資料紹介:土地の匂いと”正調”

下記の記事は、日本の民謡を録音した音源を素材にDJをしているユニット”俚謡山脈”のインタビュー記事で、直接的には日本の民謡についてしか語っていませんが、世界の音楽産業全般に通じそうな、大変興味深い内容でした。 https://www.danro.bar/article/11623411 上の記事中でも紹介されていた、『日本の民謡』(浅野建二著/岩波新書)の中での指摘「土地の匂い、すなわち郷土色を失った民謡はもはや民謡ではなくて、最下級の流行歌に堕したものといってよかろうと思う」 には、私も、「なるほど」と思いました。というのは・・ 1980年代はじめ、私は大学生だったのですが、講義の無い時間帯に部室へ行くと丁度、NHK-FMの、「民謡の時間」でした。そのせいもあって、当時は相当数多く日本の民謡を聴いたのですが、そのおかで分かってきたのは、一口に民謡と言っても、同じ曲でも、演者によってそれぞれ節回し(西洋音楽で言うところの、リズムやキーや、メロディーや音階)が少しずつ違っていること。同じ曲(演目)といっても、西洋近代音楽の”曲”とは、随分違う概念だということが分かりました。 その一方で、明らかに音階が現代の西洋楽器に合わされ、リズムも五線譜に書き記されたような、まるで、小学校の音楽の授業で歌わされた「ソーラン節」のような民謡も、どんどん放送されるようになっていました。実際には、そうした民謡の方が多かったかも知れません。 時代は丁度、民謡歌手出身の金沢明子さんが、テレビにもよく出演するようになった頃。私が大学を卒業し、社会人になった、1980年代半ばには、伊藤多喜雄さんが、西洋楽器も交えたバンドを率いて、全国を回るようになっていました。 ヒットチャート狙いに変貌した民謡を、「堕したもの」と呼んでいいのかどうかは、議論の余地が大アリですが、ヒットチャート狙いに転じた、と言うより、西洋近代音楽の音階と記譜法に馴染むように変換されてしまった民謡に、オリジナルの魅力が残っていないのは、確かでしょう。それは、名前は同じ民謡でも、もともとの民謡とは全く別世界の表現、近代西洋音楽の派生系と言った方が適切かも知れません。 そして私が社会人になってから、随分と年月が経った後に気づいたのですが、こうした変貌は、日本の民謡に限らないようです。 以前、インドネシアの民族音楽を同国の大学で専攻した人達(インドネシア人)による、ガムランの演奏を収録したCDを、聴いたことがあるのですが、明らかに、五線譜に従って演奏しているのが分かる、(民族音楽にしては)異様にゆらぎの少ない機械的な演奏に、びっくりした記憶があります(特に、新作の曲では)。1990年代以降、日本各地で盛んになった、和太鼓のグループによる演奏も、そのリズムやテンポの刻みは、明らかに五線譜に従っている機械的な演奏が大半で、伝統的な祭囃子とは、似ても似つかぬノリの音楽になっています。 実は、現在、”クラシック音楽”と呼ばれている音楽も含め、世界中のあらゆる音楽は、音楽産業界の”ジャンル”になる過程で、もともと持っていた、ある種の、一期一会のダイナミズムを、捨ててしまっているのかも、知れません。 そして、もうひとつ、音楽が、演奏者”以外”の人達が仕切るビジネスに変貌する過程で、新たに生まれる価値基準についても、上述の記事中で、俚謡山脈のメンバー、斉藤匠氏が興味深い指摘をしていました。 「民謡の世界に「正調」って言葉があるんですけど、それは、正統性を持たせちゃった言葉なんですよね。レコードになったり本で紹介されたりで、それまでいろんな節回しがあったものを、「みんなが歌うべきメロディはこれだよ」って決めちゃったやつが「正調」。そうなると他のやり方で歌っていた人たちが、そっちに合わせがちになっちゃう。」 特定の表現だけが、正しい表現として権威化されてしまう現象。これは、日本の民謡に限った話でしょうか? もともとは地域によって、人によって多種多様だった欧州の音楽が、産業革命の進展に伴い増加した、”ブルジョア”階級向けに大規模化・規格化されて”クラシック音楽”となり、それが、レコード産業や放送産業、更には教育産業の都合に合うように、絶対的なものとして権威化される。 レコード産業とマスメディアの影響力によって、ある時期に、あるプレーヤー達が行った試みが、””スイングジャズ”、モダンジャズ”、”バップ”、”フリージャズ”・・などと細かくジャンル化され、後を追う者達は(特に日本では)レコード会社とマスメディアが、ビジネスのために仮組みしたに過ぎない”ジャンル”を、まるでルールブックのように盲信しながら、勝手に”本質”などという神話を創作しては、本家争いに明け暮れる。 などなど・・・ 私達の、音楽についての感性は、実は、テレビやラジオ放送、最近ではストリーミングを通じて、ビジネス界の都合に合うよう、それこそ物心付く前から、洗脳されているのではないでしょうか? ”土地の匂い”とは、少し違う話かも知れませんが、以前、青森県の弘前城へ、桜を見に行った時、丁度、中学生の、お囃子のコンテストが行われていました。私は全く予備知識も無く、その現場に出くわしたので、詳しいことは分からないのですが、弘前市には、地域毎に、祭囃子を演奏する”社中”があって、その社中が更に、大人の社中と、学童の社中に、分かれて活動しているようです。 その日の課題曲は、岩木山にお参りに行った後、下山するときに演奏するお囃子だそうで、確か、50組前後のグループが、入れ替わり立ち代り、同じ演目を演奏していたのですが、その中にほんの1~2組、嫌でも体が動き出すような、絶妙なビートを刻むグループが居たのを、今でも良く覚えています。 同じ演目を、同じように演奏しているはずなのに、ごく限られた演者だけが、なぜか音だけで、聴衆を沸かせることが出来る。音楽の、とりわけ、民衆の”ハレ”の場で継承されてきた音楽の魅力、音楽の力というのは、そうした、記述や法則化が困難(恐らく無理)な、世界の中に、宿っているような気がします。 今では音源の入手はおろか、演奏の記録や歴史を辿ることさえ容易ではない、日本の古い民謡を、現代の”ハレ”の場の担い手であるクラブDJが、丹念に発掘しては、ダンスビートとして再編集する。 それは奇をてらった見世物というより、音楽的にはむしろ必然なのかも知れません。
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備忘録として(デッサン力)

丁度一年前に、秋葉原で開催された、DOMMUNE/KANDA INDUSTORIAL というイベントで行われた対談の感想で、フェイスブックに掲載した文ですが、備忘録として自分のブログにも残しておくことにしました。 今夜の収穫は、DOMMUNE/KANDA INDUSTORIAL 夜の部の、冨田勲さん(シンセサイザ音楽の世界的フロンティア。82歳にはとても見えない若さ!)と、松武秀樹さん(言わずと知れたYMOのプログラマ)を交えた対談。 冨田さんは、シンセサイザー作品を作るとき、なぜ(当時の機材では合成が極めて難しかった)現実の音を模した音で作品を作ったのかと司会者に尋ねられ、「音のデッサン力が必要だから」と語っていました。 (1970年頃には、現代音楽畑などでシンセサイザ等の電子音を使った作品が次々発表されるようになっていたが)デッサン力の無い人の作品は、音がグシャッとしてしまうと。冨田さんのスタジオでシンセサイザの扱いを学んだ松武さんも若い頃、自然音をオープンリールのテープに録音しては、それをスロー再生して、音の構造を"耳で"自分なりに解析したとのこと。 冨田さんは、「自分は前世紀の人間だから」と、謙遜していましたが、テクノ、ハウスが、まるで20年位、時計の針が止まったようになっているのは、正に、音のデッサン力の無い(デッサン力という問題意識すら無い)パフォーマーが、殆どだからでしょう。 対談の最後には、冨田さんと松武さんが、その場で、MOOG3で鐘の音を合成するという実演がありました。複数のオシレータで、倍音構造からマニュアルで作り、最後にエンベローブを被せて仕上げるという、まさに”デッサン力”が問われる達人技でした。
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さがゆき即興音楽ワークショップ

昨年秋のことになりますが、私は、ヴォーカリスト&ヴォイスパフォーマであるさがゆき氏が指導する、「第14回さがゆき即興音楽WS合宿」に、写真記録係として参加しました。 幼い頃からレコードや、親戚達の演奏でジャズに親しんださがゆき氏は、北村英治グループ、中村八代グループの専属ヴォーカルとしてプロのキャリアをスタートさせた後、ジャズのみならず現代音楽から邦楽まで、様々なジャンルのスペシャリストとの共演を通じて独自の表現論を形成してゆきました(彼女の経歴は下記の通り)。 http://www.aruma.be/profile.htm 即興演奏というのは、普通の音楽とは別種の、特別な表現様式であるかのように扱われることが多く、それ専用の学会を作る人達も居ますが、彼女が ”完全”即興 と語る即興は、様々な楽曲表現を生み出す根本原理とでも言うべき位置に置かれ、様式や技法を排した所に、時間芸術表現としてどんな本質があるのかが、厳しく問われます。 そのステージは、(ジャズミュージシャンによる即興セッションではしばしばあるものの)、クラシック音楽や、その延長である現代音楽における即興とは大きく異なり、演奏において、事前の約束事、規則の類(音階や和声、リズムなど)は全て排除され、演奏の開始・終了のサインすらありません(実際に、演奏者が観客と談笑している状態から突然、観客席から演奏が始まることもある)。 こうした自らの即興演奏に関し、彼女はしばしば弟子達に、「私の音楽の基本は全て、(完全)即興の中にある。」と語っています。実際、彼女のライブは、楽曲の様式で分類すれば、ジャズ、ブラジル音楽をはじめ多岐に渡ります。彼女が、自らの音楽に基本と語る完全即興をステージで披露するのは、年100回を超える彼女のライブステージの中の、1割あるかないかですが、声による即興が珍しくはなくなった現在も、彼女の卓越した発声コントロールと表現の幅広さは際立っています。 彼女の即興ワークショップではまず、自身の心のありように対して、目を開く大切さが指導され、次いで、心身の底から湧き出る、テクニックの披露ではない、表現者自身にとって必然性のある音(というより心身の動き)への自覚が促され、更には、音楽はもとより、武道も含む身体表現全てに通じるような基礎としての”グルーヴ”についての指導、セッションを通じての、共演者の音を聞きながら自らの応答をコントロールする(単に合わせるだけでもばらばらでもだめ)練習へと、指導は進みます。 その指導内容は、音楽というより、身体表現の指導と言っても差し支えないようなワークショップで、実際、これまでも、今回も、音楽以外の表現者(舞踏家、役者、パフォーマなど)が参加しているのですが、今回特筆すべきは、初日の夜、その場の流れで、即興セッションが、音を出さないセッションへと進んだ点ではないかと思います。 身体表現全てに通じるような彼女の音楽理念からすれば、当然起こり得る展開ですが、そうは言っても、毎回、ミュージシャンが大半を占めるこのワークショップで、音の無いセッションが成立したのは、今回が初めてでした。 (参加者からの感想とワークショップの模様を撮影した写真は、下記の通り) http://blog.goo.ne.jp/crescer_music/e/1400262d1fbf8025246f183e684537d9 http://blog.goo.ne.jp/crescer_music/e/6561bbe410d38f32951f4e0ee8198d4c かつての勤め先で、先天性高度難聴の子供達が、アニメの音楽に合わせて夢中で踊っている(彼らには音は全く聞こえず、かすかな空気の揺れと、床から振動として伝わる音楽のリズムしか感知できない)のを、何度となく目撃していた私にとっては、 人間にとっての、音楽の本質が、垣間見れた瞬間でした。 以下、参考ですが、さがゆき氏の即興パフォーマンスは、私の、YOUTUBEチャンネルにも一部収録されていますので、よろしければご参照願います。 https://www.youtube.com/user/THEMRSKYOU/videos
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短文投稿:科学の限界

日本音響学会誌(自然科学系の学会誌)2014年6月号の博士論文紹介に、「慢性期統合失調症患者に対する音楽療法介入の研究」という論文が紹介されていました。 要旨を見ると、 音楽療法は、精神機能、社会機能、認知機能における効果が存在するが、これらの効果は個人の音楽背景によって変化の仕方が異なっていた という、 言うまでもない、人類史上、恐らく一度も疑問視されたことのない常識(経験則)でした。 私も科学(Science)の教育を受けた人間なので、社会に広く浸透している経験則を、科学の方法で立証するのが如何に大変か(だから博士号が取れる)は知っていますが、 自然科学の、文化への貢献というのは、未だかくも稚拙なレベルに留まっているということを、科学に身を置く人間は、常に自覚しておく必要があると思います。 科学で立証できないことは、本当は「分からない」としか言えず、分からないことを率直に分からないというのが本来の科学ですが、 それを自覚せず、立証できないことを公然と、「存在しない」と言い切ってしまう、思い上がった研究職、大学教員、サイエンスライターの類を、私は信用しません。
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アーティストはミュージシャンより創造的なのか?

