で上映されていたビデオには、美大生達の前で、「芸術家というのは芸術の歴史に自分の様式・スタイルを遺そうとするものだ」と語る、死の10年ほど前の彼の姿が収録されていました。 ただしそう語る彼自身の作品は、(視覚的な特徴という意味での)スタイルには、全く囚われていないように見えました。 若き日の彼を世界に知らしめた、版画やコラージュでの業績など忘れたかのように、中年期には執筆活動やテレビ出演等が続く多忙な日々の中、陶芸作品制作に精力的に挑み続ける一方、絵画制作から遠ざかったわけではなく、若い頃、生活の糧にはならなかった油彩に再度挑んだ矢先に、心不全で急逝。 記念館で上映されていたビデオでは、彼自身が、作家として世に知られる前の自分について、 「(芸大に落ちて、少しでも糧を得なければと)アメリカ兵の集まる所へ行って似顔絵を書いていると、いつの間にか、自分より早く上手く似顔絵を描いている奴が後ろに居て、結局自分の絵はアメリカ兵に買ってもらえなかった」と、画家になる志は揺るぎなかったものの、結果を出すことができない年月だったことを語っていました。 ひょっとしたら、彼の作家としての半生は、絵を描くことへの熱意だけだった少年時代から死の瞬間まで一貫して、”今はまだ手が届かない”ことへのチャレンジだったのかも知れません。 創作の家で上映されていたビデオでは、彼の最後のパートナーである佐藤陽子氏が、「池田はエロスの探求を公言してはばからなかったが、実生活での彼は、そんなこと(世俗的な意味でのエロ)はなかった。初めて会ったときも、下心は全く感じなかった」と語っていましたが、少なくとも著名人になってからの彼が語った「エロス」とは、異性に対する憧れや探究心という狭義のエロスを離れ、人間や生き物全て、あるいは地球や宇宙の核心・正体、といった事柄への探求に、広がっていたのかも知れません。 二つの記念館に展示されていた彼の作品に、それが”作品”であることを強調するようなオーラが漂っていなかったのは、彼自身の意識が、他者に提示するものとしての、制作の結果より、探求行為としての制作過程そのものに、強く向けられていたせいなのかも、知れません。
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備忘録:持続可能な漁業

11月13日に開催された、「魚から考える日本の挑戦」(主催:日経エコロジー、協賛:シーフードレガシー, 米国デヴィッド&ルシール・パッカード財団)を聴講してきました。 以下、登壇者の発言で、印象に残った内容を列挙しておきます。 生田興克氏(シーフードスマート代表理事、築地マグロ仲卸「鈴与」三代目店主): ・日本の漁業に客観データは無い。あるのは水産庁による”大本営発表”のみ。 ・日本の漁業生産高は昭和59年がピーク(1282万トン)。今はその1/3程度。 ・三陸沖は、世界三大漁場のひとつだが、そのほとんどが日本のEEZ内にあり、外国との漁獲高調整の必要が無いため、乱獲が進んでしまった。 ・太平洋マグロの産卵場は日本のEEZ内にしかないのに、日本政府は産卵魚の漁獲規制をしていない(産卵魚は安いマグロは、キロ当たり4000~5000円の安いマグロとして流通)。最近は、幼魚まで獲られている。 石井幸造氏(海洋管理協議会日本事務所プログラムディレクター): ・MSCエコラベルは、漁業認証と、サプライチェーン認証の2段階から成る。 ・MSCエコラベルは世界101ヶ国で流通し、世界で水揚げされる白身魚の46%、天然シャケの50%が漁業認証済み。欧米では、マクドナルドのフィレオフィッシュにも、MSCエコラベルが付いている。 ライアン・ビゲロ 氏(モントレー水族館 シーフード・ウォッチ アウトリーチ・プログラム・マネージャー): ・米国の消費者は、シーフードの知識に乏しい。シーフードは自宅で調理するものではなく、レストランで食べるもの。「健康に良い」「サスティナブル」がそのままセールストークになる。しかし日本には独自の食文化があるので、サスティナブルな食材流通をどう広めて行くか?容易ではないかも知れない。 ガイ・ディーン氏(カナダ アルビオン水産副社長): ・5~10年前までは、サスティナビリティに興味を持つ企業は少なかったが、最近は、無添加の商品を好む消費者(38%)、Non-GMOを好む消費者(31%)、天然物を好む消費者(23%)、オーガニックな商品を好む消費者(16%)などが増加している。当社も、抗生物質を使用していたチリの養殖魚の輸入を止めた。 ・漁業資源の需要は大幅に増加している。1990年には、世界の水産物の供給(出荷?)が1億トンだったのが、2012年には2億トンになった。 ・サスティナビリティの柱は、経済合理性と、社会責任(調達先での地域貢献など)、環境への配慮(専門家と協力しての)。現在当社は、カナダの大半の環境NGOと協力関係にある。 ・持続可能な(サスティナビリティを満たす)商品が当社の収益に占める割合は、5年前は40%だったのが現在は80%にまで向上した。今後もこの比率を一層高めるよう改善を続ける。 ・持続可能な漁業を広めるには、「この水産物は買わない」という姿勢より、「この基準を満たした水産物を買う」とアナウンスした方が良い。以前、当社で、ある水産物の購入を止めたが、それを他の商社が買って流通させてしまい、持続可能性の改善にはつながらなかった。また、開発途上国には、雇用を保証したり、学校建設などの地域支援をするなどの、インセンティブが必要である。 ・持続可能な商品へのニーズは世界的に高まっており、日本企業にとっても持続可能性は重要になるはず。 ヒュー・トーマス 氏(英モリソンズ): ・サスティナビリティの中でも、近年、社会的な側面が大きくなってきている。 ・養殖魚の仕入れでは、抗生物質の管理を厳しくしている(医師の処方に従った投与をしている養殖場のみから仕入れる等)。また、餌にも注意している(病気の家畜の肉は使わせないなど)。 ・持続可能なポリシーを決め、サプライヤーには、2年間で改善してもらう。170社近いサプライヤーのうち、取引を停止したのは2社だけで済んだ。 ヘレン・ヨーク氏(米コンパスグループ グーグル担当): ・持続可能性の改善に取り組むにあたり、まずは、使用している魚介類の種類と量を、定量的に把握する作業からはじめた(これが大変だった)。次いで、絶滅の危険性などに基づき種類ごとにランク付けを行い、ランクの応じた対応(産地の変更、魚種の変更など)を検討した。 ・北米では、食感が似ていれば魚種を変えても食堂の利用者は受け入れるので、魚種の変更は比較的容易だった。タラの調達場所を変えたり、鮭からイワナに魚種を変更したケースもあった。ただし、シェフにサスティナブルの重要性を理解してもらい、シェフに積極的に協力してもらう必要がある。 ・エビだけは、他の海産物では代替できず、タイでサスティナブルな養殖を試みたが、これは失敗した。 ・サスティナビリティ向上への取り組みを拡大した結果、持続可能性は、トータルではコストに悪影響を与えないことが分かった。絶滅しそうな魚種は価格も高くなっていた。 ・2015年中にサスティナブルな食材の使用比率を100%にする目標を掲げ、85%を達成した。現在、魚群収集装置を使って獲ったカツオの仕入れをやめるなど、更なるサスティナビリティ向上に努めている。 ・現在、Seafood Watch のアセスメント基準を採用している。 ・サスティナビリティが確保された食材を使うことも大切だが、食物連鎖の下位にある食材(魚介類で言えばホタテ貝など)の利用を増やすことも重要ではないか?食物連鎖の下位にある食材なら、必ずしもMSC認証やASC認証にこだわらなくても良いのではないか? ・ちなみに、グーグル本社では、週30万食を提供している。グーグルの社員食堂では、当初から養殖魚を使っていなかったので(Google社内に養殖の専門家がおらず、責任ある調達ができなかったため)、サスティナブルな食材への移行は簡単だった。むしろ、コンパスグルーが手掛ける、他の食堂の方が、売れるメニューを提供しなければならないので、サスティナブルな食材への切り替えに苦労した。切り替えでは、盛り付けの工夫や香りの工夫を行うなど、シェフの貢献が大きかった。 ・一般消費者への、サスティナビリティの訴求は、数字など、頭に訴える方法では難しいのではないか? 消費者のハートに訴える方法が必要ではないか? ディック・ジョーンズ 氏(オーシャン・アウトカムズ事務局長): ・サスティナブル実現で重要なのは、現実的な期待値を設定すること。MSC認証を受けている水産物は、申請中のものを含めても、まだ全体の12%でしかない。 ・誰かの責任にすることは出来るが、今はそれを超えて、先に進む必要がある。業者だけでなく、NGO,学者、行政、全てを巻き込んで協議することが重要。 ・北米では、大型小売店のプライベート・ブランド志向が強く、MSC認証など、エコマークによる啓蒙が難しい。これからは、インターネットを通じた会員サービスなどで、啓蒙を進められないか? 花岡 和佳男 氏(シーフードレガシー 代表取締役社長): ・サスティナビリティに関しては、いろいろな基準があるが、科学的な裏付けがあること、独立した機関が認証していることが重要。 ・企業との連携を進める上では、企業のブランド(の価値や社会的信用)を大事にしている人を探す、あるいは育てることが重要。日本企業の意識(資源枯渇への危機感など)は、まだあまり進んでいない。 松本 金蔵 氏(イオンリテール 食品商品企画本部 水産商品部 部長) ・イオンでは2006年からサスティナビリティ向上の取り組みを始めている。(自社で新たな基準を造るのではなく)信頼できる第三者が認証した商品を取り扱う取り組みを続けている。 ・自社で扱っている魚介類の種類の総数は把握していないが、MSC認証、ASC認証をを受けた水産物15~ 16種類を販売している。新規オープン店の食品フロアに、MSC認証品、ASC認証品だけを集めたコーナーを設ける予定。 ・サスティナビリティ向上への取り組みを推進するには、まず社内の説得が重要。ロマンが必要。消費者には、MSCマークを貼っただけでは伝わらない。オリジナルのロゴを作ったり、売り場を変えるなどの工夫が必要。最終的には、持続可能な食材のプライベートブランド化を目指したい。 無料のセミナーにしては、かなり充実した内容で、その上セミナー終了後には、無料のレセプション(イオンが扱うMSC認証品、ASC認証品の試食会を兼ねる)が開かれるなど、サービス満点のイベントでした。
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8/9追記:表現は道具。良くも悪くも

現在 IZU PHOTO MUSEUMで開催中の、”戦争と平和ー伝えたかった日本”展を見に行ってきました。展示内容については、「戦中・戦後の〈報道写真〉をテーマにした」と説明されていましたが、中身は、今で言う”報道”やジャーナリズムというより、むしろ「政府広報」と言うべきものでした。 会場全体を見て、まず心に浮かんだのは、「今と変わらないじゃん」という印象。もちろん、テクニカルな部分では飛躍的発展がありましたが、被写体への向き合い方や、編集のポリシーといった部分について、日本政府の広報は、80年前からあまり進歩していないのではないか?と。 とりわけ2020オリンピック招致関連や、観光立国関連については。 日本で初めての、海外向けグラフィック誌「Nippon」が創刊されたのは、満州事変を機に日本政府が国連脱退した翌年の1934年。日本からの組織的対外PRは始めから、戦争遂行と連携したもので、そのPR向けの写真を撮影、編集していたのが、戦後、日本の写真界を牽引することになる写真家達。日米開戦後にはFRONTという雑誌も刊行されます。彼らが率先して、大日本帝国の政策に協力して行ったことは、会場に掲示されている、当時の彼らの遺した言葉からもはっきり分かりました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/NIPPON_(%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E8%AA%8C) http://www.tanken.com/sensou.html https://ja.wikipedia.org/wiki/FRONT http://blog.kmhr-lab.com/2009/03/front.html *以下、会場に掲示されていた、写真家達の言葉を引用: 名取 洋之助 写真家は何時でも編輯者と読者と云ふ二重の要決を考慮せねばならないのです。 (「時評と考察 ルポルタアジユ写真のこと」『帝国工芸』1934年) 木村 伊兵衛 本当に日本を正しく理解させる為には、日本に於て或る程度不自然と思はれるやうなことを敢てすることに依つて、初めて先方に正しく理解させることが出来ると思ふ。 (谷川徹三・木村伊兵衛対談「写真と対外宣伝」『報道写真』1941年) 伊奈 信男 印刷化された写真によるイデオロギー形成の力は絶大である。 (「報道写真について」『報道写真に就いて』1934年) 林 謙一 殊に大東亜共栄圏のやうに十数種の人種、言語が交錯してゐると、文字や言葉では宣伝がなかなか困難であり、映画でさへアナウンスで困却してゐる。写真宣伝がなによりも真先きに飛出してゆかなくてはならない。 (「戦時に於ける報道写真の重要性」『アサヒカメラ』1942年) 土門 拳 僕達は云はばカメラを持つた憂国の志士として起つのである。その報道写真家としての技能を国家へ奉仕せしめんとするのである。 (土門拳「呆童漫語(三)」『フォトタイムス』1940年) 山端 庸介 写真機持つたら、フットボールを撮るのも重慶を撮るのも、そんなに気分は変らないですネ。カメラマンというものは写真機を持ったら写真のことばかりしか考えませんからネ。 (『アサヒカメラ』1942年) そして彼らは、戦前・戦中に磨いた写真表現の能力を、戦後の日本の写真界で遺憾なく発揮して行くのですが、私達がここで学ぶべきことは、表現とは、良くも悪くも手段であって、使い方によっては、人を生かすのにも殺すのにも、どちらにでも役立つということでしょう。 その中の一人である土門拳について、会場には 「リアリズム写真は現実を直視し、現実をより正しい方向へ振り向けようという抵抗の精神の写真的な発現としてあるのである」 という敗戦後の彼の言葉が、(戦前の活動への)反動ではないか、という注釈付きで掲示されていましたが、リアリズムというのも、結局は、ある価値尺度に従った見方の一つに過ぎない訳で、リアリズムを語る人が、それをはっきり自覚していなければ、リアリズムもまた、いとも簡単に、権力に利用されてしまうでしょう。 現在ではメディアリテラシーの基礎として広く知られているように、何が直視か、何を持って正しいとするかは、見る人の価値尺度如何です。社会的な事柄について、「リアル」とか「フラットな見方」と言う表現を多用する人、とりわけ、拠って立つ価値基準を明示せずにこうした表現を使う人には要注意でしょう。 本展でもう一つ印象に残ったのは、1956年に日本で開催された、「ザ・ファミリー・オブ・マン展」に関する展示、これは当時の、米国政府の広報活動の一貫で、本展では、日本における「ザ・ファミリー・オブ・マン展」が、1955年から1957年にかけて日本各地で開催された「原子力平和利用博覧会」と連携した企画である旨の指摘が掲示されていました。 実際、「ザ・ファミリー・オブ・マン展」では、戦前の日本の広報誌で活躍した写真家達の作品も展示されたのですが、原爆投下直後に、長崎で撮影された写真だけは、一旦は展示されたものの撤去されたそうで、 表にヒューマニズムや平和を打ち出しながら、その裏にあった核軍事政策を巧妙に隠蔽する、米国政府のしたたかな広報戦略が分かります。 日本政府が、東日本大震災直後に行った「絆」キャンペーンはさしずめ、米国のこうした、政府の方針を前面に出さず、ヒューマンドラマを前面に出す広報戦略を、半世紀以上遅れて真似たものだったのかも知れませんが、インターネットが普及した社会では、政府が絆の名の下に隠蔽しようとした被災者の声が、たちどころに日本中に広まってしまったのは周知の通りです。 冒頭に、本展の第一印象を、「今と変わらないじゃん」と、書きましたが、それは、メッセージを伝える手段という側面から、写真の使い方を見た場合の話であって、「Nippon」や「Front」に掲載された写真を、作品として見た場は、現在の広報誌の類と比べて、写真の使用目的の是非を別とすれば、はるかに生き生きとして、余分な贅肉の無い、質の高い作品群ではないかという印象を抱きました。あらかじめ定められた手順に従って大量生産されているような、現在の広報写真には見られない、一枚一枚が新たなチャレンジであるかのような、力強い存在感が感じられ、その意味では、現在の広報写真は、政府の広報に限らず、70~80年前より、むしろ退化しているのかも知れません。 しかし・・・ 日本政府の広報戦略が、このように、お世辞にも優秀とは言い難いにも関わらず、多くの国民が未だ、政府の政策の内容を詳しく知ろうともぜす、政府を支持している状況は、いったいどういうことなのでしょう?
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空虚を祀る神殿にて

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 先日、パルテノン多摩で開催されていた、報道写真家・福島菊次郎氏の写真展を見に行ってきました。  私がまだ子供だった頃、テレビのニュースで見た話の現場の様子が撮影された写真の数々。私達の、現代の生活の犠牲になった人達を写した写真。礎ではなく、居なかったことにされた人達。  権力は、彼らを抹殺しようとした一方、新聞でも、後にはテレビでも報じられ、菊次郎さんはじめジャーナリスト達が書籍も出していた。なのに居なかったことにされてしまった。誰に?  本展でも多数の写真が展示されていた、成田空港闘争、東大紛争は、私も子供の頃、テレビのニュースで見ていたし、60年安保、水俣病や、原爆症認定問題等の話は、本やインターネットを通じて、知っていました。  けれど、広島の原爆被災者が集まっていた集落(朝鮮から連れてこられた労働者やその家族も多く、スラム状態だった)の住民に、行政は支援するどころか水道・電気も供給せず、最後は平和公園造成のため、多くの住民が行くあても無く強制排除されていたことは、以前、福島さんのドキュメンタリー映画で初めて知った話で、本展でも関連する写真が、百枚を超えて展示されていました。 (この問題をインターネットで検索すると、いわゆる「原爆スラム」に住んで居た人達が皆、市が提供した公営住宅に引っ越したかのうような記述が見られます)  日本軍に徴用された朝鮮や台湾の人達が、戦後、日本政府から一切の補償を拒否され、出身国にも帰れずにいたのに(中には戦前の皇国化政策のせいで、日本語しか喋れない人も)、同じ戦争体験者だった日本人は、平和団体さえも、ごく一部を除いて、彼らの存在や日本政府への働きかけを知りながらを黙殺し続けていたことも、福島さんの写真や、以前テレビで半世紀ぶりに再放送された、若き日の大島渚監督のドキュメンタリー番組で私は知りました。 成田闘争は語られても、なぜ闘争が起きたかは語られなくなった日本。  行政の犠牲になった人達を、居なかったことにしたのは、権力者ではなく日本の大衆。その大衆の多くが今、まるで蜘蛛の糸に群がる地獄の亡者達のように、1%の富裕層のために残りの99%を犠牲にする経済政策を、支持しているわけです。この写真展の会場となったパルテノン多摩の屋上に並ぶ、幾何学的様式だけ西欧を真似たモニュメントは、日本の大衆が謳歌する、物質と金銭だけの繁栄を、象徴する存在にも見えます。 ところで、  会場の所々に遺作集と表記された、2000枚にものぼるプリントの展示で、日本の戦後史から抹殺されてきた人達の生活を、改めて世に問いかけた福島さんですが、彼は活動家ではなく報道写真家であり、抹殺する側の立場にある政治家、警察官(機動隊員)、自衛官、自衛隊の兵器、その生産現場、更には極右勢力まで、膨大なポートレートを撮影していました(本展でもその一部が公開されていた)。  原発建設問題で揺れる瀬戸内海の祝島についても、福島さんは、原発建設計画が出来るはるか前、1960年代にも取材に訪れ、当時の非常に貧しい島の生活を記録に残していました。原発建設計画が持ち上がったのは、祝島の人達が、厳しい自然環境を克服し、安定した生活を営めるだけの農業、漁業を確立させた後のことで、原発計画が、こうした島民達の格闘の積み重ねさえも、ほんの一時の札束によって、単なる昔話として葬り去ろうとしていたことが、福島さんの長年に渡る取材から、浮き彫りになっていました。  また、東大紛争や成田空港闘争で、学生を撲殺したり、怪我人救護にあたっていた学生をガス弾の至近射撃で射殺した警察官の犯罪(捜査もされず闇に葬られた)を、激しく非難していた福島さんですが、その一方で、成田空港闘争が、地元農民の頭越しに始められたことも、写真のキャプションに書き残していました。力による解決を志向しても、それは結局、暴力の応酬にしかならず、それこそ権力の思う壺であることも、福島さんの写真から学ぶことができる、重要な教訓だと思います。
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美術館と言うより憩いの場

先日所用で金沢へ行った折り、金沢21世紀美術館へ行ってきました。友人のアーティストが「全部最低(展示作品について)!」と評していた美術館ですが、確かに芸術展示の施設としては、20世紀末に流行った「現代美術」を権威化する装置の域を出ず、21世紀に相応しいコンセプトは見出し難い状況でした。けれど、観光名所に忍者寺を擁する金沢市が、これからの観光に向け新開発した見世物として見れば、なかなか楽しい施設ではないかと思います。立地も兼六園に隣接していて、観光名所を歩いて回るときの、休憩場所としても便利です。 常設展の展示は、良くも悪くも20世紀の”現代”美術(今の時代から見れば過去)業界の価値基準で選ばれた作品を、その作品が評価された当時の評価基準で説明する解説を添えて展示しているのみで、21世紀の現在から、これらの創作活動を振り返る視点は見られませんでした。残念ながらこれでは、1990年代に日本のアート界で流行ったことを十数年以上遅れて真似ているようにしか見えず、厳しい言い方をすれば、童話「裸の王様」に出てくる仕立て屋のようなものです。21世紀に入ってから既に十数年を経た今、こういうキュレーションを公金で支援することの是非は、議論の余地があるところでしょう(そうしなければ文化そのものが流行と命運を共にして衰退してしまう)。 とはいえ、少なくとも私が訪れた2014年8月5日時点での展示作品について書けば、一部を除いては視覚的に美しい作品が多く、小難しい芸術論など何も知らなくても、充分に楽しむことができます。どんな作品を収蔵するかという選定基準については、江戸時代から続く、金沢の工芸の精神が、引き継がれているのかも知れません。 今回見た常設展示作品の中では、照屋勇賢(米国在住)による、マクドナルドの包装袋を使った、精密な切り紙細工が印象に残りました。一方、ヤノベケンジの作品については、良くも悪くも、日本の一時代の風潮を反映させた、時間的にも場所的にも極めてローカルな作品であるにも関わらず、現在から当時の彼(のような輩)の行動を振り返る視点での紹介が全く無く、この美術館のキュレーションが未だ、悪い意味での”業界人目線”による支配から脱し切れていないことが、露呈していました。 企画展(レアンドロ・エルリッヒ ーの作品展)は、舞台装置や映画のセットを作品化したような、視覚効果を狙った、大掛かりな作品群の展示で、これも理屈抜きで楽しめました。彼の作品の特長は、”芸術作品”という既成概念にとらわれないアイデアの豊富さですが、中には非常に手の込んだ作品もあり、「サイドウォーク」という映像作品は、一見すると、古いアパートが立ち並ぶ街の一角を、固定カメラで撮影したような構成でしたが、良く見ると、実写とCG(あるいはそれらに加えて模型を撮影した映像?)を合成したらしい、手間のかかった作品でしt。 その他、鹿の骨から、まるでドライフラワーのように、写実的な植物の形を切り出した橋本雅也の作品展、建築家中村好文の仕事(自然エネルギーによる自給自足の小屋作り)紹介も、特別な予備知識無く楽しめる企画でした。 この美術館は、東京やその周辺の美術館と比べれば、決して大きな施設ではなく、同時に展示できる作品数には限りがあります。けれど、一つの部屋に一つの作品のみを展示するという、ゆとりのある展示がなされ、展示室以外の、無料で利用できるスペースも広く、ガラス貼りの外壁からは芝生が敷き詰められた敷地を眺めることができ、全体的にゆったりした時間を過ごせる雰囲気があります。人口密度が高い首都圏では、このような、ゆとりのある空間を(ましてや市街地の中心部で)運営するのは無理でしょう。 私がここを訪れた日も、平日ながら夏休み中のせいか、館内は親子連れで賑わっていました。美術館の企画・運営を担当する人達が、自分達や収蔵作品の権威化を慎み、収集した”現代”美術作品(に表れた作家の行為)に対して、(20世紀末の業界基準ではなく)21世紀の現在から、20世紀の現代美術(と、その評価のあり方)を検証する歴史学的・社会学的考察を怠らなければ、この施設は、”21世紀”というネーミングに相応しい内容の美術館として、文化的な発信を、続けて行けるのではないかと思います。
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これは写真展ではない。良い意味で。

ダム建設で沈むことになる故郷を撮り続け、一時はテレビ番組でも取り上げられた「カメラばあちゃん」こと、増山たづこさんの回顧展「すべて写真になる日まで」を見に行ってきました。以前も、(確か作者本人存命の頃)都内で写真展を見た記憶があるのですが、今回改めて思ったのは、これは「写真」でも「視覚」表現でもないということ。敢えて分かり易く書けば、これは「闘争の記録」でしょう。権力(と言うよりその背後に居る私達の価値観)の手による抹殺と戦うための。 自分の故郷が水没するダム建設計画を、阻止するのは無理そうだと悟り、水没前に少しでも多く、故郷の記録を自分の手で残そうをしていた増山さんは、偶然出会った旅人から、ピッカリコニカ(KONICAC35EF)というカメラのことを教えられ、1977年から、猛烈な勢いで、沈み行く故郷とそこに住む人々、訪れる人々を撮影し始めます。撮影は、自身も含めた村人が故郷を去った後も、ダム工事が始まってからも続き、村人の移転先に出向いての撮影も続けられ、10万カットにのぼる膨大なネガを遺しました。 そのため、増山たづ子さんはフォトグラファーとして世間の注目を集め、今回もフォトギャラリーで遺作展が開催されたのですが、彼女はプリントした写真の多くにキャプションを書き込む等、膨大な文書も遺していました。1985年には、まるでそのキャプションを台本に作られたようなドキュメンタリー番組(東海テレビ制作の「消える村」。本展会場で上映)が放映され、増山さん自身も番組取材に応じ、肉声も残しています。そればかりではなく、彼女は写真撮影を始める以前の1973年(ダム建設計画が正式に決定された年)以来、村の中で聞くことのできるさまざまな音や、人々の会話や歌を、計500本に上るカセットテープに録音し(その一部は本展会場内の背景音として再生されていた)、更には自らが語り部となり、村の昔話集(CD)の制作にも携わっていました。 彼女の書き残した言葉の一部(といっても100編を超えていたかも知れない)は、活字として印刷され、写真と共に会場に展示されていましたが、その言葉には、自分の日常生活はおろか心の拠り所さえ、「蛇の生殺しのように」奪われていく喪失感と共に、国家権力と個人との関係や、損得計算無しで助け合ってきたコミュニティーに突然持ち込まれた、”金銭”という価値観についての冷静な考察が綴られていました。 徴兵されたまま行方不明になった夫が、いつ帰ってきてもいいように、一枚でも多く、(水没する前の)故郷の姿を残したいという思で撮影された膨大な写真と、(移転を強いられた後)寂しくなったときに聞けるようにと、故郷の自然の音、生活の音、人々の会話を、掻き集めるように録音した膨大なカセット。 その一方で、 戦争で伴侶を奪い、経済成長で若者を奪い、ダムで生活場所そのものを奪い、自分達に対しては奪う一方だった、日本という国家、戦争でもダムでも、やると決めたら絶対にやる権力の恐ろしさ(ダム建設の必要性は、住民との補償交渉が行われていた80年代初頭には既に、水需要の変化によって失われていた。)、自分の故郷は人口が少なく、補償金も少なくて済むからターゲットにされたのだろうという、冷静な視線も、数多く綴られていました。 個人としての喪失の表現力と、国家に対する冷静な視線を併せ持っていた彼女は、「真剣にはじめは反対しました」」と語る一方、(ダム建設を阻止するための)補償金受け入れ拒否では一歩も前進できないという自らの政治判断も書き残していました。そして本人の言葉によれば、「覚悟をもって」ダム建設を受け入れ、その覚悟によって、(ダム建設反対運動とは)別の力がみなぎるようになったと、ふるさとの記録に余生を捧げたいきさつを書き遺しています。実際、テレビ局の取材班に、公団から補償金の通知を受け取る場面と、その封を開けず(補償金額は見ずに)仏壇に捧げ、「(代々受け継いだ土地を守れず)申し訳ありません」と、仏壇に詫びる場面を撮影させた彼女は、その後年金の殆どを写真の現像・プリントに費やした一方、受け取った補償金は一部しか使わず、この世を去ったそうです。 彼女の写真や音声の記録は、彼女自身にとって欠くことの出来ない心の拠り所の記録であると共に、ダム建設反対運動とは、「覚悟を持って」距離を置いた彼女にとって、記録という行為は、反対運動に代わる闘争だったのではないでしょうか? 政治的運動には、敢えて加わらなかった彼女は、村に住む(住んでいた)人々のみならず、村を訪れる行政職、工事関係者も、ダム建設に対する立場に関係無く、好意的な視線で撮り続けていました。仲たがいする村人のどちらかを責めるのではなく、補償交渉を通じて村に持ち込まれた、損得という価値観を憂い、工事関係者に対しては、「ダムは嫌いだけれど工事に来る人は大切な人」という内容のキャプションまで残して。その結果、彼女の遺した記録は、彼女達の生活も心の拠り所も奪った権力の背後に居る、「経済成長」という私達自身の価値観を、主犯として浮かびあがらせているように感じました。実際に彼女は、「ダムが少しでも長く皆さまのお役に立って、少しでも喜んでくれる人がいないと、私たちは何のために村を出たのかわからなくなる。私たちが出てきたことでどうぞ皆が幸せになってくれますよう祈らずにはおれない。」と書き遺しています。 彼女の視線が、ダム建設にまつわる、地元住民対国家という構図の背後にある、より根本的な問題も見据えていたことは、1982年の時点で校内暴力に言及し、教師と生徒が親しい親子のように接している自分の村では、校内暴力など起こり得ないと述べていたこと(尾崎豊が、校内暴力を歌詞に織り込んだ「卒業」をリリースしたのは1985年)や、ダム建設が避けられない状況になってから、地元の歴史を発掘する調査が大きく進展し、縄文時代の土器も多数発掘されたこと、畑を荒らすこともなく地元の人々に可愛がられていた猿が、ダム工事に邪魔だと殺されたエピソードを紹介する(農村と野生の猿が共存していた例がかつてはあった)、などの、故郷の水没とは、少し離れた視点での記述が散見されることからも伺えます。 「ピッカリコニカ」との出会いがきっかけで、世の中にその名が知れ渡ることになった増山たづ子さんですが、仮にピッカリコニカとの出会いが無かったとしても、写真以外の方法で、文字や肉声や、録音や、ひょっとしたら絵筆を取って、たった一人の社会運動を、展開していたのではないかと思います。 彼女の足跡を、フォトグラファーとしての足跡と解釈してしまったら、彼女の「覚悟」を読み解く事も、志を学ぶことも、出来ないような気がします。彼女の書き残した言葉だけを取り上げても、録音だけを、取り上げても、それらを表現の組み合わせとして(マルチメディアとかインスタレーションのように)受け止めてしまっても、駄目でしょう。 国家と一庶民との力関係を、冷徹に見据えた上での「覚悟」によって明確になった、「残さなければ」という信念。覚悟の結果得られた、自分の故郷の環境のみならず、暮らしの中の「美しさ」の発見。発見によって、更に強まる信念。彼女の行為の芸術的価値というのは、こうした、信念と発見の相乗作用(撮影に行くたびに美しさの発見があるという記述が残っている)にあるのではないでしょうか? 残された写真について言えば、ネガそのものより、彼女の、被写体との関係の築き方自体が、後世に向けての表現行為であったような気がします。 本展について、「涙無しには見られない」といような文書で紹介する投稿を、何度かネットで見かけたことがありますが、こうした感想には、正直、違和感を覚えました。作品という意識でモノづくりをした事も無く、公共事業にまつわる問題にも疎かった一般の人が、この展示を見て、涙するなら分かります。 けれど、表現者を自認し、国が引き起こすさまざまな社会問題についてネットでコメントを書き込んでいるような人達が、涙が出るとか出ないという表現で、人にこの展示を紹介するのは、疑問に思います。 ふる里の無い自分には想像し難いような、深い喪失感で人生を終えた、何万人居るか分からない人達の犠牲で、今までの自分達を支えてきた”経済”が成り立っている現実を、改めて突きつけられた時、私の目からは、一滴の涙も出ませんでした。