18世紀末の産業革命を機に、人類は自然の模倣や手仕事の蓄積から離れ、定規で引いた図面通りにモノを作る術を手にしました。抽象芸術も現代音楽もモダン・ダンスもコンセプチュアルアートも、その延長線、つまりは、頭の中だけで構築する抽象的な思考に特別な意義があるとする(ある時代特有の)価値基準に基づいて発展してきたものではないかと思います。 一方、20世紀後半以降、人類は環境問題を中心に、人間の「頭の中」の浅はかさを嫌というほど目の当たりにしてきたわけで、科学がそうであるように、表現行為においても、本来であれば、近代以降に発展した抽象的な思索や表現について、その発展の経緯を一旦俯瞰し、その必然性が問い直されるべき時代が、現代なのではないかと思います。 けれど、そのような吟味を経た上で、なおも”現代”あるいは”コンテンポラリー”と呼ばれる表現に道を見出そうとするのか?別の道を進むのか? を、自らの意思で選択した(ように見受けられる)表現者を、今の日本で見かけることはほとんどありません。 音の表現に関して言えば、”現代”とか”コンテンポラリ”とか名前が付くと、最先端のように聞こえますが、これらのほとんどは、1950年代から60年代に流行った発想に基づく表現で、ミュージシャンで言えば、バップやモダンジャズに拘っているジャズプレーヤー達と同様な立ち位置な訳です。しかし、ジャズの人達は歴史を学んだ上で、古いスタイルの踏襲を選んでいるのに比べ、芸術畑の人達の大半は、歴史を咀嚼することもなく無自覚に、最先端の表現に関っているつもりで居たり、普遍に意義のあることをしている気分に浸っているだけのように見えます。 20世紀の半ばまでに生み出された思考法や方法論を、半世紀以上だらだら踏襲する(大抵は手法の上っ面を真似るのみで踏襲すらできているのか疑問)行為をアートとか創作と呼ぶのが、果たして創造的なのでしょうか? ある時代の「アンチ」や「カウンター」も、かつてそれらが敵とみなした体制と、対抗していたから存在意義があったわけで、まったく違う時代に対の一方だけ取り上げても、未来に向けての発展性が、生まれる訳ではないでしょう。せいぜい、芸術業界という内輪で話が盛り上がって、多少のお金が内輪で回るだけではないでしょうか? 近年の生物学、とりわけ生態学や認知科学の研究によれば、人間も含めた全ての生物は、与えられた環境に適応しているのであって、自然界において普遍的な優劣というのは存在しないそうです。表現者(や評論家)もいい加減、時代と共に表現も「進歩」する(しなければならない)という幻想から目を覚ました方が良いのではないでしょうか?成長や進歩というのは、方法論や様式の問題ではなく、あくまで個人それぞれの生き様の問題だと思います。 音楽でも視覚作品でもパフォーマンスでも、過去の表現者(やグループ)の活動を、個人の生き様として、あるいはその当時の社会現象の一環として学ぶことには意義があると思いますが、過去の彼らの功績を、様式や方法論で括ろうとする発想は、歴史学や、大学教員や評論家を権威化するためには必要かも知れませんが、作品やパフォーマンスの切磋琢磨にとってはむしろ弊害でしょう。 それは表現行為に限らず、科学研究や技術開発でも同じだと思います。
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アートを追うばかりでは本物を見失う

先週の金曜日、久々に加藤崇之さんのエレクトリック即興ソロを聴きました。  即興と言っても現代音楽系のように無理矢理不協和音や無音階にこだわる訳でなく、フリージャズのように暴れまくる訳でもない。楽曲、和音、無音階、ノイズ(電気由来だけではない)、爆音が、シームレスに織り交ぜられながら展開する演奏。これらを使い分けているのではない、組み合わせるのとも違う。彼の頭の中で鳴り響く、多次元空間上の音楽が三次元空間に投影されている。そう思わせるような一体感。  この孤高の世界を聴けるのは、ソロの時か、さがゆきとの即興ユニット”シナプス”として演奏する時くらい。  こういう演奏を聴いてしまうと、コンテンポラリだのノイズ系だのインプロだのエレクトロニクスだの・・・カテゴライズされたパフォーマンスの不自由さを、実感せざるを得ません。カテゴライズすると、パフォーマ自身の発想が貧困でもそれをごまかせるし自覚しなくて済む。カテゴりに所属しないと居場所が作れないような人の舞台を用意したり、カテゴリ自体を用意したり、彼らが自分達の半端さを正当化する理屈(方法論、音楽論の類)を用意することで、自分の居場所をつくっている人達もいるし。  加藤さんはソロパフォーマンスでの、独自の表現をカテゴライズしないし”論”じない。だから自由で創造的。でも論じないからアート(芸術)畑で語られることはないし、彼の普段のフィールドであるジャズ畑の中でさえ語られない。  何か新しい表現が生まれた時、それを世の中に広めるためには言葉が必要。いちいち長い言葉で説明していたのでは広まらないからキャッチフレーズ(カテゴリ)も時には必要。でも、キャッチフレーズ(カテゴリ)が広まると今度は断片的な技法だけの模倣が横行して、創造的な努力を面倒くさがる連中が自分を正当化する道具に(カテゴリが)使われるし、そういう連中を増やして地位を得ようとする評論家だの指導者だの学者だのがどんどん出てくる。様式の呪縛から開放されるつもりが、新たな呪縛(志の低い人達にとっては居心地の良い逃げ場)をひとつ増やすだけで終わりがち。 (少なくとも日本では)、世の中の文化の中で最も先鋭的に精神の自由を追求する(からこそ存在意義がある)はずの”芸術(アート)”でさえ、カテゴリ(呪縛)の集合体だったりする。 だから(少なくとも日本では)、芸術(アート)ばかり追っていると、本物を見失う危険があると思います。たとえば加藤さんみたいな人を。
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”コンテンポラリ”の現場を知っている人達(その2)

1月13日のライブ終演後、出演者ナガイ・ショウコが現代音楽のプレーヤであることや、バークリー音楽院で、体系的な専門教育も受けたという過去から、話題は現代音楽事情へ。 会場となったライブハウス「エアジン」のマスター、梅本さんはかつて、交響楽団にトランペッターとして在籍し、武満徹ほか現代音楽の演奏経験も豊富。1960年代から70年代にかけては、実際にヨーロッパに住んでいたので、著名な作曲家と実際に仕事をした事もある人。 今では巨匠とされるシュトックハウゼンも、ヨーロッパで彼と仕事をした梅本さんの印象では”変人”。自分の作品上演で、とにかく自分がどこかに出ないと気が済まない人だったそうで、自作の演奏中に、パンツ一丁でステージの端から端まで歩いて行ったこともあるそうです。 今の日本では神格化されがちなジョン・ケージも、当時のヨーロッパでは特別著名な存在ではなかったそうで、梅本さんは、ケルンで彼と初めて仕事をしたとき、彼がアメリカ人であることも知らされず、彼のファーストネーム"Cage"の読み方が分からなかった(ドイツ語読みで「カゲ」かと思った)そうです。 その時の演奏で梅本さんの楽譜には、異なる音高の3つの音符だけが書かれたいたそうです。 そして、何の説明もなくリハーサル開始。梅本さんが譜面に書かれた音を「これかな?」と吹いて見ると、ジョン・ケージからダメ出し。「譜面に書かれた音は、出してはいけない音」だと言う。ところがこの譜面、実は五線譜の左側に何の記号(ト音記号など)も書かれていなくて、基準の音高が分からない。梅本さんが質問すると、ジョン・ケージは、「音の高さは演奏者が決めればいい」と言ったそうです。 つまり演奏者は、ジョン・ケージが指示したルールの範囲内で、自分の好きな音階を作れば良い訳で、梅本さんによると、この例に限らず、ジョン・ケージの作品には、(ある程度以上のスキルがある)演奏者をワクワクさせるような、魔法があったそうです。シュトックハウゼンの作品の中にも、音を出すパートの楽譜には何も書かれず色が塗られているだけ(どう音で表現するかは演奏者任せ)、"Silent"と書かれた楽譜が来たら、演奏のフリをする、という作品があったそうで、数々の現代音楽作品の演奏を経験した梅本さんの話では、面白い作品に出会ったときは、観客の存在も忘れて、演奏に夢中になってしまったそうです。 梅本さんによれば、1960~1970年代の途中までは、今と違って、現代音楽がまだ、様式化されてなかった時代だったので、演奏家はそれぞれ様々な表現を試み、作曲家も(特にジョン・ケージは)、自分が意図しないハプニングをむしろ喜んでいたそうです。もちろん、それまでの音楽の良識を覆す訳ですから、必ずしも観客に受け入れられる訳ではなく、演奏が終わる頃には殆どの観客が劇場を出て行ってしまい、わずかに残った観客から大喝采を浴びる、という結末も珍しくはなかったそうです。けれど作曲家も楽団も、劇場主さえも、それを良しとする空気が(少なくとも梅本さんが長く住んだケルンには)あって、現代オペラでは、舞台に戦場をあまりに生々しく再現したために、招待されたお年寄り(戦争経験者)が何人も、救急車で病院に運ばれるような公演(開演前から救急車を何台も待機させてある)もあったそうです。 梅本さんがヨーロッパに住んでいた1960~70年代は、このように、新しい、というより掟破りの演奏が次々試されていたそうですが、演奏家としての経験が必ずしも豊富でない作曲家にとって、自分が頭の中でイメージした音を演奏家に伝えるのは、実際にはかなり困難な作業で(作曲と演奏の分業化が進んだ20世紀後半は、その方が普通になってしまった)、作曲家と演奏家の橋渡しをしていたのが指揮者だったそうです。日本人で言うと、小澤征爾さんも、武満徹やジョン・ケージなど、現代音楽の作曲家と演奏家の橋渡しで活躍した一人だそうです。 今の日本では、ジョン・ケージはじめ、現代音楽に大きな足跡を遺した人達が神格化されがちですが(梅本さんもナガイさんも、”神格化”という言い方をしていました)、新しい表現が生まれる現場では、今では神様扱いされている人達も、あれやこれやの試行錯誤を(時には奇行も)繰り広げていたようです。考えてみれば、どんな分野でも、創造の現場というのはそういうものですが、一度何らかのスタイルが市民権を得てしまうと、現実に起きていたことは忘れ去られ、神話が生まれるのは、分野を問わず世の常なのかも知れません。 ナガイさんの話では、いわゆる「ジョン・ケージおたく」(ジョン・ケージの業績の記憶や記録の収集や作品再演に夢中になる人達)はアメリカにも少なからずいるそうですが、そうした、形として残った部分に熱中する活動は、創造や、芸術精神の継承とは、ちょっと違うのかも知れません。
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”コンテンポラリ”の現場を知っている人達(その1)

昨夜(1/13)横浜のライブハウス”エアジン”で行われた、Marcos Fernandes, ナガイ ショウコ, さがゆき の3名によるセッションは、日本では滅多に無いかも知れない、音楽性豊かな コンテンポラリ・ミュージック(現代音楽)のライブでした。 日本で”現代音楽”と言うと、”音楽”と呼ばれている表現に接して得られる感動を、わざわざ否定するような表現を崇めるような風潮もありますが、ニューヨークで、ピアニストとしての演奏や映画向け作曲の傍ら、現代音楽分野の作曲・演奏(実演)を続ける ナガイ ショウコの作品演奏が中心となったこの日のライブは、ジャズ(特にフリーインプロビゼーション)や民族音楽(邦楽のような堅苦しい上流階級の音楽ではなく祝祭で民衆を沸かせるような音楽)を楽しむようなノリで、そのまま楽しめそうな内容でした。 ”作品”の演奏ですから当然、譜面はあったのですが、作曲者のナガイ以外の二人にとっては本番でステージに立って初めて見る譜面。要するに、敢えてぶっつけ本番で演奏に望んだのですが、譜面の指示に従って演奏しているような堅苦しさが微塵も無い、卓越したジャズメン達の即興のような、緩急自在かつなめらかな展開。 作曲者のナガイは、演奏技能が卓越している上(その時点で、クラシック崩れで現代音楽に逃げてきた連中とは大違い)、どんなにトリッキーなことをしても激しい音を出しても、視野狭窄に陥るような息苦しさが微塵も無く、常に開放的でおおらかさえ感じさせる演奏。それは恐らく共演者の一挙一動に反応するセンスが卓越しているせいもあるのでしょう。演奏が始まる前、ピアノにいろいろ”プリペアド”な仕掛けがしてあったので、何かまた小難しくてクソおかしくもないことやらかすんじゃないかと、個人的には内心気になっていたのですが、結果的には全くの杞憂でした。 (1st. ステージ終了後、ピアノの仕掛けをよく見た所、離れた所に張られた(音高がかなり異なる)2本の弦を、それぞれ、フレキシブルな金属アームの付いたクリップでつまみ、金属アームの反対側には圧電素子らしき円盤状のセンサ付いていました。その圧電素子らしきセンサの出力が(恐らくシリーズ接続された)2台エフェクタボックスに接続されていて、クリップでつままれた弦が振動すると、パーカッションのような音が出力される仕掛けになっていました。) ヴォイスのさがゆきは終始、まるで彼女が普段やっている完全即興(Abstract)のように柔軟で自由な表現。本人曰く、若い(スタンダードジャズ専業だった)頃、先輩から、譜面を一度目を通しただけで頭に叩き込む(さがゆき曰く”3秒ルール”)という荒行を仕込まれたおかげで、ぶっつけ本番には慣れているとのこと。実際には、声ばかりか、(恐らくは譜面に記載されていないであろう)持参した鳴り物の数々を駆使しながらの、つまり初見の上にアドリブを交えてのヴォイスパフォーマンス。 この日はパーカッション、というより、各種鳴り物担当だった Marcos は、自身が前面に出ることはせず、ピアノとヴォイスとをなめらかにつなぐ潤滑油役に徹したプレイ。この3人が初顔合わせ、かつぶっつけ本番であるにも関わらず、絵画に例えれば必要にして十分な余白を残しながらの背景描写。 生演奏家としての表現力に富んだプレーヤ達によるコンテンポラリは、コンテンポラリだからと言って、特別な聴き方や予備知識が求められる訳ではない。人の手で演奏される必然性のあるコンテンポラリというのは、そういうものだということを、再認識させられたライブでした。 そして本番終了後、 現在一時帰国ツアー中のナガイ・ショウコが現代音楽を志向しているミュージシャンであることや、バークリー音楽院で、体系的な専門教育も受けたという過去から、話題は現代音楽事情へ。かつては交響楽団にトランペッターとして在籍し、ヨーロッパでの現代音楽演奏経験も豊かな、エアジンのマスター梅本さんの昔話が、これまた面白い話ばかりでした。 その2へ続く
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オーディオはなぜ衰退したか(日本メーカーは自滅した)

私が週替わりで作品を出品しているギャラリーでの雑談で、先月亡くなったスティーブ・ジョブスの話題からiPodの話、そして音楽談義へ。 Apple社のiPodの世界的普及で、若者が質の低い音で満足するようになり、音楽文化が衰退したと、Appleを批判する人は多いけれど、それはApple のせいではなく、iPod が世に出る前から、音楽業界が流通させている音楽の方が、せいぜい数百kbps 程度の音質しか必要としない内容になってしまったから。Apple社は現実に流通している音楽の質にあわせた商品を作っただけ。 CD、更にはネットワークオーディオの普及で、アルバム全体で完結するような作品が作れなくなったと言う人も多いけれど、それはメディアのせいだろうか? 確かに1960年代半ばから70年代までは、作品としてのアルバムが数多く生まれたかも知れないけど、その後は? フォーマットとしてのアルバムは残ったけれど? 考えて見れば、”アルバム” で音楽ビジネスが動いたのは、1960年代半ばから、せいぜい80年代はじめまでで、その前も後も、音楽ビジネスはシングルヒット狙い中心だったのでは? iPodを批判するような人達の言う「いい音楽」を放棄したのは、ほかならぬ音楽業界の人達だったのでは? 私がかつて勤務していた日本のオーディオメーカーでも、「いい音」「本物の音」が売れなくなってきたと嘆く先輩社員は多かったけれど、彼らはそもそも、彼らの言う「いい音」のステレオに相応しい音楽を流通させ続けるために、何か努力をしていたのか? それ以前に、音楽を理解する努力をどれほどしていたか?「それはメーカーの仕事ではない」と、自分達が食べて行く上で欠かせない市場の活性化に、知らん顔していた結果ではないのか? 昔、「音楽は本来生で聴くもの」という観念が言うまでも無い常識、と言うより、それ以外の観念が存在していなかった時代、オーディオメディア(ラジオ、テレビ、レコード、テープ、そして黎明期のCD)は生演奏を楽しむ代替として存在していた。だからモノラルよりステレオ、更には4チャネル(今で言うサラウンド)が良いとされ、再生周波数大域も広ければ広いほど良いとされた。 けれど現実には、高々数個のスピーカで”生”が再現出来る筈もなく、音楽メディア制作の現場は常に、(生演奏の再現ではなく)創作の現場だった。 メディアに記録(またはメディアで伝送)される音楽はあくまで、生とは別の創作物であり、制作者の表現。 そのことを、日本のオーディオメーカーの人間達がどれほど自覚していたか? 自分の作った物が、メディア制作者の表現を、責任を持ってリスナーに届けられるものなか? 果たしてその問題意識を持っていたのか? メディア制作者の表現意図を理解しようとする姿勢が、いったいどれほどあったのか? 理想論で言えば、例え数千円のラジカセでも、その責任から逃れることは出来ない。 与えられたコストの中で、表現を伝えるために何をすべきか? の問題意識があったか? 少なくとも建前の上では、オーディオ装置の意匠デザインも、メディア制作者の表現を伝える媒体でなければならなかったはず。 少なくとも私の就職先は、私が就職した時点で、既にそんな問題意識は無く、メディア制作者の意図などお構い無しの、技術者の私的なこだわりがはびこっていたのみ。 それが明確にわかるのは、海外(特に欧州)ブランドのオーディオを聴いた時。彼らには明確に、オーディオ装置ではなく、音楽に対する造詣がある。だから信号処理の殆どがディジタル化されても音に個性のあるブランドが少なからず残る。BOSEの設計の割り切り方など、見事と言う他ない。生演奏に精通していなければ、あんなに思い切った見極めは出来ない。 日本のオーディオ業界は、音楽に対する尊敬を失ったが故に衰退した。自滅だと思う。 それを、あれやこれやのビジネス環境のせいにしている間は、創造的な商品など生み出すことは出来ないだろう。

山下達郎さん(誠意・節度のある大人とは)

今日(正確には昨日ですが)、山下達郎さんが、朝からTOKYO FMの殆どの番組にゲスト出演していました。 6年ぶりのニューアルバムのプロモーション企画だそうで、私は午後2時過ぎから番組を聴き始めたのですが、山下さん自身のトークの内容は、ほとんどアルバム以外の話題、それも番組毎に違う切り口、山下達郎ファンに限らず、幅広いリスナーにとっても非常に面白い内容だったと思います。 午後の番組「シナプス」では、洋楽作曲家オタクを自認する山下さんの面目躍如な話題の数々。手持ちの音源をデータベース化するため、定期的に人を雇って入力作業をしなければ間に合わないほど、今もひんぱんに音源収集を続けている話や、(音質にうるさいので)他社スタジオへの出入りが禁止になっている話、過去2回ほど、音質の不満で工場を止めた(レコード盤の工場?)武勇伝などなど。 「シナプス」では時には笑いも取ってリスナーを楽しませてくれた山下さんですが、夕方の報道番組「Time Line」では一転して(と言う書き方は大変失礼ですが)、社会人としての理性的なコメントに徹していたのが印象的でした。 いわゆる”識者”や評論家、マスメディアの論説委員等にありがちな、批判だけ好き放題した挙句、「ではどうすべきか」には言葉を濁す無責任な言動とは対照的に、具体的な事件・事故への言及は避けながらも、 「大きな災害や事件に巻き込まれなくても、人生には様々な悲しみや苦しみがあるし、それは他者の苦しみと比較できるものではない。」と、世の中の出来事をどう受け止めるべきかを、上から目線ではなく、自分を例に語る姿が印象的でした。 「社会は変わり続けるもの。それをどう受け入れるか。」、「(暴動や震災のような)大きな変化があれば音楽も必ず変わる。自分達の音楽も、やがてはビートルズ以前の昭和歌謡のように見られる。そうなったとき、如何に自分達の音楽とリスナーをつなげて行くか?」「音楽の楽しみ方が今のように(LPやCDから、YouTubeやiPhoneなどの、無料も含むネット配信中心へと)変わることは分かっていたので、数年前から対応できるように準備していた。」 など、社会の変化を、避けられないものとして受け入れざるを得ないとの発言が多かった一方、 「自分にとって興味があるのは、今でも生身の人間だけ。それに一番近いものとして、今でもラジオ(放送への出演を)大切にしている。ツイッター(等のネットメディア)はヴァーチャルな感じがする。」 と、(自分の仕事を社会の変化に適応させつつ)自身のブレない立ち位置をきっぱり語っていました(Web2.0だのFacebookで世界が変わるだの浮かれている”識者”達とは対照的に)。また音楽と社会との関わりについては、 「音楽で世の中が変わると思われていた時代もあったけれど(特にロックでは)、音楽にそんな力は無い。これからは、音楽本来の役割(一人ひとりの心に語りかける)が期待されるようになる。音楽にとっては良いこと。」 と、やはり、ブレない立ち位置を大切にする姿勢を語っていました。 午後10時から放送された「SCHOOL of LOCK」でも、大人としの見識ある、なおかつ決して上から目線にならないコメントが続きました(この番組は中学・高校生向け)。 この番組で山下さんは、自分が所属するレコード会社の若手の曲を紹介しながら、「自分の世代は、音楽自体に影響力があったせいもあり、音楽で何をやりたいかがあいまいなまま、ミュージシャンになったが(自分自身も含めて)、最近の若手は、音楽で何を伝えたいかがはじめからはっきりしている」と、若手の音楽に対する姿勢について肯定的にコメントし、自身が好んで聴く邦楽は、ロック(それもかなりハードな)が多いという、山下さん自身のアルバムの内容からは想像しにくい一面も披露してくれました。 更に山下さんは番組の中で、現在社会の親子関係について、「自分が若者だった時代と比べて、親子(の世代)が語り合うのが容易で、良い時代になった。音楽も、広い世代に共有されるようになった。自分が若かった時代は、親世代からは決して理解されなかったし、自分達も、大人を信用できないと思っていた。」と、肯定的に評価していました。この見解には、おそらく批判もあるでしょうが、こうした発言は、山下さん自身が、彼らの親世代とは一線を画した価値観で、仕事だけでなく子育てもこなしてきた自負の表れという面も、あるのではないかと思います。 番組の終盤近く、山下さんは、「青春とは、無限の可能性」と語る一方、視聴者(10代)からの、「幸せとは、具体的に何で​すか?」という質問には、「自分って、この位。 と許せること」と答えていました。「夢は必ず実現すると言う人も多いけれど、世の中そんなに甘くない。自分に言わせれば夢はほとんど​が実現しない。夢が実現しなかったとき、どうするか?」だとも。 許すということは、「許さない」「責める」という選択肢もあ​ったということ。換言すれば「この位」ではない自分になれた可能性を認めた上での「許す」であって、努力もしないで現状を容認するのとは大違い。 山下さんは、40年近い音楽家活動の中で、ビジネスとしてのえげつない部分に向き合わなければならない場面が、少なからずあったことを、はっきり認めた上で、(それでも)音楽を嫌いになった事が一度も無い自分は幸せだと語っていました。 夢(と言うより憧れ)を決して捨てず、なおかつ結果や過去には固執しないことで、前向きな精神を保つ。山下さんのこの日のコメントからは、そんな生き様が見えてきます。 世間では、「夢=ビジネスでの​成功」を暗黙の前提に、若者に経済競争をけしかける無責任な大人が珍しくありませんが、山下達郎さんは、ビジネスの世界では間違えなく成功者の一人である一方、大方の大人とは一線​を画した、節度と誠意のある人ではないかと思います。