絵画というより建築そのもの(応挙寺を見て)

先日、所用で兵庫県を訪れた折、日本海に面した香美町にある、大乗寺(通称”応挙寺”)を見学してきました。円山応挙が十代の頃、苦学する彼に大乗寺の住職であった密蔵上人が学資を支援したのが縁で、後年、絵師として名を馳せた応挙が、大乗寺客殿建築に際し、若い頃の恩返しにと、一門の精鋭を率いて大乗寺の障壁画、欄干の木彫りを手がけたのだそうです。 日本の寺院では通常、本尊となる仏像の周囲に、四天王像、あるいは十二神将像を配置しますが、大乗寺の客殿では、十一面観音像を安置した中央の仏間の周囲を、10の部屋(2階部分も入れると12)が取り囲み、それらの部屋の襖や壁全てに、応挙一門の手で様々な風景が描かれていました。近年の研究によると、描かれた襖絵は単なる風景画ではなく、仏間を中心とした曼荼羅図となるよう、それぞれの作品テーマが選ばれ、普通は四天王像で表現される価値観も、風景画に置き換えて描いたのではないかと、考えられているそうです。 それぞれの部屋に描かれている絵を漫然と見ていただけでは分かりませんが、それぞれの部屋に描かれた絵は、「水の流れ」を通じて隣室とつながっています。仏間に描かれた須弥山から流れ出た水は、仏間の南側(山側)の部屋を巡り、最後は仏間から見て北(海側)にある「山水の間」に描かれた海に流れ込んでいます。 寺院の現実の立地に合わせ、仏間から見て山側には山を描き、海側には海を描き、なおかつ作品の題材を四天王が象徴する価値観を表現するように選ぶ。 単に美しいだけでなく、現実世界の風景との符号を図りながら寺院に相応しいメッセージを込めるという重層的な空間構成は、現代社会での仕事に置き換えれば、単なる壁画制作ではなく、建築空間のデザインそのものと言えるかも知れません。 足の無い幽霊像という、前例の無い斬新な表現を開拓して一世を風靡した応挙は、大乗寺の襖絵ではオーソドックスな様式からの逸脱を避けながらも、卓越した写実力を発揮し、現代の目から見ても単なる様式に留まらないリアリティを感じさせる作品を残しています。制作に参加した他の絵師達の作品も、卓越した写実力で描かれ、見ていて飽きません。猿の間を手がけた長沢芦雪だけは、下絵を描かず、立てかけた襖に即興で一気に、水辺に遊ぶ猿達を描いた(毛並みは筆ではなく刷毛で描いた)そうですが、その描写はあくまで写実であり、このプロジェクトが一貫したコンセプトに貫かれていた様子が伺えます。 大乗寺の襖絵制作に、最晩年の8年をかけた応挙は、制作完了直後、63歳の生涯を閉じたそうです。60歳を過ぎた頃から病気がちとなり、病気で視力も衰えた応挙ですが、大乗寺に残した作品が絶筆ではなく、その他の仕事を幾つも抱えながら死を迎えた晩年だっそうです。 苦学して絵師となり、現代社会で言えば企業戦士のような生涯を過ごした応挙は、斬新かつリアルゆえに恐ろしい幽霊画も生み出しましたが、作品の殆どは地道に写実を追及したもので、一世を風靡した幽霊像も、病気がちな妻の姿がモデルだったそうです。 表面的な様式ではなく、様式に力を与えるための、裏方のように位置づけられた写実力の鍛錬の結果として、斬新な表現を生んだ(しかしそこにも固執しない)応挙。彼の存命時の人物評としては、面白味に欠けるという評価もあったそうですが、近年の研究では、彼の(単に写実的というだけではなく)、時として凄みを感じさせる表現は、彼の、決して平穏ではなかった生い立ちと、その境遇から逃げずに向き合った彼の生き様だからこそ生まれた、という見方も出ているそうです。 現在の私達が、芸術と呼んでいる行為は、ちょっと表面的な方法論や様式に、とらわれすぎてはいないでしょうか?その結果、新しい世界が広がるどころか、かえって、芸術がその力を発揮する場を、狭くしてはいないでしょうか? 生前は、良くも悪くも地味と評されていたらしい円山応挙による、200年前の空間プロデュースを見て、いろいろ考えさせられました。
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技術はあるけど(産業界と同じ構図その3)

昨日、浅草のアサヒアートスクエアへ、福永敦の個展「ハリーバリーコーラス─まちなかの交響、墨田と浅草」を見に(というより聴きに)行って来ました。その内容は、個展のタイトルでもある、墨田と浅草界隈のあらゆる場所で収録した音の数々を、肉声による擬音で表現し、その肉声を記録した(数十は下らないであろう)音源を、暗い会場内に配置するという構成で、更にこれらの音源のうち少なくとも幾つかは、センサーによって人の接近が検知された時に音るらしい、非常に手の込んだインスタレーションでした。 非常に手のかかる仕事を丁寧にやり抜くというだけでも、十分に評価し得るインスタレーションかと思いますが、ではそこになんらかの世界が表現されていたかというと、多数の擬音サンプルの集まり、以上のものは見出し難く、「ほんとにお疲れ様でした」以上の感想は浮かびませんでした。 「まちなか」をテーマにし、「まちなか」の再構成を狙ったかのような、広い空間内での音源配置を行いながら、何の音かはっきり分かる音のみ擬音化して、「まち」を特徴づけているはずのバックグラウンドノイズの擬音化に挑まなかったのが、散漫な印象を与えてしまった原因かも知れないし、あるいは、あまりにも多くの音源を配置してしまったがために、敢えて擬音にしてから録音・再生するという作家のポリシーがぼやけてしまった(擬音化を表現の要とするなら、むしろスピーカの数を絞り込んで、汎用的な2、あるいは4チャネル(サラウンド)のステレオ音源として作品を構成した方が良かったのかも?)のかも知れませんが、いずれにせよ、作品というよりある種の見世物(上品に言えばアトラクション)的な印象、それもディスニーランドのような、一貫性のある世界観というより、技術見本市でのデモンストレーションのような、何かを作る”手段”、”道具”の展示を見た時に近い印象を受けました。 会場で配布されていた資料を読むと、彼の制作活動は、日本のマンガの擬音表現に、着想の源泉があるようですが、では彼の制作に、マンガ家ではなく芸術家ならではの、着想の発展があるのか? 彼の制作は、元ネタであるマンガの擬音表現の発想を、高い技術で再編集したものではあるけれど、新たな世界の創造に至っているのか? 彼の経歴を見ると、海外でも精力的に活動を行っている(展示の機会が与えられている)様子なので、言語によるプレゼンテーション能力、つまりコンセプトの説明段階でのアピール力は、少なからず持ち合わせているようですが、コンセプトを形にする部分に課題があるように見受けられました。 どんな活動でも、言葉だけならどうとでも取り繕うことが出来ます。でも実力とは、ましてや創造力とは、その先の話です。 かつて私が籍を置いていた日本のエレクトロニクス業界は、この個展の作家のように、手のかかることをこつこつやり遂げる仕事にかけては恐らく世界一でした。今でもそうなのかも知れません。言葉の上で、立派なコンセプトを語る人、未来像を語る人、理論を語る人も大勢居ました。議論だけなら、スティーブ・ジョブスに一歩も引けを取らない人材も大勢居たでしょう。 けれど彼らの中に、自身が語るコンセプトなり未来なりを具体的な形にした人が何人居たか?百人に一人でも、形にした人が居れば、日本のエレクトロニクス産業は、現在のよう窮状に陥ってはいなかったのではないでしょうか? 技術はある、仕事もこなす、大いに語る。でも、誰かが価値を認めた思考回路から外れることを無意識に避け、過去に市民権を得た世界の中で何とかしのごうとする。 それは、分野を問わず、日本人の大半が、気づかずにいる、無意識の呪縛なのかも知れません。
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産業界と同じ(コモディティ化するアート)その2

その1からの続き:企画のユニークさや、社会的意義は熱心に語られる一方、創った当人にとっての切実さはほとんど語られない。これは、SMFに限ったことではなく、おそらく、(カタカナで語られる)アート全般に言えるような気がします。私が、本末転倒だと感じた、「当人にとっての切実さ」の希薄さ。切実さを伝える姿勢が弱いのか、はじめから自分にとっての切実さよりも他者に対するユニークさで勝負しようとしているのかは分かりませんが、この本末転倒は、私がかつて籍を置いていた、日本の電機業界に、とても良く似た構図ではないかと思います。 はじめは、お客様のニーズに応えるためにやってきた。お客様に、喜んでもらうためにやっていた。それがいつの間にか、新しい形態や機能を考案すること自体が目標になってしまった。営業からは、「(お客様が使おうが使うまいが)新しい機能が付いていないと買ってもらえない」と言われ、機能競争・性能競争はエスカレートする一方。そのうち商品を作っている当人たちも、何が本当に良いのか?大事なのかを考えもしなくなり(その一例については、かつてブログに掲載させていただきました)、気が付けば、まともな品質の商品など作れるはずがないと、馬鹿にし切っていた韓国ブランド、更には中国ブランドが世界標準。更に視野を広めて見れば、かつてのステレオやテレビやカメラに代わって、今ではiPhoneに代表されるスマートフォンの時代。 (1990年代末から、一部電機メーカーは、自己目的化した機能・性能競争の危険に気付き、作り手の思いを消費者に伝えるマーケティングを試み始めましたが、そこで語れた”思い”の多くが、企画や宣伝担当者の描いたシナリオに従ったもの、つまりヤラセだったためか、多機能低価格競争の流れの前では殆ど無力でした) かつて私が居た電機業界の人間達は、世界中のお客様から見放されたことでようやく、大事な事を忘れた新規性競争が無意味なことを思い知らされました。昨今の円安を喜んでいるのは、素人投資家と、市場に疎く利権にしか興味の無い経団連幹部くらいのものでしょう。現場の人間達は、円相場や人件費が本当の敗因で無い事を知って居ます(表立って認めるかどうかは別として)。 けれど、アート業界の人達はどうなんでしょう? 具体的な表現行為の必然性に触れることなく、つまりは中身に触れることなく、身近な場所でアートを享受し、支援するプラットフォームを目指すとか、アウトリーチプログラムがどうとか?そういう話に、机上の空論(良く言えば形而上学的議論)以上に何か意味があるのでしょうか? アートの中身に触れずに、どうしてアートと美術教育の関係を議論できるのでしょう? 自身にとっての切実さも無い、他者の比較での新規性(思考の拡張)が創造と言えるのでしょうか?(ちなみに産業界では、必然性を伴う活動である”創造”や”イノヴェーション”と、単なる思考の拡張にすぎない”ブレインストーミング”は明確に区別されます) 自分の行為について、自分にとっての切実さを、腹を割って語りもしない人達に、どうして他者との交流が出来るのでしょう? ましてや日常に様々な困難を抱え、文字通り一日一日を生きるのに精一杯な人達が、切実さがあるのかないのかも分からないような人達と、関わる必要があるのでしょうか? SMFに限らず、アートの世界の人達は、アートと社会の関係を(抽象的に)語るのが上手です。でもよく考えてみると、世の中には、物質的にも精神的にも、具体的な目標を掲げて活動する非営利団体が、様々な成果を挙げています。厳しい見方をすれば、(日本の)アーティスト達は、「アート」を言い訳に、中途半端なことを正当化している、とも言えます。残念なことに、”類は友を呼ぶ”ようで、SMFの資料を見ると、アートボランティアの人達にも、アーティストと呼ばれる人達の言うことの受け売り以上の姿勢は見られません。 その結果は、産業界と同じコモディティ化。どれもこれも似たり寄ったり。どうでもいい枝葉の意匠にしか多様性がなく、世の中には、安売り競争で勝ち残ったものだけが残ればいい。世間のアートイベントを見て回ると、それが既に顕在化しているように思えてならないのですが・・・・? 彼らは行政その他から様々な公的支援を受けることを成果だと思っているのかも知れませんが、行政から見れば、これを大衆が「文化」だと言って喜んでくれるなら安いものです。 産業界ではブレインストーミング(柔軟な思考力を養う手法の中の一つ)と呼ばれている行為を、こちらの世界ではアーティストと称する人達や学芸員や大学教員が「創造」や「芸術」だと持ち上げ、ひとりひとりの生との関わりも問われない、自己目的化した新規性を、崇める大衆を増産してくれる。 施政者から見れば、手のかからないガス抜きです。この手の出し物が”文化”ということになれば、権威や権力の前でも毅然とした姿勢を失わない、他者との比較からではなく自身への問いかけから生まれる(歴史の中で後世まで語り継がれるような)文化は居場所を無くし、コモディティ化したアート界は、似たり寄ったりの商品で互いの市場を食い合ってきた産業界同様、(無自覚のうちに)公的補助を巡りアーティスト同士で共食いしてくれるでしょう。だから施政者にとってはコントロールも容易で、なおさら好都合(長期的には、その国の文化的アイデンティティーを喪失する結果になりますが)。 日本の(カタカナで表記される)アートは、携わる者の志の良し悪し以前に、構造的な課題を抱えているように見えます。その課題は自己崩壊プログラムとして動作し続け、確実にアーティスト達の将来を摘み取っているように見えますが、解決策が無いわけではありません。 方法論や新規性至上の価値判断をやめればいいんです。 表現の真髄は、方法論や新規性ではないでしょう。 キュビズムを継承した平面作品で歴史に名を残したピカソだって、写真もやっていたし、晩年は陶芸にも夢中になっていたのですから。 パフォーマンスでしか自分の切実さを表出できない人はパフォーマンスをすればいい。でも(表面的な様式としては確立されてしまった)バレエや民族舞踊が自分にぴったりならそれでやればいいし、誰が見ても何を描いているかがすぐ分かる絵(俗に具象画と呼ばれる)を描いたっていい。 アートかどうか?アートの価値は、手法(の新規性)で決まるのでしょうか? 日本における抽象表現の先駆者の一人である、清川泰次は生前、 >現代芸術の底流は「人間の自由」の尊厳ということであろう とした上で、 安直な過去との対立や、なんらかの方法に頼る表現に陥ることを厳しく戒めています。 妙な固定観念を捨てれば、より多くの人が手を取り合って、より大きな力を発揮することが出来るのではないかと思います。
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産業界と同じ構図(コモディティ化するアート)その1

今日、知人の紹介で、埼玉県立近代美術館内の展示室で開催されていた、SMF(さいたま Muse Forum)という団体の発表(SMFさんなすび展) を見てきました。埼玉県立近代美術館では丁度、ベン・シャーン展や、地元絵画グループの展覧会が開催中で、これらの会場に並ぶ作品と、さんなすび展で紹介されていたSMFの活動を比較することで、日本で、カタカナで”アート”と表記される活動が抱える課題が、はっきりと見えてきました。 SMFの活動の詳細についてはここでは触れませんが、同団体のHPを読めば分かる通り、少なくともコンセプト(企画立案)の段階では、とにかくいろいろなアイデアを試そうとしています。 その数の多さで見れば、非常にクリエイティブな活動なはずなのですが、会場のある埼玉県立美術館で開催されていた他の展示と比べると、”アーティスト”という肩書きで活動している訳ではない日曜画家の作品と比べても、あまりに存在感が欠けている。刺さるものがなく薄っぺらい。 それはなぜなのか? SMFの活動の大半が”作品”というモノ作りではなく、その記録はビデオや写真や文字でしか残せないからなのか? そんなことを考えながら、会場に展示(掲示)されていた過去の活動の記録や、計画中(支援者募集中)の企画や、会場で無償配布されていた資料を何度も読み返しているうちに、ひとつ気づいたことがありました。 他ならぬ作家”自身にとっての創作”がほとんど語られていない 表現の方法論、具体的な手段の説明、鑑賞者(というか居合わせた)人の反応、アートと社会の関係、それは、それこそ掃いて捨てるほど雄弁に語られている。けれど、活動に参加しているアーティスト当人にとって、なぜその方法なのか?なぜその素材なのか? なにゆえ表現者というアイデンティティーで生きているのか? その記述が殆ど無い。 個々の表現について問わないまま、換言すればどのような営みを語っているのかがぼかされたまま、「アート」という言葉だけが一人歩きしている。 存在感の乏しさの理由が、そこにあることに気づきました。 切実さが語られない、作家(あるいはパフォーマ)自身の実感が語られない。それが、ベン・シャーン展や、絵画グループの作品展会場に並んでいた作品たちとの決定的な違い。 その違いは、表現手法が具象画ではなく抽象だから、とか、物理的に実在する対象を描くのではなくコンセプチュアルだから、とか、作品ではなくパフォーマンスだから、とか、方法論に由来する事柄でないのは明らかです。ピカソが描いたゲルニカは、表現手法が当時としてはきわめて奇抜であったにも関わらず、芸術鑑賞に関わる予備知識の有無に関係なく、不特定多数の人に現代戦争の恐怖を伝えた故に名作として歴史に残ったのだし、コンセプチュアルアートやパフオーマンスの先駆者の一人であるヨーゼフ・ボイスは、(彼の話の真偽は一部疑問視されているとは言え)、自らの作品やパフォーマンスと、自らの半生との関わり(表現行為に至る必然性)を、平易な言葉で語っていたことが記録に残っています。 言われてみれば、日本で、とりわけカタカナで語られる「アート」の大半で、切実さが語られていないのではないか?その疑問に辿り着いたとき、それは日本のアートに限らず、(日本)社会に広く見られる構図であることにも気がつきました。 「その2」へ続く。 
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加速する私達

昨日のことになりますが、東京は外苑前のギャラリー「ときのわすれもの」を久し振りに訪れ、長年の友人である井桁裕子氏の個展を見てきました。 これまでも、ユニークな作品を数多く発表してきた井桁氏ですが、その立ち位置は「人形作家」であり、言語的なストーリーやテーマをダイレクトに想起させる発表は、少なくとも私の記憶には残っていません。実在の人物をモデルにした作品も数多く手がけていますが、そうした製作でも、彼女の作品は、モデルについての何かを第3者に語るというより、モデルとの個人的な関係、個人的な思い(と言うより感触と言うべきか?)を、作家自身と親しい人に語るかのような印象がありました。 しかし、今回の個展での表題作「加速する私たち」は、実在の人物(吉本大輔門下の舞踏家高橋理通子)をモデルにしながらも、モデルの個人的属性から開放された、作家本人の、日常生活での思いが、ストレートに表現されいるように見え、作家本人と話してみたところ、やはり作家本人の問題意識の表現であることが理解できました。 凛々しく美しい女性はまっすぐ前を見つめ走り続けるが、その肉体は何かに激しく焼かれ燃え尽きつつあり、彼女の後ろで、ちぎれた乳房をつかみ必死で追いかける赤ん坊(次の世代)の視界は、飛んできたぼろ布でさえぎられている。 無自覚のうちに生を消耗させながら、私達は何のために、何処へ向かって加速し続けるのか? さまざまな社会問題を、現象面から語るのは、知識さえ溜め込めばいくらでも出来ます。でもそれが、自分自身の日常に対する問いかけにつながっているか? 少なくとも 表現 というのは、自分自身への問いかけに根っこがあって、はじめて成り立つのだろうと思います。 井桁裕子氏は、勉強不足をごまかすために付け焼刃の”コンセプト”を振り回す今時の多くの自称”アーティスト”とは正反対に、長年かけて造形力を磨きつつ、その造形力で何をするかを模索し続けている人。 今回の個展についての、作家本人のコメントは、下記をご参照ください。 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50030394.html
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良くも悪くも身体が決め手(大野一雄フェスティバル2012より)

現在横浜で開催中の、大野一雄フェスティバル2012 の中で行われた公演を、二つほど見てきました。それぞれ、演出に趣向を凝らした公演でしたが、良くも悪くも、ダンサー達の身体表現力で全てが決まってしまうことが、強く印象に残った公演でした。 一つ目の公演は、大橋可也&ダンサーズと、空間現代による 「ウイスパーズ」と「断崖」の二本立て公演。主催の大橋氏が”ハードコア・ダンス”と呼ぶ、一貫したストーリー性を排しながらも、様々な舞台や映画のワンカットをランダムに配置したような構成で、音楽(と言うより音響)も、楽音よりもノイズ・爆音を主体に、音声、微小音(微小音量での再生のため、何とマイクロフォンをスピーカとして使用)など主体としたハード・コアな構成。 二本共、非常に意欲的な試み、ではありましたが、ダンサー(今回は全員女性)が登場した途端、良い意味での緊張感が崩れてしまいました。ダンサー達は一応、振り付けをこなすだけの筋力と柔軟性を備えていたようですが、一人を除き、体幹や指先の動きにまでは配慮が行き渡らず、そのため存在感が希薄で、非常にしっかりと構成されていた音響に比べ、踊りの方は、単に女の子達がごちゃごちゃもつれ合っているという印象で終わってしまいました。 二つ目の公演は、藤本隆行構成による、「Node/砂漠の老人ver.β」。こちらの公演は、一つ目の公演とは正反対に、構成・演出の貧困さがダンサーの表現力で救われていた公演でした。 ”砂漠の老人ver.β”は、ヴァイオリンの生演奏やプロジェクターによる映像投影、CGによる映像制作、LEDを使った可変色証明等、様々なテクニックを盛り込んだものの、一つ一つのテクニックの使い方に、生演奏の内容も含めて目新しさや実験的要素を見出し難い上(エレクトロニクスを制御するソフトのプログラミング作業には、難易度の高い部分もあったそうですが)、それらを貫通する世界観が何ら感じられない散漫なものでした。上演終了後の、藤本氏のトークも、あれこれ知識を披露するばかりの散漫なもので、この人がなぜこの世界でフロントランナーのように言われているのか?非常に奇異な印象を受ける内容でした。 けれど、公演に出演した男性ダンサー(吉本大輔、白井剛カズマ・グレン)達のパフォーマンスは、表現者と呼ぶに相応しい内容で、正直言って、構成、演出は、余分な雑音と言っても差し支え無い内容でした。特に吉本氏、白井氏の表現力はダンサーの域を超え、動かずとも立ち姿そのものに、オーラが漂っていました(ダンサーと舞踏家の違いというのは、おそらくそのあたりにあるのでしょう)。 音楽の公演が、良くも悪くも演奏家の技量で内容が決まってしまうのと同様、 良くも悪くも、ダンスは身体が勝負ですね。 余談: 大橋可也&ダンサーズの出演メンバーの中で、唯一存在感を感じさせてくれたダンサーは、メンバーの中でもひょろりとした体型で中性的、顔立ちも童顔でしたが、メンバーの中で唯一(とまで書いてしまうと他のメンバーに失礼かも知れませんが)、妖艶な雰囲気を醸し出していました。 その妖艶な彼女の動きを良く見ていると、振り付けを、単に手足の動きとしてこなすだけではなく、体幹のポージング、動き、肩の動きと顎との位置関係、足先、手の指先のポジションや動きにまで、コントロールが行き渡っているのが分かりました。ダンスの表現力が、どこから来るのか?良い勉強になりました。とりわけ顎と肩との位置関係の大切さに気づけたことは、今回の収穫でした。
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勢いだけでは続かない(具体美術協会の末路)

先週、国立新美術館で開催されていた、”「具体」-ニッポンの前衛 18年の軌跡 ”を見てきました。全体的には、おおらかで、のびのびした印象の作品や記録ビデオが多く、今時の小難しい現代芸術とは、良い意味で違った趣が印象的でした。 http://gqjapan.jp/2012/07/03/nact/ ただ、それ以上の要素があるかというと、疑問を抱かざるを得ませんでした。確かに1950年代までの作品やパフォーマンスには、当時の既成概念には無かったであろう、自由奔放な発想が数多く、見ていてとても楽しいのですが、1960年代に入ると、50年代の彼らの作品群自体が既成概念化し、実験的、開拓的要素は見出し難くなっていきます。 会場で配布された資料や、展示見学後に図書室で読んだ資料を見ると、具体美術協会の作品は全て、リーダーとされた吉原治良個人による、いいか悪いかの二者択一で、出品が許されたり、許されなかったりしたそうです。また協会メンバーが、(自身の問題意識からではなく)吉原氏に評価される事を目指して作品を作っていたという評論が記載された資料もありました。 更に、1960年代以降、具体美術協会の活動が国際的に高く評価されたというのは、実際には当時、「アンフォルメル」という自らが提唱したコンセプトを世界に広げようとしていたフランスの評論家、ミッシェル・タピエが、具体美術協会の活動を、アンフォルメルと位置付けた上で宣伝したというのが実態だそうです。 そして、ミッシェル・タピエに取り上げられた後、具体美術協会の作品は、屋内に常設展示できるような”作品”、特に平面作品が中心となり、1960年代から加わったメンバーの作品群も含め、同協会の作品は、数ある”現代美術”活動の中に埋没していったように見えました。作品が、平面中心になっていった経緯については、吉原が作品の販売を重視するようになったからだ、という評論や、(多彩な表現を継続させられなかった点が)吉原の限界だという評論もあります。 1970年の大阪万博でのイベント「具体美術まつり」では、巨大ロボットや、イベント用に製作された自動車など、いわゆる”作品”ではない制作物が多数復活するものの、具体美術協会は1972年に、吉原治良の急死によって解散となります。 吉原が、自らの活動に具体美術という名前を付けた理由は、「精神が自由である証を具体的に提示したい」という願いからだったそうですが、具体美術協会の活動には、いつまで自由な精神が宿っていたのでしょうか?「誰もやっていないことをやれ」とメンバーを叱咤激励した吉原ですが、具体美術はいつまで、新しくあり続けることが出来たのでしょうか? 私は、1960年代はじめ、ミッシェルタピエによって祭り上げられた時点で、具体美術教会は既に、自由な精神(運動としての価値)も、着想の新しさも、失っていたのではいかと思います。具体美術協会は表向き自由を標榜しながらも、実際には吉原治良個人の価値判断に支配され、ミッシェル・タピエという個人の野心に合わせることで知名度を広げて行った。 けれど作家個々の探求の裏付けが弱い「新しさ」とは、要するに、既存の方法論や価値基準への捕らわれの裏返しに過ぎず、だから容易に売ることへの誘惑に引きずられ、最後(大阪万博)は、現実への無関心を良しとする(知恵や想いの継承という芸術作品本来の役割とは無縁の)政治的宣伝に、自ら進んで利用され、終わってしまったのではないかと思います。 会場で上映されていた、「具体美術まつり」の映像を見ると、確かにエンターティメントとして楽しいし、(当時としては)技術的に実験的であり演出法として斬新でした。このイベントは、その後の日本でのエンターティメントに、少なからぬ影響を与えたのかも知れませんが、このイベントに、表現としての新規性や、なにか定まった視点なり継続性のある探求の片鱗があるかと言うと、首を傾げざるを得ませんでした。 率直に言って、具体美術協会の活動は、美化され過ぎではないかと感じました。 けれど、 現在のコンテンポラリが、具体美術協会の末路を克服するような創造力を持ち得ているかと言うと、疑問が残ります。視覚にせよ聴覚にせよ、その大半は、自らの商売のために先人達の試みを、思想、あるいは方法論として固定化し、かつ権威化することで自身と大衆の虚栄心をくすぐり、金を回しているだけ。だから「~に師事」という徒弟関係をプロフィールに記載しなければいけなくなる。とまで書くと言い過ぎでしょうか? そもそも精神の自由(芸術の創造性)と(何かを造る)手法の新規性とは別問題だと思います。具体美術協会は、創造性=手法の新規性、としてしまったところに、限界があったのではないかと思います。具体美術協会は自らを権威化することができず、リーダーの死と共に終焉しましたが、今の日本の現代美術や現代音楽の大半は、大阪万博で能天気なショーを企画した、末期の具体美術協会と同じ、いや、エンターティメント性に乏しい分、具体美術協会以下なのかもしれない。そのような視点も持てるなら、国立新美術館での”「具体」-ニッポンの前衛 18年の軌跡 ”は、非常に有意義な企画展だと思います。