ビートルズとストーンズとヨーゼフ・ボイス

今、私が週替りで作品を出品中のギャラリー”Factory CORE”で、主宰の村松氏と雑談をしていたときのこと。 村松氏曰く、ビートルズとローリングストーンズのライブ映像をYou Tube で片っ端から見た挙句、ローリングストーンズが今なお現役で、ビートルズが71年に解散してしまった理由が良く分かったとのこと。 なぜか? ローリングストーンズのライブでは、観客が音楽を聴きながらバンドと一体になっているのに対し、ビートルズの観客は(全員がそうではないのでしょうが)音楽そっちのけで喚声を挙げるばかり。 ビジネス上の成績でも、知名度でも、音楽シーンへの影響の大きさでも、ビートルズはローリングストーンズより遥かに上。けれど、どちらのグループが、音楽をやるためのバンドとして上手く行ったのか? ビートルズのメンバーは解散後、各々の道を進み、特にオノ・ヨーコと再婚したジョン・レノンはメッセンジャーとしても世界から注目され、大きな屋敷と多くのスタッフに恵まれ・・ けれど、豪邸とは別に、ダウンタウンにアパートを借りて暮らすことになり、ジョンはそのアパートの暮らしで命を落とす。 方やストーンズは、歴史に残るようなメッセージは遺してないけれど、良くも悪くもメンバーが各々の生き様を晒しながら年を取り、日本の基準では”高齢者”と呼ばれる歳になってもロックンロールをやり続ける。 「どちらの生き様が、アーティストなのか?」 村松氏は問いかける。作品という結果より、リアリズムを芸術の核に据える村松氏の答えはもちろんストーンズ。 ジョン・レノンが手に居れた邸宅などの財産については、「結局金に縛られた」と言う。確かにそうかも知れない。 改めて思う。 芸術家(アーティスト)の存在価値とは何なのか?世界を変えるようなメッセージを出すことなのか?出さなければ価値が無いのか? メッセージが大事と言うなら、個人が誰でも普通のパソコンショップで売っているデジタル機器で、世界に情報発信できる現在、ジャーナリストや様々な問題の中で働いているNGO(NPO)の人達の方が、アーティストよりよほど発信力も説得力(痛切さ)も普遍性もある。わざわざアートの道具を揃えなくても、自分達が、日常で使うツールで世界にメッセージを送れる。語学が不得手ならデジカメで撮った絵を使えばいいだけのこと。心を伝えるなら言葉にならない声でいい。 村松氏との話題が音楽から「アーティストとは?」という話に移った折、一年ちょっと前に見た、ヨーゼフ・ボイスの回顧展の話をしてみた。 http://hiroshi-s.at.webry.info/201002/article_1.html http://hiroshi-s.at.webry.info/201002/article_2.html http://hiroshi-s.at.webry.info/201002/article_3.html 私の理解では、ボイスの語った「拡張された芸術」の、非常に分かりやすい具体例が正に、彼の死後一般に広く知れ渡った、各種NGO(非営利団体)の活躍や、ビデオジャーナリスト、そしてインターネットの一般解放後、ホームページやブログ等を通じて社会に自分の活動や思いやアイデアを発信するようになった無数の個人活動であり、その結果、作品を作るという行為の価値が、改めて厳しく問われているのでは?という思いがあったので、 村松氏に、「ボイスの言った、”拡張された芸術概念”というのは結局、当時のアーティスト達への批判だったのではないか?」と言ったところ、村松氏からは、「彼は(当時の芸術家達に)”喝”を入れたんだよ」という応えが返って来た。 社会を変えるためならば、具体性のあるメッセージを発信するためなら、芸術作品(ましてや現代芸術の)よりも、はるかに望ましい行動がいくらでもある。芸術はそのためにあるのか? そもそも芸術は、「変える」とか「メッセージ」とか、成否や優劣で評価され結果を目的に行うものなのか?結果的にそういう評価が与えられることはあるにせよ。 今、世間で「芸術」と言われている行動は、妙な結果目当てになっていないか?だから、既にジャーナリストが何度も語っているようなメッセージを、後出しじゃんけんのように受け売りして芸術のフリをしている奴らが大きな顔をしたり、アートマーケットというニッチな市場で商業上の成功を納めたビジネスマンの、普通ならビジネス誌のネタになるような成功事例が、あたかも日本を代表する芸術家であるかのように祭り上げられるのではないか? その結果、芸術(というより表現という行為全体)がますます社会から孤立し、芸術に携わる人達自身の首を絞めている(要するに自殺行為)のではないか? 個人的には、芸術とは、そういう結果を出す原動力になる、個々の「生き様」を尊重する社会を支えるものだと思っている。「甘え」や「わがまま」ではなく、こうすればウケるとか話題になるという結果を期待した「生き方」でもなく、個が背負ってきたものを隠さず、そこから逃げもせず正面から向き合う「生き様」。少なくとも自分にとって、作品(写真)を作り続けるのは、自分の中にある借り物の固定観念をそぎ落して、背負っているものを確認するため。歩き始めたばかりだし、そぎ落とした末に、残るものがあるかどうかも分からないけれど。
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1/25追記:恐るべき新世代

昨夜、斉藤ネコカルテット(通称ネコかる)のライブを聴きに行ったときのこと。 リーダーの斉藤ネコさんが、客席から強制的に舞台に引っ張り上げた女子大生(ネコさんの後輩)二人、とんでもない子達でした。 ゲスト出演のさがゆきがステージでインプロヴァイゼーションを始めれば、すっとその中に入って行く。それも、さがゆきの即興ワークショップに参加する生徒達のレベルではなく、さがゆきのライブの共演者レベルで。ピアノの子は難無くさがゆき(ジャズ系ヴォーカルの中でも際立って譜面から自由な表現で歌う)とネコさん(クラシックからヘビメタまで百戦錬磨)とでジャズトリオの演奏をしっかりこなす。ヴァイオリンの子はさがゆきの「5月の風」を、初見にもかかわらず 、さがゆき特有の音の持って行き方を先読みするようなソロを展開。 ネコさんからは終演後、「(二人共)もっとちゃんと歌を聴きながら演奏しなくちゃ駄目」とダメ出しを食らっていた二人ですが、ネコさんが社交辞令でごまかさず、思わず本気で指導してしまったほどのポテンシャルの高さ。 ヴァイオリンの子は強弱の繊細なコントロールに長け、ピアノの子は間の取り方を見極める直観力が長けている。 (ヴァイオリンの子は、ソリストのコンクールに何度かエントリーした経験がある様子で、ネコさんはクラシックの世界から足を洗おうとしていた彼女をたしなめていた。クラシックの世界とそれ以外の世界の両方で結果を出せと。) 終演後、彼女達は早速さがゆきにスカウトされました。 http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=28777&log=20110122 http://photozou.jp/photo/show/597739/65022249 1/25追記:彼女達とさがゆきの初回ライブは、3月11日(金) 二子玉川のバー「ライラ」で開催決定        http://lialeh.net/ まだ駆け出し、のポジションにすら立ってない子達の中でこういう人材が出てきてしまうと、ライブ通いしてる人なら誰でも知ってるあの人、この人・・名前は挙げませんが、ベテラン勢の恐らく半分以上は居場所を失うでしょう。 私が去年の8月に新宿ピットインで聴いた、世界的に活躍中(という触れ込みの)女性ピアニスト達など、表現力(描ける世界の広さ)では今夜舞台に上げられたピアノの子の足元にも及びません。 最近は、ジャンルを問わず、ものすごい力を持った若手がライブシーンに登場し始めているようで、日本の若者達の音楽的ポテンシャル(潜在能力)が、もの凄い勢いで底上げされて来ているのかも知れません。ライブハウスのオーナーや、音楽業界を仕切っている人達に音楽を聴く耳があるのなら、あと10年もしないうちに、日本の音楽シーンの主役は、どのジャンルでもすっかり入れ替わると思います。 ちなみにこの日の主役である斉藤ネコカルテットの演奏ですが、ネコさんにとっては一番やりやすい客の入り(かつ客層)だったようで、オープニングからやりたい放題。 ひたすらユルユルでサムいMCがだらだらと続き。客席が静まりかえれば「こういう空気好きだな~」と言い放ち、演奏もひたすらユルユル。 ですが、このユルさが曲者で、全て意図的にコントロールされたもの。並大抵の演奏技能では洒落にならない構成。そして、ゲストが参加する2nd.ステージは正攻法で本領発揮。ネコさんのライブでは毎度のことらしいですが、ネコさんのライブは本番前、出演者達がやるのはリハーサルじゃなくて宴会。本番は初見演奏当たり前。それでも決めるとなったらきっちり決める演奏。 かなり洒落の分かる人向けのライブですが、クラシック音楽業界の第一線で活躍している人達が、クラシック音楽の固定観念から自由になると、どれだけ凄いか、というのが良く分かるライブでした。
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エレクトリック新世紀

昨夜、渋谷のバー Isshii のライブで、さがゆきと共演した坂口光央、只者ではないです。 電子音専門のプレイヤーで、さがゆきの即興について行けた人間はこれまで一人もいなかっけれど、彼は反射神経でも描く音世界の多彩さでも、彼女に一歩もひけをとらない。 普通、あれだけたくさん電気製品をつなげてしまったら(キーボード+エフェクタ類数台+カオスパッド・・)即興では逆にそれが足かせになって、決まったパタンの組み合わせで場を持たせるのが精一杯になってしまうのだけど、彼はまるで、1000ccのバイクを、自転車のように乗りこなす感じで電子音を操作していた。生演奏でここまでフットワークが軽く、なおかつ多彩な音世界を描ける電子音プレーヤは風の噂ですら聴いたことがない。 一方さがゆきも、かなり久しぶりに、全編エレクトリックを駆使した完全電子即興。フットペダル一体型のマルチエフェクタ一台だけで、ここまで多彩な音世界を描けるアーティストは、恐らく世界で彼女だけかも知れない。もちろん、音源であるヴォイスの表現力が卓越しているからこそ成し得る、独創的な音世界なのだけど、スタジオ制作の作品でも、彼女の電子即興ほど奥行きのある世界は聴いた記憶が無い。 残念ながら、現時点で坂口光央のホームページに収録されている彼の作品を聴いても、昨夜の彼の素晴らしいパフォーマンスの片鱗は、あまり感じられない。きっと、今まさに育ち盛りのアーティストなのだろう。 というわけで、こういう若手のパフオーマンスを聴いてしまうと、テクノやらエレクトリックとやらの世界も、世代交代したんだなあと、つくづく感じます。昔の評判で仕事をしているような人達、今更90年代のパフォーマンスをお手本にしているような人達は、早晩居場所がなくなるでしょう。ここまで様々な電子楽器やエフェクタ類が普及した今、テクノとかエレクトリックとか、そういうジャンル自体が、もう存在価値を失っているのかも知れません。 ちなみに、昨夜のライブ終了直後、早くも2人(さがゆき+坂口光央)のユニット名が決まりました。その名は 「たたみ」 http://photozou.jp/photo/show/597739/58640175
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神戸・大阪 小旅行

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先週の木、金、土曜日、さがゆきのライブ応援と、日本サウンドスケープ協会事務局訪問のため、神戸と大阪に行ってきました。  まだ紅葉には早い時期ですが、高い所へ行けば少しは色づいた木が見れるだろうと、木曜日の昼は六甲山をうろうろ。金曜日の昼は、新神戸ロープウエーで布引ハーブ園まで上がり、そこから尾根伝いに徒歩で摩耶山へ。布引→摩耶山はのんびり歩いても2時間弱ですが、かなり急なアップダウンが続く道で、かなりいいトレーニングになります(おまけに私は標高が低い方から高い方に向かっていた)。 道中で撮った写真はこちら。好天に恵まれたので、きれいな写真が撮れました。 http://picasaweb.google.com/skyoukai/EarYAutumnInRokkoMountainsBehindKobeCityJapan#  土曜日の昼は、午前に大阪駅周辺の新しいビルを見て回り、昼からは日本サウンドスケープ協会事務局長の案内で、JR鶴橋駅周辺の商店街散策。ここは終戦直後の闇市から発展した商店街だそうで、生活に必要なものは何でも揃いそうなくらい、多種多様な商店が軒を並べていました。  毎朝伊勢志摩から、近鉄のチャーター列車で運ばれて来るという、鮮魚が並ぶ生鮮市場の他、在日韓国(朝鮮)人の人たちが今でも大勢住んでいるせいか、チジミやらキムチやら、その他、煮込んだか何かに漬け込んだらしい蟹とか、おいしそうな食材を売っている店もたくさん(もちろん焼肉店も)!!  1~2ヶ月くらい、この商店街だけで外食したり食材の買出しを続けても全く飽きないんじゃないかと思います。 土曜日に撮影した写真はこちら http://picasaweb.google.com/skyoukai/TwoFacesOfOsakaCity# 最後の2枚は、日本サウンドスケープ協会の事務局オフィスに残っている”へっつい”。昭和初期、都市ガスが普及し始めたばかりの頃の台所です。  ところで夜の部、さがゆきのライブツアーですが、共演者は前半(11/3,4,5)が清野拓巳、後半(11/6,7)が小室等という、さがゆきのライブツアーならではの対照的な人選。  清野さんはしっとりした端正な演奏から、楽曲表現の限界を極めるような奔放な表現まで自由自在の人。その上どんな表現でも一貫した美学に貫かれている人。一方の小室さんは、誰もが安心して聴けるオーソドックスな演奏、と思いきや、実はかなりマニアックなコード進行を忍ばせていたり、分かる人には分かる演奏。  そして二人共、さがゆきと共演するときは、ほぼぶっつけ本番、実質的に即興演奏(ステージの上で演奏曲決めたりしている)。11/6の、小室さんとさがゆきのデュオでは、出演者がホールに入れたのが開場30分前だったとのこと。楽曲であっても、インプロヴァイゼーションのライブと同じく、ステージに立ってからのインスピレーションでコンサートを成立させてしまうのが、さがゆきライブの真骨頂。今回の関西ツアーでも、きっちりインプロ魂を発揮してくれました。
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ジャズの難しさ

ロックバンドなら、ドラムとベースのノリが合ってりゃ何とか聴ける。ドラムとベースの刻むビートがしっかりしていれば、他の楽器(ヴォーカルも)はその上で踊っていればいい。 けれどジャズバンドはそうはいかない。リズムセクションにピアノが加わるから。 ドラムとベースとピアノと、3人のグルーヴが合ってないとサウンドがぎくしゃくしたり、グルーヴがつぶれたフラットな演奏になったり。今は日本にも、「本格的」と呼ばれるジャズバンドがいくらでもあるけれど、ちゃんとグルーヴが出せるバンドは、どれくらいあるのでしょうか?譜面を上手にこなすという意味ですごいバンドや、往年のスターのスタイルを地道に踏襲しているという意味で本格的なバンドは沢山居るのだろうけれど。 私が、さがゆきのライブの他は、ジャズをほとんど聴かない理由は、そんなところにもあります。 あるイベントに、さがゆきと、ギターの潮先郁男さんがゲスト出演したときのこと。曲の冒頭はさがゆきと潮先さんのデュオでとてもいい感じでした。途中でドラムが入ったときも、グルーヴが崩れずにいい感じでした。なのにピアノが入った途端、潮先さんのグルーヴなどお構い無しに先走るもんだから、サウンドが台無し。その上ベースもピアノに引っ張られ、遂にはドラムも引っ張られ、思い切りありがちな(いわゆる夜店系の)ジャズ演奏に・・・ そう言えば、デヴィッド・ボウイが「グラムロック」をやっていた頃のアルバムに収録されているピアノの演奏はなかなか良かったです。確か、マイク・ガーソンというジャズ出身のピアニストでした。
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私も録音手伝いました:Heinz Geisser新作発売中!

画像 先日、1年半ぶりに来日し、エアジンのライブで友人のさがゆきと共演したドラマーの Heinz Geisser から、新作のCDをプレゼントされました。ありがたいです。 「佐藤さんにも録音手伝ってもらったから」と。このCDは昨年の4月、Heinz と、さがゆきと、加藤崇之さん(gt)と、林栄一さん(as)で演奏した即興セッションを収録したもの。私は、ハインツのレコーダの操作をしただけ。と言っても録音レベルは概ね調整済みで、私は入力レベルがクリップしていないか監視していただけ。 なのにハインツは、CDのジャケットに、録音担当として私の名前をわざわざ入れてくれた。 その上、終演後の打ち上げでは、 「前回作ったCD(私のレコーダで私が録音)は、発売元のミスで、佐藤さん以外の名前が(録音担当として)入ってしまって申し訳なかったけれど、今回は大丈夫」 と、前回発売したCDジャケットのことにも気を遣ってくれていた。 私は(レコーディングについては)単なるアマチュアなのに。 Heinz Geizer はほんとにきちんとした人。何か仕事上で問題が起きても、人前では相手のことを決して悪く言わない。 自分もきちんとしなくちゃ。政治に国境はあっても、人間に国境は無いです。 Heinz Geizer の新作タイトルは "On Bashamichi Avenue"(録音会場のエアジンが横浜馬車道通りの裏にあるので) http://www.leorecords.com/?m=select&id=CD_LR_583 既にレヴューも出ています(下記参照:英訳付) http://blog.monsieurdelire.com/2010/10/2010-10-04-541-4-25-on-bashamichi.html Heinz Geiser のプロフィールはこちら http://www.geisser.com/b.aspx?b:0=EF99D456-7CE2-4C9E-8B2C-F14FEF8BBA09:x7AAB,.vT&b:HO=69C3B259-EF2A-4830-B189-729B133A940C
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全ての身体表現に通じる根幹(さがゆきWSレポート)

下記は、去る7月4日に、門仲天井ホールで開催された、、「第10回さがゆき完全即興ワークショップ」のレポートです。このたび講師のさがゆき本人より、レポート公開の承諾が得られましたので、ワークショップの模様を記載したレポートを、一般公開いたします。 1.はじめに  第10回を迎えた「さがゆき完全即興ワークショップ」は、いつものことながら多彩な顔ぶれの参加者が集まっていた、歌を歌う者、楽器を演奏する者はもちろん、即興詩人、舞踏家、幼児、そして筆者も今回は、記録係ではなく、即興フォトグラファーとして参加するよう、講師のさがゆきから指示された。受講生は約30名。そのうち男性は筆者を入れても10名ほどで、女性が多かった。 2.オープニング  オープニングは、これまで筆者が見学した第6,7,8回目の「さがゆき完全即興ワークショップ」とは異なり、準備運動からのスタートだった。参加者はおのおの発声練習をしたり、楽器のチューニングをしたり。床でストレッチを始める受講生も。そのうち講師が率先して場内を歩き回ったり床に寝そべったりのリラクセーションを始め、同じく床に寝そべる受講生が一人、二人と増えて行った。  準備運動が一段落すると、次は講師の指示で、各自その場で一斉に全力駆け足。このとき既に、数分後の講師の指導を先読みするかのように、素足になっていた受講生数名。素足になっていたのは全員女性。数十秒ほどの駆け足に続いて講師はその場で寝そべるように指示。しばらくすると立ってまた駆け足。そしてまた寝そべる。床に寝ている受講生に対して講師は「五感をフルに味わう」ように指導。聞こえて来る音、漂う匂い、床の感触、温度、隣の人の体温・・・など味わいながら、各自気が済むまで床に寝ているようにと、受講生達は指導され、全力駆け足のスタートから10分ほど経過した頃、全員が床を離れた。そのあと講師は、五感だけに意識を向け、感じ続けることの難しさと大切さを語った。感じた事に、良し悪し(好き嫌い)の判断を加えてしまうのは思考であって、感じる事そのものではない。考えるのではなく、ひたすら感じ続けることが大切なんだと。 3.即興演奏体験  続いてのプログラムは、このワークショップでは恒例になった、暗闇の中での即興。「自分の音を出したくなったら出す。他の人の出す音を感じながら。ただし他人の音に合わせるのではなく。そして音を出すのを止めたくなったら止める。ただし周りの人に合わせてではなく。」という講師からの指示を受けてスタート。 これまで筆者が見学したワークショップでは、このプログラムは数分から高々10分程度で終了したが、今回は30分ほどの長丁場。実際、音が途切れる場面はほとんどなく、受講生達が入れ替わりたち替わり音をだしていた。ここで大活躍したのが、今回の受講生中最年少、5歳になったばかりの女の子Iちゃん。大半の受講生の出す音が、各々ほぼ決まっていたのに対し、Iちゃんは父親が持ってきた様々な鳴り物を代わる代わる演奏?するだけでなく、体も使って全身表現。受講生の一人として参加していた父親が、彼女を退屈させないように小まめに面倒を見ていた点を差し引いても、なかなかの発想力。さすが、講師のさがゆきが「この子は私が共演したアーティストの中で最年少だから」と招いただけのことはある。  30分に渡る即興体験の後は、講師さがゆきが長年実践してきた「完全即興」の精神を凝縮させた、短くも中身の濃い講義。「魂レベルで気持ちが良いとはどういうことか」ついて。自分の出している音が、本当に魂が必要としている音か? 流されていないか? イージーな気持ち良さ(パターン化)や、何か(既存のスタイル)をなぞる気持ちよさは、「魂レベル」の気持ちよさではないと講師は語る。「普段は思考力を高め、演奏では忘れる。顕在意識が潜在意識に移った時、本物になる。」「無心に 遊ぶ子供の部分と、それを見守る自分と、両方が必要。」「周りを充分感じながら自分が出したい音を出す。3分位の間に自分の宇宙を出すつもりで。なんとなくはだめ。ひとつの音は周囲のみんなに影響する。本当にその音は必要なのか?自分が出したひとつの音が、他の人が出した音すべてを殺してしまうこともある。」と講師は語り、続いて今度は会場の明かりをつけたまま、全員で短時間の即興演奏。先ほどと比べ、音の有り/無しにメリハリが出て来る。Iちゃんも楽器を鳴らすことに専念している。  ここまでのプログラムは、主に自分自身の音に意識を向ける体験が続いたが、ワークショップ後半に入ると、より実際のセッションに近いプログラムになって行く。 4.セッションプログラム  後半最初のプログラムは、受講生を10名ずつ、3つに分けての即興セッション。やりたい者から順に10名ずつ、早い者勝ちでグループを作る。さがゆきのワークショップでは受講生の主体性を促すため、主催者側によるグループ分けは一切しない。一組目の演奏が始める前に、講師は受講生達に、ワークショップ前半での講義よりやや具体的なアドヴァイスを与えた。「ひとつの音を出す時は、赤ちゃんを産むつもりで(心をこめて)。しかもスピードを失わず、自分の体の中に何かが満ちた瞬間に音を出す。満ちていないのに音を出してもスピードは出ない。」「相手の音を感じて。ただし合わせるのではなく。即興演奏では各自がソリスト。」  一組目の演奏が終わると、講師のアドヴァイスは更に実践的になる。「命とは常に躍動しているもの。だからスピードがある。スピードとは体のグルーヴ。慎重過ぎてはだめ。音楽が死んでしまう。」「惜しげ無く命を使え。」「自分の肉体と精神をどこまで吐露できるかだ。(出すべき音を)選りすぐって捨て身になれ。」  二組目の演奏が終わると、講師は「精神を研ぎ澄ませば(時計が無くても)時間は読める。グーグル・マップのように高い所から自分を見るつもりで」とアドヴァイスした上で、3組目に対しては、演奏時間2分ぴったりにするよう指示(この課題は、いささかハードルが高すぎた模様)。  三組目の演奏終了後、講師は「研ぎ澄まされた感覚で、人は人に対して驕りたかぶることはできない。研ぎ澄まされていれば、人は(必然的に)謙虚になる。音楽とはそういうもの」とのコメントでプログラムを締めくくり、プログラムは更に少人数のセッションへと進んだ。 5.更に実践的なプログラムへ  ここから先のセッションは3人一組。まずは、3人のうち誰かが演奏を止めたら、すかさず(残り二人以外の)新たなメンバーが入り、常に3人での演奏を続けるプログラム。これの演奏スタイルも講師さがゆき独自の指導法である。演奏開始前に講師は再度、「即興演奏は各自がソリスト」と念を押し、更に「(演奏中の3人以外も)全員が演奏に参加しているつもりで。」「15分で終わる(全員が1回ずつ演奏して終わる)ように。」と指示。最年少(5歳)参加者のIちゃんにには「サンタさんにお願いするつもりで(出す音を選ぶように)」と、分かり易くアドヴァイスして演奏開始。講師の言葉はとても簡潔である一方、極めて「言うは易し行うは難し」でもあり、受講生達の演奏からは、出すべき音を選りすぐる姿勢と、スピードを失わない演奏との折り合いを何処でどうつけたら良いのか? 戸惑いを感じさせる場面が多かった。  全員が一通り演奏を終えた後、今度は、全員参加の意識を高めるためか、演奏前にまず全員が立ち、演奏者は前に出て演奏し、演奏を終えた者だけが座るやり方に変更して、「命を出し惜しみしないように」との講師からのアドヴァイスの下、再度3人一組の入れ替わり即興演奏。先ほどと比べ、音が引き締まってきた。  実際のセッションに近い形での演奏体験のあと、この日2回目の講義。ここでは講師がこれまで述べてきた、「音を出す瞬間」の心得の延長線上として、グルーヴの解説。詳細については著作権の関係上、ここに書くことは出来ないが、さがゆきの指導に特徴的なのは、彼女の「グルーヴ」論の特徴は、古今東西、「音楽」と呼ばれたあらゆるパフォーマンスに当てはまるばかりか、舞踊、舞踏、芝居の台詞まわしなど、生身の身体を使ったあらゆる表現にあてはまる点にある。更に彼女のグルーヴ論はすべて、小学校低学年の児童にも理解できる簡単な言葉で説明されていて、音楽経験が皆無小さな子供でも容易に、グルーヴを身につけられる。ただし、実際の楽曲演奏で、どんなテンポであってもどんなリズムであっても、さがゆきの指導するように、グルーヴをコントロール出来る域に達するのは至難の業。彼女の言葉はどれも、「言うは易し行うは難し」である。 6.講師 真髄を語る  グルーヴの解説の後、講師の話題は再度即興に戻り、講師さがゆきが長年の実践で積み上げた持論が語られた。これもまた、音楽に限らず様々な身体表現に当てはまる話ばかりだった。それどころか、写真や絵画、彫刻などの、視覚のみに訴える表現にもあてはまる話が少なくなかった。 「その人に無いものはどうやっても出て来ない。」 「即興は命でやるもの。(技術の)上手下手は関係無い。むしろ手癖が仇になることもある。」 「即興は長くやるほど大変。如何に自分の身に付いてしまったものを脱ぎ捨てるか?」 「集中し過ぎると「我」が出てしまう。周辺視が大事。」 「今を生き切ることを知るために即興音楽がある。演奏が始まったら、ポーンと命を投げ出すつもりで。そういう演奏でなければ感動は無い。命を投げ出すということは生き切るということ。そこで得られるものは至福。神様からのプレゼント。」 「演奏とは祈りのようなもの。「お祈りしたから大丈夫」という気持ちになると、願い事への囚われから開放されて、(行き過ぎた)集中視から周辺視になる。」 「即興は、他の音楽以上にお客さんが演奏に大きく影響する。お客さんも演奏に参加している。」 「お客さんの期待に応えようとしたり、迎合したら、娯楽音楽・商業音楽になってしまう。イージーな心地よさに埋没したり、人をなぞってはいけない。もちろん、共演者と全く関係無いことをしてもだめ。」 「実験的な音楽と即興を混同してはいけない。」 「個性とは箱庭みたいなもの。人を「こうだ」と決め付けること。個性なんて小さなもので、自分を括ってはいけない。」  そして、この日のワークショップ最後のプログラムは、3人一組メンバー入れ替わり無しの即興セッション。1グループの持ち時間は3分。舞踏家の受講生も居たので必ずしも全員が音を出したわけではないが、これまでの講師の話しからも分かるように、講師さがゆきの語る即興は、音のある無しに関係無い。一組終わるごとに講師から簡単な講評が加えられてワークショップは終了したが、ごく短時間の実演を見て必要な課題を指摘するのも、さがゆきの真骨頂である。  今回のワークショップは、参加予定者の希望もあり、半日のプログラムとなったが、終わって見れば、受講生から「もの足りない」との声が相次ぎ、次回のワークショップは合宿形式で行うことが、その日のうちに決まってしまった。 http://blog.goo.ne.jp/crescer/e/2653076827dc10eec8fb6d60b898186b 7.取材を終えて(さがゆきの独創性について)  筆者はこれまでに3回ほど、さがゆき完全即興ワークショップを見学したが、今回のワークショップで印象に残ったのは、講師の語る言葉の簡潔さだった。これまで、粘菌、tensegrityなど、芸術以外の様々な事物を比喩を用いて、自分が実践してきた即興パフォーマンスの原理原則を説明してきたさがゆき(下記URL参照)が、 http://hiroshi-s.at.webry.info/200903/article_7.html 今回は、音楽表現に直結する言葉を選んで講義に臨んでいた。精神論も多かったが、表現が直接的で簡潔だったため、受講生達は、実際に音を出すプログラムで自分が何を体験したのか、何を学んでいるのかが、比較的容易に理解でき、これまで以上に「もっと学びたい」という意欲が湧いたのではないかと思う。  さがゆきの言葉は、文字に残すと一見、民衆にとっての音楽の楽しみなど無視した芸術至上主義にも見えるが、彼女は、即興パフォーマンスで日本のライブシーンの最前衛に立ち続けるのと同時に、スタンダードジャズという、スタイルが確立された音楽の世界でも一目置かれる存在であることに留意しなければならない。彼女は、一部の現代音楽家や大学教員達のように、芸術論という理屈で自分達の活動を美化することで、かろうじて社会的立場を維持している人間達とは対照的に、芸術「論」などとは無縁のリスナーや、ライブハウスのオーナー達からのリクエストで30年近くに渡り音楽活動を続けている。ごく限られた人たちだけが共有する理屈によってしか価値を維持できないパフォーマンスなど、彼女の語る「芸術」や「音楽」には含まれていないと、理解すべきだろう。  更に彼女の指導内容は、先にも述べた通り、あらゆる音楽に共通するばかりではなく、舞踏その他様々な身体表現に当てはまる。恐らくスポーツ(特に個人競技や格闘技)にも当てはまる。それどころか、写真や絵画、彫刻など、身体表現とは見なされない活動にもあてはまる話が少なくなかった。 一見、音楽や踊り以外の表現には関係ないように見える彼女のグルーヴ論でさえ、彼女が指導する身体感覚を、そのまま心のテンションの変化に置き換えれば、写真やビデオ撮影(とりわけ人や動物や、波や雲や、常に変化し続ける対象を連続して撮影する場合)の心構えにあてはまる。  およそ表現と名のつく行為全てに当てはまりそうな原理原則を、簡潔な表現で表す彼女の指導を、表面的な言葉だけで真似するのは難しくは無い。暗記すれば良いのだから。実際、彼女とは、表現力でも技能でもキャリアでも、彼女の足元に及ばない段階の音楽屋達が、即興の指導と称して有料の仕事をしているのが、残念ながら日本の音楽界の現状である。しかし、受講生の実際の演奏や発声について、その場で、さがゆきのように、受講生一人一人の能力に応じた、きめ細かく、かつ具体的なアドヴァイスが出来る講師が、いったいどれほど居るのだろうか?本物と、コピー商品との違いはそこに出る。  次回、合宿形式で行われる完全即興ワークショップに参加する受講生達は、本物の指導者ならではの手応えを、今回より一層はっきり体に刻んで持ち帰ることができるだろう。 以上。 さがゆき公式ホームページ↓ http://www.aruma.be/index.htm 文責:佐藤宏
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様式、スタイル、方法論に本質無し