要するに奢り2(ユニバーサルデザインシンポジウム聴講記)

6月29日、臨海副都心のメガウエイブで開催された、「ユニバーサルデザインシンポジウム 2012」に参加してきました。 各企業の発表は、その会社の”現場力”が反映された内容で良い勉強になったのですが、気になったのは冒頭の基調講演の内容でした。 基調講演は、産学連携推進機構理事長の妹尾堅一郎氏による、「デザイン起点型イノベーションとスマートデザインの可能性」というタイトルの講演だったのですが、講演内容は、具体的な商品やサービスの紹介を除けば、10年以上前から、指摘されていた課題ばかりでした。デザインや、バリアフリーや、ヒューマンインターフェースの世界では、遅くとも今世紀初めまでには(古いものは1980年代から)広く認識されていたトピックが、今でも人を集めるイベントの目玉になっている。ではいったいこの10年はなんだったのか? 例えば、 妹尾氏が配布した資料に記載されていた >イノベーション=社会・産業・生活等の「価値システム」の基本モデルを大きく変えること という話を、(デザイナーでも企業家でもマーケティング担当でもない、技術者だった)私が始めて知ったのは、1990年代前半でした。こうしたイノベーション(当時は価値創造と呼ばれる事も多かった)をやらなければ製造業が生き残れないだろうことは、当時研究開発部門でも共有されつつありました(そして後年、各社共懸念した通りの事態に陥った。当時中国や韓国の凄まじい技術革新は予想されていなかったが、価格競争の激化により、年を追って利益率が下がるだろうことは予想されていた)。 >「事業起点型イノベーション」の方法論としての「デザインドリブンイノベーション」 *ここで言うデザインとは、新たな価値形成、商品設計、ビジネスモデル構築も含む広義のデザイン の必要性も、1990年代には日本国内でもしばしばメディアに取り上げられていた課題です。 また妹尾氏がスマートフォンの特徴として掲げた、シンプル、直感的操作、ワクワク感の重要性も、現在のパソコンやタブレット端末の実現を予言した(実現を目指して研究していた)アラン・ケイ氏が1970年代に指摘していたことは、コンピュータサイエンスの世界では広く知られており、1980年代には、アップルコンピュータ社のMacが、その具体像として発売されていました。 つまり日本国内では、20世紀末からその必要性が指摘されてきた機能(サービス)を具現化したビジネスが未だ皆無で、課題解決が未来の話になっている(棚さらしにされたまま)ということです。やるべきと分かっていることを、事情はどうあれクリアできなかったのですから、国際競争力が落ちるのは、残念ながら自明です。 広義のデザインにおける、多岐に渡る課題を、「スマートデザイン」というキーワードで互いに関連付けた妹尾氏の手腕にケチをつける気は毛頭ありませんが、日本企業における(広義の)デザイン上の課題を手際よく解説した妹尾氏の講演によって、日本の、とりわけ大手メーカーの、10年以上に渡る(怠惰に近い)停滞が、改めて浮き彫りになった印象がありました。 その他の講演については下記の通り。やはりトヨタのマンパワーと資金力が際立っていました。 「ロボットと暮らす社会に向けて トヨタの介護医療支援ロボットへの取り組み」トヨタ自動車パートナーロボット部部長 玉置章文氏: トヨタの数あるロボット開発のうち、医療介護関連に限っての事例紹介だったが、開発中の機種が3つや4つではない模様。並行して開発している機種は二桁に届くかも知れない。また、講演では詳細説明が無かったものの、研究のアプローチが、普通の工学系の研究室(機能を一つ一つ検証)や学術界(仮説を一つ一つ、別々の調査・研究で検証)とは全く異なる模様。仮説検証の積み上げではなく、医療・介護現場の人達からの要望に基づき、フィールドテスト用の試作機(検証すべき機能を多数搭載)をダイレクトに制作し、定量評価も一つ一つの機能検証というより、現場の人の評価を数値化する事に重点が置かれている印象(個々の機能検証用のデータは自動収集されるように初めから設計されているのかも知れない)。その上で、脳波で制御する電動車椅子のデモ映像を見せるなど、基礎研究レベルの技術力もさりげなくPR。2010年代中に、何らかのパートナーロボットを商品化する予定とのこと。スピーチも全く淀みなく過不足なく、極めてプロフェッショナルな印象l。 「あそびで社会に貢献するという発想 -ボーネルンド30年の取り組みから」 ボーネルンド取締役広報室室長 村上裕子氏: 輸入玩具・遊具の販売を通じて、子供の生活環境に合った遊びを開発・提案しているという触れ込みだったが、実際の講演内容は、輸入元(の国であるデンマーク)や顧客側のトライアル紹介が大半で、同社による自発的な問題発見や、改善に向けてのトライアル、顧客からのフィードバックに対する自発的な取り組みがどの程度あるのか(会場で配布された資料を見ても)よく分からず、他人のフンドシで相撲を取っている印象はぬぐえなかった。講演内容の時間配分も、半分近くが具体性を欠く思想表明に割かれており、怪しい健康食品・器具の営業と同類の印象を受けた。もし自分が顧客側の担当者だったら、この企業との提携には慎重にならざるを得ないだろう。もっとも、演台に立った同社の取締役が、同社の現在の、現場(子供達が遊んでいる場)での取り組みを、充分に把握していなかった可能性は残る。 「「いつもの便利×もしもの備え」シリーズ開発への取り組み」 パナソニック アプライアンスマーケティング ジャパン本部本部長 原正一郎氏: 表題の商品シリーズ開発裏話の紹介。ポイントは、①全て既成商品の仕様変更か商品化済み技術の応用であること(技術開発成果ではなく潜在需要発掘の成果) ②既存の慣例やルールを打ち破り、従来は不可能だった迅速な商品化と物流に成功したこと。 の2点に集約され、講演内容は、新商品の開発だけでなく、東日本大震災直後の、被災地への乾電池提供も含まれていた。「何をすべきか」が明確であれば、そして、お客様、社会への貢献が、上位概念として(海外拠点も含む)全社で共有できれば、パナソニックのような巨大組織であっても、既存のルールを打ち破ることができるという好例。ただ気になったのは、個々の商品はみな、どこかで見た(海外のベンチャーが同様な商品を開発済みでネット通販等で購入可能)ものばかりだった点。品質や、大量供給の安定性は日本の大手家電の方が格段に優れているだろうが、構想力はどうか? ひょっとしたら日本メーカーは、社内のデザイン・イノヴェーションにコストと時間を割くより、世界の優れたデザインを、(デザイナーにとっても)適正な価格で仕入れるようにした方が、世界規模で見た場合、より大きな社会貢献が出来るのではないか?という気がした。 以上。
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絵画に学ぶ即興(連休美術展巡り その2)

先の連休中はもうひとつ、「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」も見に行ってきました。 彼が20年以上に渡る創作活動の末に辿り着いたアクション・ペインティング、とりわけ彼の名を世界に知らしめた、オールオーヴァーと呼ばれる、画面のどこにも重心や方向や構図らしきものを作らない作品について遺していた言葉が印象的でした。 キャンパスの上に塗料を垂らすプロセス自体については、「経験からして――塗料の流れをコントロールすることは可能であるように思われます。大部分はね。私は用いません――偶然は用いません――なぜなら、私は偶然を否定しているからです」と述べ、偶然に任せるのではなく自らの技能によるコントロールを重視する一方、「絵の中にいる時、私は自分が何をしているのか気づいていない。」「私は変更したり、イメージを破壊したりすることを恐れない。なぜなら、絵画はそれ自身の生命を持っているからだ。私はそれを全うさせてやろうとする」と語り、そのコントロールによって、意図的に何かを描くことも否定していました。 ひとつひとつの動作は表現者の技能に裏付けられている一方、その技能に、”意図”を介入させない。これは視覚表現・聴覚表現を問わず”即興表現”に共通する考えではないかと思います(即興は、偶然とは違う)。私の友人さがゆきが、自らの「完全即興」を語るときも、指導するときも、「ほんとうにいい演奏のあとは「自分がガンバった」のではなく、「自分は何もしなかった」と感じる。」、「普段は思考力を高め、演奏では忘れる。顕在意識が潜在意識に移った時、本物になる。」、など、常々同じようなことを語っています。 そしてさがゆきが、しばしば同じステージで即興と楽曲との間をシームレスに行き来するように、彼女より半世紀以上前の時代に新たな表現を開拓していたポロックも、オールオーヴァーに留まる事なく、やがてオールオーヴァーと抽象的な構図、更には具象との自由な融合を模索するようになりました。けれど当時のアートシーンはそれを衰退と評価し、彼は再びアルコールに溺れ、自殺同然の事故死を遂げてしまいました。 こうした先人達の挫折の積み重ねがあって、現在の自由な表現が、表現として受容される社会があるのだなと再認識した次第です。それと同時に、ジャクソン・ポロックのように歴史に名を残した先人達にとって、彼らが到達したスタイルは、それぞれ、彼ら自身の人生にとって必然性のあたもので、必ずしも他者に必然性があるとは限らない、ということも、再認識させられました。
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5/11追記:色彩の説得力/言葉の胡散臭さ (連休美術展巡り その1)

先日の連休では、三つの美術館に行きました。一つ目は、東京都現代美術館で開催されていた「靉嘔 ふたたび虹のかなたに」  およそ40年、基本的な方法論を変えずに制作を続ける靉嘔(5月に81歳になる今も現役の作家)氏の回顧展。虹色で描くと言っても、作品の多くはオレンジと緑色が印象が残るように配色されていて、統一感、安定感がありました。見ていて気分が良い作品群。芸術として(の実験性・創造性)はどうかという議論はあるかも知れませんが、アニメキャラのパクりで財を成すことをアートだと吹聴しまくる、日本の視覚芸術界の一派のように、アーティストに対する評価をミスリードする害を撒き散らす訳でもなく、「これでいいじゃん」と納得させられる存在感がありました。 同時開催されていた福島秀子、田中敦子(いずれも故人)の回顧展も、日本におけるコンテンポラリー・アートの概念を創った先人達の軌跡として、良い勉強になりました。 水戸芸術館で開催されていた、「ゲルダ・シュタイナー&ヨルク・レンツリンガーー力が生まれるところ」も、結晶の析出を利用した作品群など、配色の美しさが印象に残る企画展でした。 これだけセンスがあるならば、何もコンテンポラリ・アートなどに閉じこもっていなくてもいいのに、と思わせるような、理屈抜きで楽しめる作品が多かった一方、布の切れ端やら発砲スチロールのかけら等、様々なかけらに、それにまつわる物語の説明をキャプション付けて「Sweet Little Nothing」と名づけたり、様々な人の涙を標本ガラスの上で乾かし、顕微鏡で覗かせて「Tear Reader」という作品にするなど、無理やりコンセプチュアルな体裁を整えたかのような作品もありました。 評論家や学芸員に媚びるようなわざとらしさ。彼の地ではひょっとしたら、”現代芸術家”の肩書きを振りかざせるような、コンセプチュアルな体裁があった方が、安定した社会的地位や生活が出来るのかも知れませんが、作者に美的センスがあるだけに、一部の取り組みが、ある種の見苦しさに感じられました。 この企画展と同時に、公益法人水戸芸術振興財団の主催で開催されていた増本泰斗展は、失礼ながら、これに輪をかけてわざとらしく、中身の薄い展示でした。 会場入り口で配布されていた資料に記載された、長文に渡る説明によれば、作家は様々なワークショップを「悩み、学ぶための実験」として行ったことになっていましたが、外国人へのインタビューを納めたビデオを除けば、他は幼稚な戦争ごっこでしかなく、ワークショップの模様を撮影したビデオにも、資料の説明文にも、このワークショップならでは「学び」や「悩み」はおろか、作品のテーマになっているはずの戦争についても、ワークショップの参加者達が、普通に戦争体験を見聞きする以上の発見をした痕跡はありませんでした。この展示(ビデオ上映)の企画者である竹久侑氏(水戸芸術館現代美術センター学芸員)は、作家の増本泰斗が広島出身の両親から聞いた被爆体験を題材に作品を制作していると解説していましたが、何のことはない、他愛ない遊びを、あたかも社会的意義があるかのように見せかける、詭弁の技を披露しているに過ぎないと、認識せざるを得ませんでした。 水戸芸術館は、以前、ヨーゼフ・ボイスの回顧展で、彼が来日した際のインタビュー等を日本語字幕付きで紹介したり、非常に有意義な企画展も行っていますが、今回のような、「裸の王様」に出てくる仕立て屋同然の企画展は、芸術の振興どころか、芸術の自殺行為ではないかと思います。 コンセプチュアル・アートとは、その手法ならではの、アートでなければなし得ない新たな発見があって、初めて存在価値が生じるのであって、作品(あるいは何らかの行為)の存在価値を厳しく吟味する(その上で世に問う)ところに、芸術を支援する組織や学芸員の存在価値があるのではないかと思います。 表現の自由だからと言って、何をしても良い訳ではないでしょう。ましてや学芸員や公益法人は。 5/11追記: ファッションデザイナーの山本耀司氏は、下記のインタビュー終盤近く、作品作りついて 「作るものには嘘がつけない。言葉ではいくらでも嘘つけても」と延べています。 現代芸術についても、全く同じことが言えると思います。 http://fashionjp.net/soen/fashion/feature/yohjiyamamoto120507/
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1/12追記:置き去りにされてきた問い(最近見た展示から) その2