20世紀中は、新しいスタイル、新しい表現法に興味深々で、いろいろ勉強(といっても学校に行った訳じゃないですが)していた私ですが、今世紀に入ってから、少しずつ認識が変わりました。 スタイル、様式、手法の類、それ自体に本質が宿っている訳ではない。それらは良くも悪くも道具に過ぎない。道具の発明自体には創造的価値があるけれど、その栄冠は、発明に至るまでの挑戦をした人たちだけのもの。創造性とは、発明という結果ではなく、そこに至るまでのプロセスのこと。 とりわけ芸術について、極論を言えば、作品そのものが芸術な訳じゃない。作品の完成に至るプロセスが芸術であって、作品は、過ぎ去った過去の痕跡。常に途中経過でしかない(コれは、10年以上昔、factory COREの主宰から教わったことなんですが、ここ4~5年、実感を持って理解できるようになりました)。 それぞれの道具毎に、道具マニアをある程度の数集めてお金を回すのが、現在の(少なくとも日本の)芸術界(視覚芸術だけじゃなくて音楽業界も。特にアカデミックな世界は)の、もっとも典型的な広め方ですが、そういうことをしてるから、彼らが嫌う商業主義に席巻されてしまう。なぜかと言えば、彼らの言う「芸術の認知・普及」も所詮は商売だから。 では、今までに無いものを作ろうとすれば、それだけで創造や芸術になるかと言えば、世の中そんなに甘くはない。やるべきことから逃げたのを正当化する言い訳でやってるなら、それは単なる悪あがき。 しかし、「逃げ」を「表現」とか「芸術」とか称して(「アート」というカタカナ表記を使うケースが多いですが)金を巻き上げている連中がいかに多いことか。 逃げてる人は過去の経緯を理解しようとする姿勢が弱いので話を聴くと分かります。学歴のある人は、様式・形式論をあれこれいじって、自分の「逃げ」を創造のように見せかけますが、芸術そのものである先人達の生き様についての考察が薄っぺら。先人の生き様をどう理解しているのか?そこから出てきた「だから俺(私)はこう生きるんだ」が無いんですよね。 なので、たまたまウケたスタイルを未練がましくひきずるか、はたまた自分の仕事について総括もなく、青い鳥を探すように次々いろんなスタイルに飛びつく。残念なことに、コンテンポラリーとか、現代**とか、パフォーマンスとか即興を看板に掲げている連中(特に後ろの2つ)の大半は、逃げでやっているようにしか見えない昨今。先週も新宿の老舗ライブハウスで、そんな「逃げ」の人達が仕切っている音楽業界の現状を垣間見るようなライブに出くわしてしまいました。 ”PIANO DUO 3NIGHTS+1”と銘打った4日間のピアノ・デュオコンサートの2日目。「即興ピアニスト・コンポーザとして世界中で活躍を続ける二人・・」という華々しい能書きかチラシに書かれていたピアノデュオのコンサート。1st.ステージの即興は、小細工したピアノ(昔懐かしいプリペアド・ピアノ)で、ジャズ系即興によくありがちな、指をちょこまか動かす演奏。今更こんなことしてどうするの・・・?かといって彼女達の演奏には、クラシック音楽的な繊細な美しさも無い。ピアノの小細工が取って付けたように浮くばかり。これなら日本で活躍中のスガダイローの方が遥かに上。若手の石田幹雄でも、彼女達よりは上でしょう。 2nd.ステージ前半は、外人さんの方のソロ演奏。見事なまでにキースジャレットのソロコンサート風(なれど本家よりはるかに見劣りする)。この外人さん、コンテンポラリージャズの世界では、知名度のある人らしいですが、とうの昔に旬が終わっている印象は否めませんでした。その後のセッションは、ブラスのゲストも加わったものの、相変わらず取って付けたようなプリペアド・ピアノや、取って付けたような無意味言語を喋りだしたりのお遊び。こういう大昔の小技を取って付ければコンテンポラリになると思っているのか?聴いてて不憫になる位、安っぽい展開。技量についてはプロとして全く問題なさそうな二人だけれど、彼女たちの音楽の”核”はいったい何なのか?ひょっとしたら、最初の方で書いた、ある種の「道具マニア」の方々のためのライブだったのかも知れませんが・・? 日本人の方のMCも、相方の外人さんの来日スケジュールを「滅多に聴けない」「非常に珍しい」と、不自然なほほど持ち上げる。その夜の演奏は珍しくもなんともない内容だったが・・彼女が相方の来日コンサートを企画しているのか? いずれにせよ、こういう、裸の王様相手の商売はやめないと、ライブハウスもミュージシャンも共倒れでしょう。若い人達にとっては、老舗ライブハウスの高くて空しいライブより、1500円位で聴ける、仲間内の対バンイベントの方が、よほど新鮮で楽しいでしょうし、実際、勉強になるかも知れません。以前の日記にも書きましたが、最近の若手主体のイベントは、ベテラン顔負けのプレイをするバンドが珍しくありませんから。
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その瞬間を見極める

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 五感全てを動員して周囲を感じること。考えるのではなく(感じた事に良し悪しの判断をするのが思考)。集中し過ぎてはだめ。五感全てで周辺視しなければ。  本当に魂が必要としているのか?流されていないか?パタン化したイージーな気持ちよさは魂レベルとは違う。しかし慎重過ぎてもだめ。自分の肉体と精神をどこまで吐露できるかだ。選りすぐって捨て身になれ。  研ぎ澄まされた感覚で、人は、人に対して奢り高ぶることは出来ない。研ぎ澄まされていれば、謙虚になる。  個性とは、箱庭みたいなもの。人を「こうだ」と決め付けること。「個性」なんて小さなもので、自分を括らないように。 これは、先日開催された「第10回さがゆき完全即興ワークショップ~魂の歓喜・音と人との幸せな関係~」において、講師を務めたさがゆきが、音を出す際の心構えとして、受講生達に語った言葉ですが、この話は音楽表現に限らず、写真にも、舞踏や演劇などの舞台で表現にも、やり直しの利かないその時限りの要素がある表現全てに、共通した大原則ではないかと思います。
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ベテランを凌駕する若手

昨年 10月25日、下北沢ERAで開催された、PRIMITIVEというイベントに行って見つけた、虚弱というバンド、 年齢(全員20代前半らしい)からはイメージし難いほど技能が高くその上肝の据わった演奏を聞かせてくれます。 おまけに、「どこが虚弱じゃ!!」とツッコミを入れずにはいれないハードなサウンド。 http://www.youtube.com/watch?v=aLm0uwxvRSw&feature=related http://www.youtube.com/watch?v=Dau37vSOggA&feature=related 私がERAで彼女達の演奏を聴いたときは、破綻ぎりぎりの所を狙うように不協和音を使う曲も演奏していました。それが事前にアレンジした上でのプレイなら素晴らしい。 ギターのピッチが余程正確でないと、この手のトライアルは、ただの音痴で終わりますから。下のビデオに収録されている曲は、かなり単調な展開ですが、彼女達の演奏技能と危険な感性(もちろんいい意味で)がよく出ていると思います(終盤の2分で一気にアクセル吹かす展開になってます) http://www.youtube.com/watch?v=tecGPd4WRrA&feature=related 特にドラムがクールでいいです。ロックドラムのへヴィーな音は、力技で出せるもんじゃないということがよく分かります。 こういう若手が出てきてしまうと、中年のロックバンドのほとんどは影が薄いです。気持ちだけ先走って終わる感じで中身が伴わない。ERAで開催された"PRIMITIVE"では、キャリアの短いバンドから順に出演していたようですが、トリを勤めたドラびでおこと一楽儀光さん率いるユニットの、プロの力を見せ付ける演奏(かつエンターティメント)を除けば、順番が後になるほど演奏がつまらなく(ありがちなスタイルで技能もいまひとつ)なるような印象さえありました。虚弱の他、やはりはじめの方で出演したwozniakというデュオも、生半可ではない演奏技能でした。 中堅と呼ばれるような、30~40代のミュージシャンは、上の人より若手に注意した方がいいかも知れません。上しか見てないと、気がついたら居場所がなくなってる、なんてことになりかねません。 これは恐らくロックに限ったことでも音楽に限ったことでもなく、創造性が問われる活動はどこもみんなそういう状況かも知れません。 最近の日本、景気は悪いままですが、文化的にはむしろ活性化しているのかも知れません。行政や企業が無視している所で。
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伏兵は意外な所に潜んでいる

先日、日暮里の PORTO へ行って加藤崇之さんのソロライブ拝聴したときのこと。 1st.ステージは全編ガッツリ加藤さんのソロ演奏。そして 2nd.ステージ後半。加藤さんが、客で来ていた若手二人をステージに呼んでボサノウ゛ァのセッションタイム。ところがこの二人がとんでもない奴らだった(もちろん良い意味で)。 一人は北沢直子というフルート奏者。ソロでアドリブをやらせるとサックスでフリージャズやってるみたいな演奏をする。「フルート演奏はこうあるべき」みたいな固定観念が全くない。もちろん良い意味で(彼女の、固定観念の無さについては加藤さんも同意してくれました)。一見ブッ飛んだことなどやりそうに見えないから恐ろしい。 もうひとりは、柳家小春というヴォーカリスト。と言っても、普段の活動は三味線や小唄などの邦楽だそうで、小春というのも邦楽用の芸名。 ところが洋楽を歌わせると邦楽の空気を全く引きずらず、誰にも似てない彼女だけの世界を展開させる。まだ発声に課題はあるものの音程がしっかりしているので安心して聴ける。彼女の頭の中に、邦楽/洋楽という分類は、恐らく無い。彼女が歌った日本語の訳詞はとても良く練られたもので、話を聞けば、彼女の友人が元の歌詞をきちんと翻訳した上で、元の詩の内容はもちろん表現の要を損なわず、メロディーに合う日本語を選んで再構成した歌詞とのこと。 二人共、「私はアーティストです!」的な自己顕示オーラが微塵も無い、とてもかわいい女性。 しかし、加藤さんに食らい付いてくる輩はやっぱり只者じゃない。 伏兵は、思わぬ所に潜んでいるもの。現代音楽やら即興やら、表向き前衛的な所に居る奴のやっている事が、前衛的だとは限らない。 (少なくともライブパフォーマンスにおける) 真に創造的な表現とは、スタイルを創ることではなくスタイルから自由になること のような気がする。
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「アーティスト」という職業の終焉?

ライブハウス通いを始めて6年になるけれど、結局のところ、何度も聴きたくなるようなアーティストはあまり見つからず(少なくともジャズor即興系のパフォーマンスでは)、最近は、はじめに耳にした、さがゆきさん(http://www.aruma.be/)と、加藤崇之さん(http://www.ne.jp/asahi/site/kato-takayuki/)以外のライブにはあまり足を運ばなくなってしまいました。 二人とも、オーソドックスな楽曲(それも、ジャズに限らない)を、恐らく日本でトップレベルの技能と表現力で演奏したり、歌ったりした上で、即興表現では、恐らく世界中でも追従できるアーティストは殆ど居ないだろうというほど何者にも囚われない表現(だから英語では improvisation ではなく abstract と呼ばれる)を展開する。私の知っている範囲で、彼ら以上に(楽曲の表現力に卓越した上で)奔放なことが出来るのは、邦楽(箏)の澤井一恵さん位。 彼らの演奏を聴いていて、楽曲とAbstract は別世界の表現ではなく、楽曲表現を極めた上で自らの内側から湧き出るものを素直に表現すると、(必然性があるなら)音階やリズムといった構造が自然と解体されてAbstractになるんだなあと実感できるのですが(さがさんは常々「曲も即興も本質は同じ」と語っているし、加藤さんは、80年代に即興をはじめたきっかけの一つが「ラヴェルやストラヴィンスキーの交響曲のような世界を即興で描いてみたい」という思いだったと、何度か語っていました)、 いわゆる即興(またはインプロ)など、表向き「前衛的」とされてるパフォーマンスのほとんどが、そんな「極め」ようとする試みとも、演者にとって「必然性」ある「自然」な展開とも、ちょっと違うなというのが、だんだん分かって来てしまいました。 先人達が既成概念の壁を壊すためにやったことを、既成概念が壊れた後もだらだら続けるもんだから、それが単なる伝承芸になり創造性を失ってしまう。その上大方のプレーヤは、アバンギャルドな方向に行くと、スタンダードな表現力の進歩が止まってしまう(ならまだしも衰えてしまう)。基本が出来ない言い訳として即興その他の「前衛」っぽい芸でごまかしているだけ。 楽曲演奏もその多くがパタンの組み合わせ。かつて誰かが使ったスタイルの編集作業。生演奏なのに、一期一会を感じさせる部分が無い(ちなみに、さがゆきは常々、潮先郁男さん http://www.geocities.jp/txcny685/ の楽曲演奏を、「究極のインプロヴァイゼーション」と絶賛している)。 アンダーグラウンドシーンというか、インディーズシーンというか、そういう世界が、地道に表現の幅を広げる(ぞの前提としての技能向上も含めて)人たちの集まりというより、それが面倒な連中が、手っ取り早く面白いことやって、内輪で盛り上ってあわよくばお金も稼ごうという世界になりつつあるような・・・ 横浜のA、杉並区のA、台東区のN・・時代を切り開いてきたハコが、博物館化しているような気も・・ いや地下だけでなく、大上段に「論」を振りかざす現代芸術(音楽)界も、同じかも知れません。 そうでなければ、売れてなんぼの営業系。 どれもアートとはいい難いでしょう。毎度おなじみのことしかしない大道芸か、良くも悪くもビジネスか。 私が毎週作品を展示しているギャラリー factory CORE http://www.factory-core.com/ を主宰する村松慎介氏は、1990年代から、「作品創りとは別に生活の手段を持たなければアーティストにはなれない(お金にすることを考えたら芸術は続けられない)」と言っていましたが、実際その通りの状況になりつつあるような気もします。 先日、さがゆきのライブ終演後、さがさんが、客として来ていたアマチュアのシンガーを、「彼女の歌はほかと違う」と言ってステージに立たせ、彼女に一曲歌わせてあげました。 その彼女の歌唱は、テクニカルな部分では課題が多いものの、口先だけで歌う今時の大半のプロシンガーとは一線を画した、体の底から声を出すような表現でした。好き嫌いは分かれるにしても、本人の半生からにじみ出る表現。 これからはこうした、芸術以外の仕事で生きる糧を得ながら、むやみにライブシーンで注目されるのを目指すのではなく、自分がクリアすべき課題を地道に勉強し続ける人の中から、本物が生まれる時代になるのかも知れません。 長引く不景気のせいか、都会人のライフスタイルが変化したせいか、ライブハウスへ足を運ぶ人も長年減り続けていると言われる昨今、表現者がアーティストとして食べていくことができる時代は、終わりつつあるのかも知れません。 それは音楽に限らず、日本画あがりのポップアーティスト(というより商売人)が語る「世界のアートシーン」が、現実世界の全てであるかのように吹聴する、日本の視覚芸術界も、状況は似たりよったりではないでしょうか?
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関西へ行ってきました

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実は、4/1から4/6まで関西に居ました。 この時期に関西へ行くことになったきっかけは、友人さがゆきのともだちが、自腹で企画した、さがゆきと小室等さんとのコンサートを、聴きに行くためでした。はじめはコンサートがある4/2だけ、西宮へ行くつもりだったんですが、その後4/2前後にさがゆきの関西ライブが次々決まり、 http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=28777&log=20100331 丁度桜の見ごろとも重なったので、4/1から4/6までの彼女のライブをを全部聴くついでに、関西の桜も見物することにしました。 彼女の関西ライブへ行ったおかげで、関西で活躍するミュージシャンの演奏をたくさん聴くことができましたが、今回私が、はじめて演奏を聴いた中で、一番印象に残ったのは、ギタリストの清野巧巳さん。さがゆきとのデュオは全て楽曲でしたが、ゆったり感に満ちながらも「曲」の枠内ぎりぎりの自由な解釈。 半端じゃない即興力の持ち主同士ならではのライブを堪能できました。 もう一組印象に残ったのは、4/5に十三の銭湯「宝湯」で開催されたイベントに参加していたた「たゆたう」というデュオ http://tayutau.info/ この手の、独自のキャラクタを前面に出す(彼女達のHPを見ればお分かりと思いますが)バンドやパフォーマは、基本が出来てないのをごまかすためにキャラを作っている輩が多いんですが、彼女達はどちらも、楽器演奏は不安なく聴けるし、声(二人とも歌う)のピッチも正確。 最近、こういう(基本を押さえた上でムチャする)若手が増えてきた印象があります。話は横にそれますが、昨年秋、さがゆきも参加した下北沢でのイベントに出演していた、「虚弱」というロックバンド http://www.geocities.jp/kyojaku_4/ も、非常にテクニカルな譜面(まだCD化されていない曲らしい)ながら「どこが虚弱じゃ!」と、思わずツッコミを入れたくなるほどハードな演奏を決めていました。 桜見物の方も、三宮、夙川(西宮市)、京都、大阪と移動しながら、数えてみたら1000カットを軽く超える写真を撮っていました。 とりあえず、その一部をネット上に公開しましたので、よろしかったらのぞいてみてください。 http://picasaweb.google.com/skyoukai/FamousAreasForEnjoingBeautyOfCherryBlossomsInKansaiJapan2010#
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抽象音楽

昨夜は、友人のヴォーカリストさがゆきによる http://www.aruma.be/ 完全即興ソロライブでした。
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 彼女はこれまでも、セッションの中でソロパフォーマンスを披露したり、共演(予定)者が事故で出演できなくなり、急遽ソロライブを行った事あるのですが、はじめからソロライブとしてスケジュールを組んだのは恐らく今回が初めて。満を持しての”初”ソロライブでしたが、私が冗談で「伝説のさがゆきソロ」と言ったら、それがそのままタイトルになってしまいました。 http://www.aruma.be/news.htm  英語で"Abstract"と表現される彼女の完全即興。正に抽象画(Abstract)を音で表現したように、音階も、リズムも無い。グラフィックデザインのようなパタン(法則性・規則性)も無い完全なAbstract。  けれど抽象画が、具象性を削ぎ落としたところにも形そのもの、色彩そのものの美があるという信念に支えられ、発展したように、彼女のパフォーマンスには、音階とリズムから成る通常の音楽にも通じる美学があり、彼女が自身のパフォーマンスについて「グルーヴ」など普通の音楽用語を使って語るのは、リスナーの立場で聴いていても、とても説得力があります。  そこが恐らく、現代音楽(とりわけ、ジョン・ケージに代表されるような、わざわざ意図的に、音楽とは縁遠い所にある発音手段や規則を使って音を出す行為)との決定的な違いでしょう。  昨夜の彼女のパフォーマンスは、音階も、リズムも、パタンも無い完全に自由な表現でも音楽美(「美」であるかどうかは異論があるにせよ、少なくとも音楽ならではの感動、楽しさ)が成立することを、問答無用と言わんばかりの明瞭さで実演した、ゆったりしながらも隙の無い、スケール感あふれるパフォーマンスでした。  楽曲がプロフェッショナルにこなせないのをごまかすために(本人にその自覚はないにせよ)即興や現代音楽もどきのでたらめに走る人間は巷に掃いて捨てるほど居るし、「○×に師事」という過去や屁理屈を口実に、自分の表現力の稚拙さから目をそむけているパフォーマも少なからず居ますが、裸の王様を褒め称えるような予備知識のない聴衆の気持ちを、何十分も引き止めておけるパフォーマは、そうは居ないものです。  彼女は紛れもなく、その数少ないパフォーマの一人。楽曲のライブで同業者からも一目置かれるほどの実力があるからこそのAbstract。彼女自身も常日頃言っていますが、楽曲を人並み以上に演奏できない(歌えない)者が即興に走っても、何も生まれはしないでしょう。  「フリーインプロヴァイゼーション」と総称されるパフォーマンスが、音楽のライブの一形態として認知されている現在の状況が確立されるまでの歴史的過程で、現代音楽の果たした役割は、小さくないのかも知れませんが、彼女だけでなく、多くの演奏家(私が知っているだけでも箏の澤井一恵さんや、ギターの加藤崇之さんなど)が、音階からもリズムからもパタンからも全く自由な即興演奏を何度も実演し、音楽の定義を、何ら「論」を唱えることなしに、実績をもって書き換えてしまった現在、音楽の定義を知性で無理矢理作り変えるような現代音楽は、(一部の人達が自分達の権威付けに利用ている以外は)「現代」の音楽というより、既に歴史遺産の一つなのかも知れません。    昨夜のセカンドステージ後半、彼女のワークショップ受講生を交えて行われたセッションも、インプロヴァイザーを名乗るプロのライブと充分比較できるほど濃い内容でした。さがゆき先生から見れば、まだまだ課題の多いセッションだったようですが、内外のプロによるインプロヴァイゼーションのライブでも、昨夜のセッションよりだらだらして(決まりきった音やパタンの繰り返し)緊張感も面白さもないライブはザラにあります(困ったことに)。  音楽・芸術業界で、影響力を持つ人やメディアに取り上げられることも少なく、世間では存在が殆ど知られていない彼女の完全即興ですが、いつか、さがゆきに感化されたプレイヤー達の中から誰かがブレイクしたとき、さがゆきの創造性は、文字通り伝説となって、脚光を浴びるのではないかと思います。 この日のライブについての、さがゆき本人のコメントはこちら http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=28777&log=20100221 ライブ会場の模様はこちら http://picasaweb.google.co.jp/skyoukai/YukiSagaSOLOPerformance?feat=directlink 会場となった横浜のライブハウス「エアジン」の店主、梅本さんによる当日のブログ http://umemotomusica.jugem.jp/?eid=55 (後日動画もアップロードされるそうです)
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ヨーゼフ・ボイスの挑発③