ところで、今月初めに開催された東京モーターショーですが、会場が千葉県幕張から臨海副都心の東京ビックサイトに変更されたせいか、前回を上回る入場者数だったそうです。しかし、子供の頃から東京モーターショーに通い続けている私にとっては、残念ながら既視感あふれる内容でした。 展示されている技術は確かに、毎回進歩はしているものの、取って付けたようなイメージばかりで、技術的な具体性や実体のある生活提案に欠けるステージデモの数々。大手メーカーほど見栄えと中身のギャップが大きい。未来のライフスタイル等と言いながら実は10年前に既に見えてた未来を繰り返しプレゼンしているだけ。ここ10年の進歩と言えば、車(載コンピュータ)とのコミュニケーションに使う端末に、スマートフォンという具体的な製品名が付いた事位。あとは、昔ながらの”走る喜び”を追求したモデル(試作車も含む)の展示や、普通の新車発表と同様、実生活での実用性をアピールしたデモ。 実用性重視の展示はいいことですし、”走る喜び”も、悪いことではありませんが、今回に限らず、近年の東京モーターショーを通じで徐々にはっきりしてきたのは、要するに自動車というのが既に、(新しい)夢を実現する手段ではなくなりつつある、ということではないかと思います。メーカー自身が夢を提示できなくなっている。ダイヤモンドオンラインにも、今回のモーターショーを取材した記事が掲載されているようですが、この記事でも、(入場者数が)盛況だった理由は、将来の車への夢や、購買目的の下見、以外の部分だったという見方が紹介されています。 http://diamond.jp/articles/-/15311 もちろん、話をモビリティ(機械による移動手段)全体に広げて考えれば、人々のライフスタイルを一変させるような(かつ技術的にも経済的にも実現可能な)夢は、幾つも提示できるでしょうし、これまで培われてきた自動車技術の応用先も数多くあるとは思いま。ただ、人々の夢(社会的ニーズ)が、作り手側も含めて自動車とは別の世界にシフトしつつあることが、年を追ってはっきりしてきた昨今、いい加減、日本の経済は自動車メーカーが牽引するなどというシナリオは、見直すべきではないでしょうか?少なくとも、今のように沢山の自動車メーカーが日本に存在する必然性は無いし生き残れる経済環境が訪れるとも思えない。むしろ多くの自動車メーカー同士が過当競争を繰り広げる現状を維持させてしまうと、(従来のエンジン車とは全く構造も設計思想も異なる)電気自動車時代に向けての、新しい産業育成に対する障害になるかも知れません。 日本の産業界はいつまで、過去の栄光にすがり続けるのでしょうか? 自動車そのものの話ではありませんが、日本の電機メーカーは、1990年代の後半以降、次々とディジタルオーディオプレーヤを発売しました。しかし、アメリカのパソコン専業メーカーだったアップル社がiPodを発売するとほどなく、日本企業は次々とシェアを奪われ、iPod がディジタル・オーディオプレーヤの代名詞になってしまったのは周知の通りです。過当競争という業界の体質が、創造的な商品の開発や市場開拓を阻んでいることの表れでしょう。それは、先のブログで書いた通り、40年前から日本国内で指摘されていた病理です。日本の産業界は、技術開発力は何とか維持しているものの、商品を創造する力を、これからの社会的なニーズに合った生活を提示する力を、失いつつあるのではないでしょうか? アップル。コンピュータの創業者の一人であり、死の直前までCEOでもあったスティーブ・ジョブスが生前、新しいアイデアを数多く生み出すことよりも、(優先順位の低い)アイデアを切り捨てる努力の方が、(企業経営にとって)遥かに難しいし重要だと語っていた事は良く知られています。また今月発売された、クーリエジャポン2012年一月号には、MITメディアラボに長年在籍し、現在は副所長でもある石井裕氏へのインタビューが掲載されていますが、彼もまたインタビューの中で、(創造的な成果を出す上で)一番大事なもの以外を捨てる重要性を語っています。更に、何を選ぶべきかを突き詰める上で「なぜ」を繰り返す重要性、「自分が死んだはるか後の人間に何を残せるか?」という視点の重要性を語っています。 日本でも最近、とりわけビジネスの世界では、何かにつけて”イノヴェーション”の必要性が叫ばれますが、ではなにが”イノヴェーション”なのか?どんな方向の変化が”イノヴェーティブ”なのかはほとんど語られず、イノベーションと言いながら実際には弊害の目立つしくみの温存が図られる事も珍しくはなく、言葉だけが一人歩きしている状況ではないかと思います。それは、問題を直視し、遠い子孫の事まで考えて、大事なものを選び取る(大事でないものを捨てる)事を躊躇する人間が、大勢居るからではないかと思います。 前例を探そうと思えば、問題を直視して物事を語ってきた先人達はいくらでも居ます。要は私達が、彼らの歩んだ道へ踏み出すかどうかだと思います。 1/12 追記分: 若者の「車離れ」について、下記のような解説が出ていました。要するに、若者は車に興味が無いのではなく、購入費も維持費も高すぎるので買わないということです。自動車業界や立法府がやっている事が、新たな生活ニーズとかけ離れているのがその原因です。 http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1201/11/news055.html
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置き去りにされてきた問い(最近見た展示から) その1

先日、目黒区美術館に、「DOMA秋岡芳夫展 -モノへの思想と関係のデザイン-」を見に行ってきました。デザイナー、あるいは作家としての、秋岡芳夫氏の作品を数多く集めて展示した意欲的な企画でしたが、私達が彼の業績から学ぶべきことは、作り手としての彼自身の仕事や、伝統的な手仕事の再評価活動なのか?考えさせられる部分がありました。 日本の敗戦後、家具など木工製品を中心とした製品の設計やデザインから、デザイナーとしてのキャリアをスタートさせた秋岡芳夫はやがて、カメラやバイクなどの製品のデザインも手がけるようになり、カメラ、露出計、さらには現像タンクに至るまで後にロングセラーとなる製品を数多く生んだ一方、童画家としての活動も続け、学研の雜誌「科学と学習」の付録も手がける。 更に1960年代後半以降は、製品デザイン自体よりデザインプロセスの開拓に力を注ぐようになり、68年の104会議室(のちのグループモノ・モノ事務所)、70年代以降は木工と中心とした手仕事の再評価や、「生活デザイン」との融合に力を入れるようになり、1977年の東北工業大学教授就任、82年の共立女子大学生活美術学科教授に就任など、大学での研究活動にも乗り出す。 というのが彼の大まかな業績だそうで、展覧会場には彼の作品や、彼が収集した日本の木工工具などが所狭しと展示されていました。会場に並んだ展示物を見て回ると、秋岡氏の、手仕事へのこだわりばかりが目立ちますが、会場では一箇所にしか展示されていない、104会議室での活動録に目をやると、それとは違った側面が見えて来ます。 彼は104会議室でのデザインプロセスを、「会議によるデザイン」と呼び、(メーカーの都合ではなく)生活者の立場から、優れたデザインを生み出す方法を試行錯誤していました。その試行の中には、スライドプロジェクタを使って黒板に写真を投影し、投影された写真にチョークで重ね書きをするという、1990年代以降に実用化されたマルチメディア会議の手法を先取りする活動があったばかりでなく、日本の縦割り社会の弊害(富国強兵のための国策会社の名残で、デザイン団体でさえ横のつながりが無い。デパートも、問屋毎に売り場が分かれているだけ。)や、今で言う、企業の社会責任の希薄さ(企業活動は外部経済に支えられているのに、日本の企業は外部経済に利益を還元しない。)、過当競争の弊害(大して知識差のない企業同士が競争すると、宣伝やシェアの奪い合いのために利益の多くを消耗させてしまう)、更には、市民活動の弱さ(日本は市民社会の実体が弱い。市民社会が企業を育て、企業が市民社会と共に発展することができない。)といった、現在もなお、ほとんど手つかずのまま積み残しになっている問題点が、明確に指摘されていました。 彼はまた、デザイナーは市民社会の代弁者であるべき、とも述べていたそうで、彼が後年、木工を中心とする軽工業製品のデザイン活動に軸足を移していったのは、単に木工品、あるいは手仕事の魅力を伝えるためではないでしょう。もし彼が、現在のように、誰でも知識さえあればパソコンを使ったシミュレーションで機械を設計することができ、ロボットを自分で作って自分でプログラミングできる時代に生きていたら、それでも彼は自分の体外活動の軸足を、木工に移していたでしょうか? 1970年代から1980年代頃の技術で、市民が自分で企画し、デザインし、職人さんに作ってもらえるような製品がどんなものだったか?彼の活動は、その時代の制約を踏まえて、理解する必要があるのではないでしょうか? また彼は、日本の工芸について、手間暇かけて作る従来の工芸は、人件費が高くなってしまった日本ではもはや(産業として)成立しないことを70年代に喝破した上で、休みの日を利用したり、現役を退いた高齢者の手で生産する「裏作工芸」を提唱し、それが77年からの東北工業大学就任につながっています。 その経緯は展覧会場でも、一応掲示されてはいたのですが、展覧会場では「裏作」への試みに触れないまま、彼の、工芸(その殆どが手工業)への愛着を示す資料ばかりが展示されていました。 これはどういうことなのか?これでは単なるノスタルジーではないか?秋岡芳夫という人は、若い頃さんざ工業デザインを手がけたあげく、古典に回帰しただけの人間なのか?彼の古典回帰を称賛するために、わざわざ関係者から膨大な遺品を借りてきたのか? 経済の現実をしっかり見据えた上で、新たなデザインプロセスと生産方式を模索していた(生前結果を出せたかどうかは別として)はずの人間を、あたかも古典再評価の功労者であるかのように祭り上げたキュレーションには、違和感を覚えましたが、この展覧会を見た後、インターネットで秋岡芳夫を検索してみると、やはり”裏作”工芸についての詳しい記述は見られず、昔から伝わる工芸技術の再評価活動についての記載しか見当たりませんでした。 http://www.town.oketo.hokkaido.jp/teshigoto/about/index.htm http://gakken.jp/ep-koho/?p=4244 秋岡芳夫という人は、工業デザインの世界ではかなり知名度の高い人だそうですが、果たしてその後継者達は、彼の遺志を理解しているのか? 彼が生前、明確に述べた問題を直視しているのか? (遺志が尊重され、問題意識が引き継がれていたら、こんなキュレーションになっただろうか?)  そんなことを考えていたら、今月初めにみた、もう一つの展覧会(展示会)の事を思い出しました。 その2へ続く
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語らぬ存在感と語る空虚さ

ここ一週間ほどの間に、都内での所用の合間、二つほど作品展を見て回りました。 一つ目は、銀座のステップスギャラリーで開催中の、串田治さんの個展。 (上記URL上では、色の階調がかなり単純化されてしまっているので分かりにくいですが)それこそありとあらゆる色相、明度、彩度の組み合わせ。デザインの入門書に書いてあるような色の組み合わせで言えば、必ずしも綺麗ではない、むしろ綺麗でない組み合わせの方が多いのに、見苦しさが全く無く、四方の壁全てに作品が掛けられた会場はとても居心地がいい。紙の上に絵の具(水彩またはアクリル?)で描かれた、画材の組み合わせとしてはミニマムな構成なのに、色彩の強さや厚みや深みや、透明感に様々なヴァリエーションがある。 事務室の壁にはさりげなく、きっちり写実的に描かれた作家の自画像。それも正面、左右、上から見た図。自筆のプロフィールには、芸術論、方法論の類の説明はなく、ただ、自らの平面作品作りに向けた姿勢を、ごく大まかに振り返った記述があって、最後に「しかし次に来ることは見通せないので、やりたい事をやろう」と結ぶのみ。 見せびらかしたり意識的にアピールする要素が作品にも説明にも全く無い、極めてストイックな個展。と言うより、その必要が全く無いほど、作品が醸し出す空気に落ち着いた存在感のある作品展でした。 二つ目は、熊谷守一美術館のギャラリーで開催中の、石田節子さんの個展。彼女の個展を見るのは3回目。これまで、おとぎの国の街に立っているものや、道路を、一度バラバラにして、再構成したような絵画を描いていた石田さんの今回の個展は、テーマを明確に"Landscape"とした一方で、具体的なモノを連想させるような形の描き込みを極力控えた、抽象的な作品群。 けれど、贅肉を削ぎ落とすように具象性を抑制した構成は、少なくとも私にとっては、風景としての普遍性を感じさせるものでした。それは、自分がどこか街なり山なり海なり水中なりで、素敵な景色に出会った時の感動から、”何処の”という説明的要素を取り去った後に残る印象に通じるものがありました。 正直言えば、前回、彼女の個展に行ったときは、これと言った感想が頭に浮かばず、作家に感想を聞かれて答えに困ったのですが、今回は、20分位、作家といろいろ話をすることができました。 二人共、アート誌で特別話題になるような、独創的なアプローチをしている訳ではありませんが、地に足の付いた、しっかりした存在感があるような印象を受けました。 作品の価値というのは、作家がどれほど、対象を深く掘り下げようとしているか? ではないかと思います。 (その掘り下げ方がユニークかどうかというのは、実は2の次3の次のような気もします) 物事のとらえ方をひとひねりしただけで、コンテンポラリ・アートと認められ、ひとひねりを他人に体験させることが、アート・イベントとして認められててしまう時代になってから、もう何十年も経ちますが、考えてみれば、そうした活動は、ビジネス用語に置き換えれば、ブレイン・ストーミングの段階にすぎません。 ブレイン・ストーミングは、そこで出てきたアイデアの中から現実世界に反映させる価値のあるものを選び出し、現実世界で生きる人間が抱える課題に対する、方向性がありなおかつ継続的な取り組みの糧にしてこそ、意味があるのですが、(少なくとも日本の)アートの世界では、ブレインストーミングの先を問う姿勢に乏しく、それが、芸術の社会的認知を妨げる一因になっているのではないかと思います。 これは作家のみならず、アートディレクション、アートプロデュースに関わる人間の、意識の問題ではないか? ああだこうだと理屈をこねることなく、静かに、しっかりした存在感を放つ作品に触れるたびに、(日本ではカタカナ表記される)アートの空虚さを実感します。
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音にも通じる絵画論(磯江毅さんが遺した言葉)

先日、練馬区立美術館へ、「特別展 磯江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才」を見に行って来ました。 http://www.museum.or.jp/modules/topics/index.php?action=view&id=43 磯江毅さん(1954-2007)は、極めて写実的な絵画作品で知られ、作品の大半を制作したスペインでは”グスタボ・イソエ”の名で親しまれ、マドリード・リアリズムと呼ばれる作家達の中でも、優れた作家として、国内外で高い評価を得ていたそうです。 会場には、人間技とは思えないような、緻密に描写された具象画が並び、特に90年代以降にモノクロで描かれた作品は、遠目には銀塩写真と見分けがつきません。ただしその精密さは、”スーパーリアリズム”と呼ばれるイラストレーションとは異なり、現代の写真プリントに似た質感を追うのではなく、明らかに、西欧絵画の歴史の延長線上にある、描かれた物(人)が経てきた時間や、描かれた場所の気配を感じさせる表現でした。 もっとも、絵画について大した造詣も無い私は、会場に展示されている作品から、それ以上は読み取ることができず、ただただ、人並み外れた技術(と、作品を完成させるまでの、気の遠くなるような手間を淡々とかけ続ける精神)に、びっくりするだけでした。もし、会場に展示されていたのが、作品と、作品に対する解説だけだったら、私はこの体験を、わざわざブログに書こうとはしなかっただろうと、思います。 でも会場には、何箇所か、解説文だけでなく、磯江さん自身が生前遺した言葉も、掲示されていました。例えば、写実について、 「見つめれば見つめる程、物の存在が切実に写り、超現実まで見えてくることがある。そこまで実感し、感動を起こす精神の存在をもってして初めて、実を写せるのではないだろうか?習い覚え、慣れ親しんだテクニックだけに頼って機械的に描かれた画面に、実が宿るはずがない(1991年)」 と言う言葉を遺しています。いわゆるスーパーリアリズムと、磯江さんの写実性が全く異質なのは、こうした姿勢が画面に現れているからなのでしょう。またこの言葉は、「物」を「楽譜」に置き換え、「描く」を「演奏(または歌唱)」に置き換え、「画面」を「音」に置き換えれば、そのまま音楽にも当てはまると思います。クラシックでも現代音楽でもジャズでもロックでも、先人達をはるかに凌駕する技巧で演奏したり歌ったり出来る人は、今はもう、日本でも珍しくありません。完成された”形”の継承を目指す人も大勢居ます。でも、プロとかアーティストと言われる人の中でも、磯江さんの言うような「実」の表現を目指している人は、どれほど居るのでしょうか? 更に晩年は、写実について次のようにも語っています。 「写実は出発点であって、最終目的だとは思っておりません。いうならば写実を極めることは、写実でなくなってしまうと考えています。物を良く見るということは、物の成り立ちを見極め、やがてそれを解体、解剖することだと思うようになったのは、私の個人的発想ではなく、長年住んだスペインで、見ることを極めてきた、ヨーロッパ美術の歴史が、教えてくれたことだと確信しております(2006年)」 19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパで、風景やポートレートの(作家それぞれにとっての真実)探求の過程で、後に印象派と呼ばれる表現が生まれたり、見えない物を描こうとする未来派の活動があったり、対象を文字通りか解体し、再構成するキュビズムが生まれ、色彩や形それ自体の美的価値の追求から抽象画が生まれた歴史を考えれば、更に古くは、レオナルドダビンチが、画家であり解剖学者でもあり、「空気」という物の成り立ちの研究から飛行機械を考案した技術者でもあることを考えれば、磯江さんの上記の言葉は自然に受け入れることが出来ますが、日本では未だに、視覚表現(絵画)でも聴覚表現(音楽)でも、表現、評論、鑑賞、研究が、もちろんそれらの全てではないでしょうが、表面的な様式毎に分断されがち、分断された断片毎に権威化されがちで、写実が写実でなくなるような、様式横断的な(特定の方法論から開放された)プロセスを学んだり、研究したり、実践したり、奨励する活動は滅多に見られません。 また、(上記の言葉とも通じる内容ですが)自分と”写実”との関係について、 「日本人にとって日本語が母国語であるように、私にとって写実は、対象の再現であって私自身の表現方法でもあるのです。しかし、西洋美術のもっともプリミティブな形で、根本でもある写実表現は、絶対的に信頼できるものでありながら、それを自分の問題として進化させてゆくことが出来ない限り、 ”本当の写実絵画=普遍性を持った絵画”とはいえません(2005年) と、語っています。 これも、視覚表現に限らず、身体表現にも、音楽にも、そのまま当てはまると思います。クラシック音楽でもジャズでもロックでも、過去の評価基準に頼っていたり、過去の名演を目指しているうちは、モノマネにはなっても、音楽という「表現」にはなり得ないと思います。ジャズの世界で、金銭的な安定や成功を目指して活動する人達が、しばしば「営業系」と蔑まれるのは、彼らの大半が、ジャズを自分の問題として進化させようとせず、大衆に認知された既存の評価軸(=金になり易い)に合わせた活動しか、していないせいでしょう。 コンテンポラリー(現代○△)と呼ばれる表現領域においてさえ、過去に確立された様式や方法論にいつまでもすがったり、祭り上げたり、家元争いのような場面を目にすることが珍しくない日本の芸術界は、何か大事なものを、学び忘れているのではないでしょうか?
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皮だけ剥がれた岡本太郎

東京国立近代美術館へ「生誕100年 岡本太朗展」を見に行ってきました。 http://taroten100.com/index.html 良くも悪くも、予想通りの内容でした。  岡本太郎の回顧展には、これまで2回ほど足を運びましたが、それらと比べ、今回は特に新しい切り口も見当たらず、というよりむしろ、以前よりも作品の形態や色彩のユニークさを紹介することに的を絞った印象さえある展示。戦後の再製作しか現存していない「痛ましき腕」のキャプションに、再製作との表示もなく、オリジナル版の製作年しか掲示されてないとか、やや雑な部分があるのはちょっと気になりましたが、岡本太郎入門編としては、戦前から晩年までの作品が網羅されていて、良い展示だったと思います。  けれど同時に、「岡本太郎も、幾多のスタイルの中の一つ」扱いになっちゃったんだな、という印象もぬぐえませんでした。「芸術は爆発だ」の意味も、対極主義の意味も、一応説明はされていましたが。  私は仙台で仕事をしていた頃、休みの日に美術館の図書室に通って岡本太郎全集を読んでいたんですが(16巻までしか読めませんでしたが)、全集の中身は社会の常識に対する挑発の歴史でした。もちろん今でもよく取り上げられる”縄文の発見”など、民俗文化への(当時としては極めて)斬新な解釈も数多く語られていますが。彼が挑発し続けたのは、画壇だけでなく、芸術全体、社会全体。だから岡本太郎が、戦後日本の芸術を牽引した一人として歴史に刻まれた訳で、昨年亡くなった荒川修作さんも、岡本太郎に触発され(て日本に居場所がなくなった)一人だそうです。  でも今、岡本太郎の作品を語る世に伝える人はたくさん居るけれど、岡本太郎の戦いを伝える人は皆無。戦いがあったこそ彼は紛れも無い芸術家だったはずなのに。  岡本太郎が社会に放つ挑発は、そのまま本人に跳ね返り、本人の言動の矛盾が露呈する。その矛盾を誤魔化さず、自分との矛盾と戦いながら社会にもぶつかって行く。昔読んだ岡本太郎全集の詳細はもう覚えていないけれど、対極主義って、キャンパスの上だけの話じゃなくて、そういう生き様の話じゃなかったのか?遺された作品も、1960年代半ば以前のものを知ってしまうと、それ以降のものは、デザイン性の方が際立って感じられてしまう。だから公共スペースに置けるようになったのでしょう。渋谷駅ビル内に修復展示された巨大な壁画「明日の神話」も。  1970年の万博プロデューサを引き受けてから、やたら分かり易い(良く言えば理路生前とした)話しかしなくなって、自己の矛盾を露呈するような真似をしなくなったから、対極主義の教祖岡本太郎をリスペクトしていた人達から総スカン食らって(当時を知っている人は「ミイラ取りがミイラになった」と言ってました)、万博が終わったらタレントになってしまい、晩年はドクター中松と双璧を成す変な爺さん。  日本でカウンターカルチャーが短い最盛期を終えようとしていた1970年代はじめには、長いモノに巻かれまいとするアーティスト達から抹殺され、本人が(パーキンソン氏病で)タレント活動も出来なくなった最晩年にようやく(養女である敏子氏の尽力で)再評価された時は、日本の芸術界に社会と戦う機運など無く、作品だけが、様式のウンチクを語る美術評論の対象として祭り挙げられていた。  岡本太郎さんは、皮だけ剥がれて剥製にされて、見世物になったような気がします。それは本人の身から出た錆なのかも知れないけど、皮の中にあったモノのことを伝えてくれる人は、何処に居るんでしょう? 今私が詳しく知りたいのは、万博プロデューサを引き受けてからの岡本太郎の言動の変化。  岡本太郎が変な爺さんキャラでテレビに出ていた80年代半ば、来日したヨーゼフ・ボイスは現代芸術の延長線上に自ら提唱した「拡張された芸術概念」を語り、作品を目的としない社会活動をこれからの芸術としてブチ上げた(既存の現代芸術にヒジ鉄を食らわせた)。1950年代の岡本太郎だったら、死期を悟ったヨーゼフ・ボイスの、この挑発に、何と応えただろう?
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学術交流というより思想集会?(新日本未来学会シンポジウムに参加して)

先週末のことになりますが、新日本未来学会という団体の、2010年度シンポジウム「~持続可能なくらしとコミュニティの未来」 を聴講してきました。 シンポジウム前半は、俗にエコビレッジと呼ばれる集落の開発事例が中心でした。エコビレッジとは、人間の生活に伴う物質の循環が、出来るだけその地域内で完結するように自給自足と地産地消を推し進め、なおかつこれらを極力環境負荷の少ない手段(有機農法や廃棄物の再利用等)で実現し、物質循環が幾世代にも渡って持続するように計画されたコミュニティ開発事業で、今回のシンポジウムでは、自給自足の実験を重視した開発や、リタイヤした高齢者を中心に(必ずしも血縁があるわけではない)多世代が助け合って暮らす社会作りの実験に軸足を置いた開発や、都市近郊における小規模な農業経営の実験に軸足を置く開発などが紹介されました。事例報告の後には、コミュニティ作りの具体論より少し俯瞰的な見地から、日本の住宅制度の問題点(高度経済成長期の法令や制度が今もそのまま残り、現実の社会環境に合わなくなっている)も説明され、とてもいい勉強になりました。 続く後半は、前半で報告されたようなコミュニティ作りを、より一層社会に浸透させるにはどうすればよいか?という視点からのパネルディスカッションだったのですが、議論が進むにつれ、ちょっと妙な雰囲気に・・ 前半で報告された事例ひとつひとつはもちろん、とても斬新で意欲的で、将来の社会像を考える上での示唆に富んだテストケースなのですが、それはあくまでテストケース、技術開発の世界言えば実験室内の成果であって、そのまま社会全体に適用できる訳ではありません。 これらの事例は、既存の農地保護を試みる事例を除けば、有志、それも千万円単位の投資をする財力のある人たちが作るコミュニティの事例ばかりで、社会全体から見れば、一部の恵まれた人達だからこそ実行できる実験です。一方社会の大半の人達は、わざわざ自ら投資をしてまで、世間の経済循環から離れた土地に移り住むゆとりもなく、大半の人達は、経済的な制約や、家族の都合のせいで、自由に引越しをすることも生活の中で関わる隣人を選ぶこともできません。 つまり有志で集まる人だけでコミュニティを作るという、現在のエコビレッジ作りの前提自体、実社会で一般住民を対象とする政策に適用するのは不可能な話なのですが、今回のパネルディスカッションでは、その点に全く触れないまま、今後この運動をどう広めようかという方向に話が進んでしまい、これらの実験成果の中でどんな要素が一般社会に適用可能か?という現実的話題が皆無だったのは残念でした。 更に、コミュニティを維持するための秘訣として、コミュニティの住人が互いに徹底して自己開するのが大事だという意見まで出ていました。もちろん、理想的な人間関係を前提にするなら、つまり、互いに性善説で相手のために最善を尽くし、相手が抱えるどんな重い現実も、何があっても責任を持って受け止める覚悟を誓い合った仲間同士だけで暮らすのなら、自己開示はとても有効かつ大切なルールだと思います。 けれど、現実問題として、そんな固い信頼関係で結ばれた仲間を作ることが出来るでしょうか? 自己開示で信頼関係を築くには、全員が、自分の価値尺度で他人を評価してしまうのを自制できるのが必須条件ですし、どんなに重い現実を打ち明けられても、その現実から目を背けず、自分も一緒にその現実に立ち向かわなければ、自己開示した人を却って深く傷つける結果になりかねませんが、 そんな理想的な人間ばかりの集団を、現実に幾つも作れるのでしょうか? 自己開示の重要性を主張した二人のパネラーのうち、社団法人コミュニティネットワーク協会近山恵子さんは、実際に自己開示を受け止める難しさも述べ、現状では、精神疾患歴のある人など、コミュニティーに受け入れられない人も居る点を率直に認めていましたが、自己開示の重要性を主張したもう一人である古橋道代さん(グローバル・エコビレッジ・ネットワーク日本大使)は、人間関係の確執をある程度経験した人間なら誰でも容易に想像が付くはずの、自己開示の危険性については一切語りませんでした。コミュニティ作りを議論するはずの学術的集会で、こういう発言(メリット・デメリットを公平に説明しない)に対して、何の問題も指摘されなかったのには、不自然な印象を抱かざるを得ませんでした。 ましてや近所付き合いの相手を選べない一般社会では、徹底した自己開示は、円滑なコミュニケーションどころか、逆に無用なトラブルを生む結果になるケースが多いのではないかと思います。 シンポジウムの前半では、とても意欲的な事例が報告され、大変興味深かったのですが、後半のパネルディスカッションでは、話の流れが何かの思想運動みたいになってしまい、学術に相応しい冷静な問題提起があまり見られなかった点は残念でした。 そんな中、シンポジウム前半で、日本の住宅行政の課題を解説した、上田昌文さん(市民科学研究室代表)の発言は、後半のパネルディスカッションにおいても冷静で、(エコビレッジなどの実験事業に限定されない)社会的課題を俯瞰的に捉える視点に徹していたのが良い意味で印象的でした。
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開拓者精神(アメリカの良い所は輸入しない日本の支配層)

先週の金曜日、日経デザイン主催の、ユニバーサルデザインビジネスシンポジウム2010というイベントへ行ってきました。内容の大半は、日経グループの企画だけあって、生業として工業製品開発をやっている人以外には縁遠い内容でしたが、イベントの最初に行われた基調講演だけは印象に残りました。 基調講演に招かれたのは、Emily Pillotonというアメリカ人で、Project H Design という、生活弱者や貧困地域で(も)活用できる、低コストと利便性を両立させた、製品や環境改善策をデザインする組織を創立した人でした。彼女は見たところ、まだ30歳前後の若い女性ですが、彼女のグループは設立から27ヶ月(2年ちょっと)で22のプロジェクト(100以上のデザイン)を完成させ、おまけに数百万ドル(数億円)の予算で10万ドル(900万円強)の利益を挙げたとのこと。プロダクトの利用者(支払い能力が乏しい人々)が直接対価を払った訳ではないでしょうが、モノつくりの事業としてはなかなかの利益率です。 貧しい人々のためにこそ優れたデザインを、という活動は、近年日本でも報じられているので、彼女の発想自体に、目新しさは無いのかも知れません。けれど彼女の事業が、方針を明確にした組織運営で、継続的に成果を挙げ続ける体制を作ったという点において画期的なのは、おそらく間違えないでしょう。 彼女はプロジェクトを進める上で大切な事として、 1.Design through action (机に向かってあれこれ考えてないでまず行動しろ) 2.Design systems, not stuff (モノではなく仕組みを創れ) 3.Design with, not for (誰かのため(に自分の頭で考える)のではなく、(利用者と)共に創れ。) 4.Start locally and scale globally 5.Document, share, and measure (記録を残して共有しろ、そして(定量的に)評価しろ) 6.Build(実際に作ってみること) の6項目を挙げていました。1,4,6,については、これまでも言われてきたことですが、モノ造りがゴールであるプロジェクトでも2.を重視するのは、成果に発展性を持たせる上で重要でしょうし、プロジェクトに関わる者が、プロジェクト終了後のことにも責任を持つ姿勢を明記したという意味で斬新だと思います。また3.もユニバーサルなデザインを実現する上では欠かせない要素ですが、利用者の意見に積極的に意見を傾けるという従来のデザインから一歩踏み込み、デザイナー主導ではなく共同作業をポリシーとして明文化した点は斬新だと思います。5.において、定量評価を意味する"measuare"を、(エンジニアではなく)デザイナーに科した点も斬新です。これは実際、なかなか厳しいポリシーです。 彼女が、プロフェッショナルとして非常に優秀なのは、恐らく間違えないでしょうが、日本国内で話題になり易い「優秀な人材」と比べて際立っているのは、行動力と開拓者精神ではないかと思います。上の世代の偉い人が注目しない(と言うより目をそむけている)こと、それも常識的には金になりそうもない仕事に敢えて挑む集団に、お金が流れてプロジェクトが動く(どころか利益も出る)というのは、日本では滅多に聞かない話です。 昨今の日本の世相なら、こうした志を持った人材は、「左がかった奴」と冷ややかな目で見られるのがオチですが、アメリカ社会では例えば、Democracy Now のように、日本における「日本共産党」のような言論を展開する組織が、非営利のニュースチャネルとして成り立っています。世界中で最も「反共」だったアメリカ合衆国なのに。 日本の財界人や政治家や官僚は、アメリカ社会の貧富の差を深刻化させた政策など、悪い所は一生懸命真似しようとしますが、その一方で、金になりそうには見えない未開の地へ踏み出そうとする開拓者精神に溢れる者や、反体制の烙印を押されることも厭わず民主主義の理念を守ろうとする者に手を差し伸べようとする、アメリカ社会の良い点を日本にも広めようと行動する人は皆無です。実際はそういう気持ちの人も居るのでしょうが、表舞台に立つことができない。 日本の政治家や官僚が、今までのように、アメリカの悪い所だけを真似る政策を続ければ、日本は間違えなく、マクロ経済指標でも没落し、個人生活でもアメリカ以上の貧困大国になるでしょう。
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絵画ならではの強み(久松温子展を見て)

先週のことですが、久松温子さん http://ku-on.net/index.html の作品を、久しぶりに見に行きました。 彼女の作品を初めて見たのはもう20年位前。初めは本の挿絵として作った作品展も開いていたような記憶がある。対象の形態を大胆にデフォルメした作品のみの個展になってから、確か15年位。  正直に書くと、以前は、彼女の作品が特別強烈に、印象に残った訳でもなかったし、個展へ行く度に彼女と多少話はしたものの、彼女が何処へ向かおうとしているのか、理解できたとはとても言えないほど、自分は芸術に素人だった。一見もの静かな印象を与えながらも、意思の強さを感じさせる彼女の眼差しに惹かれていたのは確かだけれど、なぜ彼女に、ひっかかるものを感じていたのか自分でも分からなかった。 けれど今回の個展に足を運んでようやく、自分にとっての彼女の魅力が自覚できた。  まず何より、壁に掲げられた彼女の作品達の作る空間が、とても居心地が良い。恐らくこの心地良さは以前の彼女の個展より格段に良くなっている。色相・明度・彩度といった、印刷物やパソコンの画面でも再現できる要素を越えた領域にある、色あいや色の強さが、丁寧にコントロールされた彼女の作品が作る空間は、とても心地良い。  一見抽象的に見える彼女の作品には、いつも風景を思わせる(時として具体的な場所や物の)タイトルが付いている。今回も、彼女本人に確かめた所、どの作品も、彼女が実際に見た景色が元になっていると言う。彼女は気になる風景をスケッチしても、写真には撮らないと言う。旅先でも滅多に写真は撮らないと言う。写真を撮ると、写真の画面に残ったものしか記憶に残らなくなるから。彼女は写真という道具の危なっかしさを良く理解していた。撮影に夢中になると、映像だけ残る一方、他の思い出が残らなくなる事が良くある。更に表現者にとって、写真の危なっかしさは他にもある。  彼女はスケッチをするとき、目の前に広がる視界の中から、例えば「あっ、この線は残したいな」というふうに、自分にとって大事な要素を確かめながら描いているという。文字にしてしまうと、絵描きなら誰でも普通にやっている事にも思えるが、彼女の場合、元の空間が具体的どうなっていたか第3者には分からないほど「大事な要素」を厳選する。見ていた対象が何かという、表現ではなく説明にしかならない要素が、徹底的に排除されている。  これはなかなか出来ることではない。説明的な要素を排除すると、いわゆる「上手ね」という技術的評価は期待できなくなる(分かる人には分かりますが)。その上、説明的要素を排除した残りに「伝わる力」を宿らせるには、精神面でも余分なものを排除するだけでなく人並み以上の技術も居る。けれど、それが自由に出来るからこそ、写真がどんなに普及しても、写真や画像処理の技術がどんなに発展しても、絵画ならでは価値は揺るがない。  写真をやっていると、(写真が基本的に、現実世界の出来事の記録であるせいもあって)表現者にとって大事な要素を選ぶ突き詰め方が、甘くなりがちになってしまう。甘くなって余計なものを画面に入れてしまうのとは反対に、写真の発表に慣れて来ると(私も過去4回ほど個展を開きました)、撮影の段階で、「あっ、これは(写真としては)絵にならないな」と、自分が感じた事を素直に記録に残すのを、放棄するようになったりもする。  ギャラリーの壁に写真を展示するようになってから十数年経ち、写真の画面に余分な要素を入れない訓練は、大分成果が出てきたと思うけれど、彼女の作品を見て、改めて、自分は(写真に慣れてきたせいで)、記録に残すべきだったもの(シャッターを切るべきだった対象)まで、無視するようになってはいないか?気になってきた。 眼前に広がる視界の中で、自分が本当に心惹かれた部分は何処なのか?もう一度初心に返って見直してみよう。
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要するに集金装置?

先月末、「トーキョーワンダーサイト渋谷」というところ http://www.tokyo-ws.org/shibuya/index.html で開催されていた、「Double Vision」展 http://www.tokyo-ws.org/archive/2010/01/double-vision.shtml というのを見てきました。 「クリエイターレジデンス」、「創造的なコミュニケーションの拠点」と言った、素人目には立派なテーマを掲げて運営されているトーキョーワンダーサイトが、東京藝術大学、武蔵野美術大学、フランスのナント藝術大学と連携で開催したという、素人目には、人並み外れて知性や創造力に富んでいそうな人達の作品展でしたが、現場で作品を見て説明書きを読んで見れば、「なるほどね。分かりました。だから?」という、ありがちな理屈をこねくり回した以上の内容が、見出し難い展覧会でした。少なくとも私の目には。 成果物としての作品が、ジャーナリズムや、商用目的の制作物ではなしえないような、社会や人の内面への鋭い洞察でも示してくれるなら、理屈もおおいに結構なんですが、都会で生活している人間にとっては今更な「気づき」を、難しい理屈で(それも既に健在化した現実を後付のりくつで)飾られても・・・ 自分の想像力を披露しなければいけない場面で作品造りのプロセスをだらだら説明していたり。そのプロセスがユニークならまだしも、昔の絵描きが普通にやっていたことだったり。 特に、悪い意味で際立っていたのは、夜の渋谷でヤラセのハプニングを見せるバスツアーを作品にした、東京藝術大学藤幡ゼミ http://www.fnm.geidai.ac.jp/index.html による「渋谷リアリティーツアー」。会場に置いてあった説明書には立派な能書きが並んでいましたが、実態は、20年くらい昔テレビで放映されていた「天才・たけしの元気が出るテレビ」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%89%8D%E3%83%BB%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%97%E3%81%AE%E5%85%83%E6%B0%97%E3%81%8C%E5%87%BA%E3%82%8B%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93!! http://www.nitteleplus.com/program/variety/genki_tv.html の真似。それも、元気が出るテレビで、観客を、観客でありながら(テレビの視聴者からみれば)見られる側に仕立てあげてしまった数々のハプニング(半魚人、地底人、大仏魂・・・・いろんな企画があったなあ)の向こうを張った仕掛けに挑むのならまだしも、空き地の真ん中にポツリと置かれた模型の電車とか、その横でギターを抱えて歌うシンガーとか、夜中になぜかホットミルクの屋台を出している変な外人さん(クリストフ・シャルムさんという有名なサウンドアーティストなんですが)とか、警察や町内会の目を気にしながらこそこそやったような情け無い仕掛けばかり。学生に、テレビの真似をさせるのが、なんで創作(それも芸術の)になるんでしょ? >最低限の関わりを持って、その場所とそこに関わる人(観客や通行人)の関係に変化を与えるような「ジェスチャー」を仮置きする >虚構の中に持ち込まれた虚構はいったい、いかなる現実感を作り出すことが出来るのか?それとも作り出さないのか? (会場で配布されていた資料より) といったテーマは、「天才・たけしの元気が出るテレビ」だけじゃなくて、それより昔の、いわゆる「ドッキリカメラ」の類でもいろいろ実行されていたわけで、それをただ、「芸術」という建前でやり直したからって、何かが生まれる訳じゃない。「最低限の関わり」と言いながら、真夜中の空き地に模型の電車を走らせたり、そこに脈略もなくシンガーが登場したり、最低限どころか思い切りわざとらしい仕掛けを持ち込んでいるので一層、テレビ番組の出来損ないに見えてしまう。今時の学生だから、松本人志や板尾創路の不条理ギャグを真似したつもりかな? 見る側と見られる側の関係が容易に逆転するようなハプニングを街の中で起こす企画なら、確か1960年代末に寺山修二さんがやっているし、 それ以前には、1960年代の「ゼロ次元」でも、ツアー形式で参加者にハプニングを見せたり参加させるパフォーマンスがありました(一昨年の横浜トリエンナーレで記録映画が上映されていました)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%AD%E6%AC%A1%E5%85%83 そういった、先例についての考察を説明した上で、「なので私達は以上の考察に基づきこんな問題意識からあんなことやりました」という発表なら、話は分かるんですが・・・・? 社会なり、自己なりを、人並み外れた敏感さで洞察できる感受性が育っていない人間に、いくら理屈や手法を教えたところで現代芸術になる訳がない。そもそも指導者側にその感受性があるのか? 結局のところ、こういう企画は(それに関わっている”大学”というシステムも含めて)、アーティスト志望の子(の親)に実態のない夢を与えて、お金を巻き上げる集金装置(搾取と言っても良いかも?)に過ぎないのでは?と、疑いの眼差しを向けざるを得ません。 案の定、というか、後日、東京ワンダーサイトについてネットで検索したところ、数年前に赤旗が、この組織に対する疑問を掲載していました。 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-11-23/2006112303_01_0.html
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良くも悪くも「手段」でしかない

先日、東京での所用ついでに、電子メディア・アートの関係の2つの展示を見てきました。 一つは、初台のICCインターコミュニケーションセンターで開催されていた オープンスペース2009 http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2009/Openspace2009/index_j.html と、可能世界空間論 http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2010/Exploration_in_Possible_Spaces/index_j.html もう一つは、東京都現代美術館の サイバーアーツジャパン http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/cyberarts/ 可能性世界論を除いては、日本における電子メディア・アートの歴史を振り返る展示で、中には現在の目から見ても色あせず面白い作品も、ありました。現在の目で見ても、発想や技術が、斬新だなと思える作品もありました。 今は「ポスト・ペット」の発明者として知られる八谷和彦さんはその代表格でしょう。彼の「視覚交換装置」は市販品を使ったシンプルな仕掛けながら、人間の脳の適応力に関して、新たな発見をもたらす発明だったと思います。 http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=000902 とは言え、自然科学領域での貢献や、(後の実用品開発につながる)工学的貢献やエンタティメントとしての面白さ以外に、何かあったかと言うと・・・ コンピュータ・テクノロジを用いた未来を提示した「可能性世界論」展の展示内容も含め、やはり技術(エレクトロニクス)は良くも悪くも手段でしかないようです。それを使って人間の意識がどうの認知がどうのコミュニケーションがどうの世界がどうの議論したところで、私も以前はその種の文書をあれこれ読みましたが、宗教(検証せず信じることが前提の世界)の真似事以上の何かがあったか? 結局のところ、本人が現実世界の中で、生身の身体でもって経験し、学んだ以上の発想は、出てこないのではないでしょうか?次々と開発される新技術を使った電子アートが咲き乱れた1980~1990年代にかけて1950~1960年代のSFに無い発想が生まれたでしょうか?電子技術を駆使したアートが、具体的かつ実用的目標を持って進められる技術開発に先んじて、何かを予言、あるいは発見したでしょうか? 振り返ってみれば、実生活で使われたインターネットや携帯電話の方が、アーティストの思考よりはるかに速く、人類を変えてしまったように思えます(もちろん表面的な行動レベルの話で、人間の精神になんらかの質的変化があったかというと・・・?)。 というのを再確認できた点では、行ってよかったかな? 先日の日記でも書いたことですが、「作品造り」から離れ、社会に対する「アクション」をこれからの芸術とみなそうと訴えたヨーゼフ・ボイスさんは、やはり先見の明があったと思います。芸術「作品」は、彼の死後急速に、何かを予見する力も、人の心や人々の営みの深層をあぶり出す力も、失いつつあるように見えます。 それにしても「サイバーアーツジャパン」展は、ボッタクりに近いものがありました。メディア・アートは観客の前で実演しなければ(または観客に作品を使用させなければ)作品として成立しないのに、装置だけ置いてる作品(それも電源を切った状態で)がいくつも。作品の耐久性など工学的制約があって、実際に動作させるは難しいのかも知れませんが、メディア・アートの展示を企画するのであれば、企画者(美術館)がそれを補う方法を提供してしかるべきでしょう。
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