ヨーゼフ・ボイスの挑発② http://hiroshi-s.at.webry.info/201002/article_2.html より続く 現代芸術、とりわけ視覚表現の世界で、作家の、社会に対する姿勢や関わり方が、あたりまえのように評論の対象となる現状を見れば、ボイスさんの提唱した「拡張された芸術概念」は、現代芸術の延長線上の姿として、特に違和感は無い様に見え、現代芸術の作品(鑑賞されることのみを目的に制作される人工物)が存在する必然性は、やがて無くなって行くのが必然のように思えます。 けれどボイスさんの遺品(とあえて表記します)が、「作品」という扱いで収集され、ろくに説明もつけず(ボイスさんは生前制作に関する対話の重要性を述べていたにもかかわらず)禅問答のように展示される(それも有料で)現状は、彼の遺品が「拡張されない」芸術に利用されているということ。つまり、作品という物体に特別な価値を与え続けようとする芸術観、鑑賞のために造られたものだけを芸術と認める価値観を堅持するために活用されている訳で、なんとも皮肉な顛末だなと思いました。 これは視覚表現に限ったことではなく、音楽などの聴覚表現の世界でも似た様な状況があるのではないでしょか? 主に1950年代から1960年代にかけて、音楽の世界における「作品」「芸術」という既成概念をつぎつぎにひっくり返すパフォーマンスを発表しつづけた、ジョン・ケージという人 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B8 のトライアルは、今でもしばしば、ジョン・ケージが生前行ったのと同じような方法で”再演”されています。彼の作品の多くは、具体的な音の出し方ではなく、音の組み合わせを考えるときのルールだったはずなのに。彼が生きていた時代には無かったような、音を出す手段に溢れている現在でも。 例えば一昨年東京で開催された、ジョン・ケージ作品の再演「凶暴なるケージ」(補注参照) http://www.realtokyo.co.jp/events/view/26833 http://monnakaten.exblog.jp/9395111/ も、そんなイベントの一つでした。ジョンケージが作品を上演した当時と同じような道具を集めて演奏するという、見事なまでににクラシック音楽的発想。全ての曲がジョン・ケージが演奏した当時の再現ではなかったようですが、芸術というより考古学分野の検証作業のような演奏会でした。 唯一の救いだったのは、自らも長年Abstract(日本語ではインプロヴァイゼーションと言うが)のライブを続けて来たさがゆき http://www.aruma.be/ が、ジョンケージの存命中には存在しなかった、サンプラ付き目覚まし時計(自分で録音した音を目覚まし音にできる)だけを使って、ジョン・ケージの”Solo for voice”を演奏したこと。 主宰兼出演の足立智美氏 http://www.adachitomomi.com/ も、会場入り口の受付机にコンタクトマイクを仕込み、来場者が記名帳に名前を書く時の音を増幅して会場に流すなど、現代的な味付けを加味してはいましたが、メディアアートの世界でやり尽くされたコケ脅しの印象は免れませんでした。 足立氏は来場者に配布したパンフレットに、 ジョン・ケージ作品上演での、様々な奇異な音の出し方について >これらの挑発性は果たして慣れることが出来るものでしょうか と書いていましたが、挑発は、一度やればもう挑発にはならず、彼の演奏も、「ああ、現代音楽なんだなあ」という既視感(既聴感?)あふれるものでした。 昨年秋の、民主党政権による「仕分け」では、芸術活動に対する公的支援の削減対象にされ、一部で大きな問題になりましたが、もともと新たな地平を見出すために行われた先人達の試行錯誤を、あたかも完成された様式であるかのように扱うことで(多くの場合、その上権威化することで)、自らの立場を(完成された価値の伝道者として)維持しようとする組織や(自称)芸術家に、どの程度血税による支援をすべきなのか?「仕分け」はそれについて考え直すための良い機会だったのかも知れません。 おわり。 補注: 『音楽の複数次元2008~ケージとウォルフ~』 vol.1『凶暴なるケージ』 (主催:足立智美+ナヤ・コレクティブ) 開催日:2008年10月13日(月) 会場:  東京都江東区門前仲町1-20-3)門中天井ホール「α」 ◎プログラム(すべて作曲:ジョン・ケージ) 「Water walk」演奏:足立智美 「Variations 2」演奏:今井和雄(ギター) 「62 Mesostics re Merce Cunningham」演奏:足立智美、さがゆき、松平敬(vo) 演目 1. waterwalk 2. mesostics 休憩(15分) 3. solo for voice 2 4. solo for voice 2 5. solo for voice 2 6. solo for voice 2 7. solo for voice 2 8. variations 2
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久々まじめにビジネスの話をしました

大切な友人さがゆき http://www.aruma.be/ のライブのあと、ライブハウスのオーナーさん(♀)に呼び止められ、店の経営(企画の内容など)について相談を持ちかけられた。 今、さがゆきが唯一、ストレートなジャズライブをやる店として選んでいるほどジャズにこだわるライブハウスのオーナーが、(さがゆきファンではあるけれど)ジャズに関して素人同然の私にアイデアを求めるのだから、客観的な視点からの助言が必要な状況、つまり今までのやり方が行き詰っている状況なのだろう。これは真剣に応えなきゃ。 20代の頃、まだ店を持つ前から、ジャズ演奏のある店で接客をしていた、ジャズ業界○十年以上のオーナーだけあって、ジャズの生き字引みたいな(国内外の往年の名プレイヤー達の、レコードだけでなく生演奏にも、私が生まれる前から親しんで来た)常連客が何人も居る店。 だけど常連のお客様の高齢化は進み、かと言って、「○京ジャズ」みたいな営業系イベントで喜ぶ半端なジャズファン相手の店には絶対したくない。チャージバックではなく出演者にはきちんと謝礼を払っているので、お客様からいただく料金を下げる訳にもいかない。 となれば、料金に見合うだけのハイレベルかつ新鮮な(過去のスタイルを引きずっているだけではない)音楽を提供し(「ジャズの店」というアイデンティティを破壊しない範囲で)、経済的ゆとりがあって、未だ生演奏ならではの醍醐味をご存知ないお客様方を新規に開拓して行くしかない。 もちろん言うは易し行うは難しで、勤め先が商品の小売価格維持(業界用語で高付加価値戦略と言う)に失敗して失業した私が、すぐ金になるようなアイデアを持っている訳でもない。 けれど私の元勤め先の経営危機は、経営者の怠慢が原因。「自分達はいいものを作っている」を口実に、「開拓者」「先駆者」という意味の英語を社名を掲げる会社のトップが過去の栄光の上にあぐらをかいたまま、新しい価値探求から逃げ続け、その上低価格化競争にも乗り遅れたのが実情。 一方、このライブハウスのオーナーは、質の高いライブを提供できるなら、今までの看板からはみ出すことも辞さない覚悟。人員削減しか策の無い、私の元勤め先とは訳が違う。 それもそのはず。 片や、仮に経営を破綻させても、懲戒免職でもされない限りは、千万単位の年収と、数千万(ひょっとしたら億かも?)の退職金が事実上約束されている大企業のトップ。片や、店を続けられなければ即家族の命に関わる個人事業主。経営に対する切実さが違います。 相談に乗ってしまった以上、私が24年間の会社員生活で何を学んで来たかが厳しく問われる状況になりかねないんですが、自分の過去は一度きっちり総括しておかないと、自分の未来も開けないでしょう。がんばります。
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スピリッツ健在

80年代で勢いが尽きてしまった観もある(その後も見世物的な早業自慢や見た目勝負のバンドは多々出現していますが)日本のロックですが、 女王健在!! http://tjc.channel.yahoo.co.jp/index.php?itemid=54 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001QL36SU/mixi02-22/ 健在どころか一層表現力を広げて王道に復帰!ロックファンとしては爽快この上なし! 思わずアマゾンにレビューを投稿してしまいました。 http://www.amazon.co.jp/review/R3HIJNV0UP7D6J/ref=cm_cr_rdp_perm 浜田麻里さん(女優の濱田マリとは別人です)。 http://www.mari-family.com/ 1980年代前半に、20代であっさり、抜きん出た存在感と歌唱力で、日本のヘビメタ界に一人君臨し、更に「井の中の蛙」になることなく90年頃からは貪欲に守備範囲を広げ続け、エレガントなルックスを売りにする芸能人路線ともきっぱり袂を分かったものの、個人的には、ここ10年ほどの作品について方向性があやふや印象を受けてしまい、結局彼女のライブには行かずじまいだったんですが、実は昨年末のコンサートは発売即日ソールドアウトだったそうで、その模様を収めたDVDを見ると、即日ソールルドアウトも納得のパフォーマンス。ここまで音楽的守備範囲の広さとスピードと重厚さが揃っているロックバンドは、日本では彼女のユニット位ではないでしょうか? 他の追従を許さない、伸びのあるハイトーンシャウトも、肉体的に厳しい年代に差し掛かる中、最新DVDでのパフォーマンスを聴くと、表現が厚みを増す方向へシフトし、次へのステップを予感させる内容。デビュー以来ずっとバックコーラスを務め、独特のハーモニーを生み続けている妹の絵里さんのパートも多く、姉妹揃っての成長が印象的。 彼女のすごさは歌唱力だけではなく、彼女の作る歌詞には一貫して人生への真剣な眼差しが込められています。それが、彼女の人気が衰えない理由の一つではないかと思いますが、 この人、まだまだ大化けするかも知れません。こういう人が居る限り、ロックは芸術(になり得る表現)であり続けると思います。 以下は彼女の変遷が良く分かるYouTubeの投稿映像です。 20代、ヘビメタ一本槍の頃。男を蹴散らしそうな勢い http://www.youtube.com/watch?v=ZZvF9q_BUc0 (恐らく)30歳前後、音楽的守備範囲広がりルックスにも女性ファンへの気づかいが目立ち始めてきた頃 http://www.youtube.com/watch?v=Z7dFrBuoz4A 40代半ば、20周年記念ライブ(?) 未だヘビメタのトップヴォーカリストであることを見せ付けるステージ http://www.youtube.com/watch?v=sjWoXYh6GYI http://www.youtube.com/watch?v=pgeqqMOcMb4 (すっかり「素敵なおじさま」になってしまったサポートメンバーは、恐らく彼女と同世代) すごいです。実力も若さも。

ブレイクダンスする火男

川越まつり(関東3大まつりの一つ)に行って来ました。 http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1105080001602/ 川越祭りは各町内から出る豪勢な山車が名物で(山車の上に乗せる人形の中には江戸時代から伝わるものもある)、ほとんどの観光客は山車見物目当てですが、私の目当ては音楽(お囃子)と(山車の中に作られた舞台の上での)踊り。やっぱりお囃子と踊りのノリが良くないと祭りにならないでしょ。 基本的には伝承芸ですから、お囃子のノリはどれもそこそも良かったものの、踊りのほとんどは形式的な内容(それだけでも長年の練習が必要なんでしょうが)。そんな中で敢えて、面白い踊り手を探すのが、今年の目当て。 とは言っても、2km近い道のりの間に点在(それも移動しながら)する20台近い山車に、少なくとも2人は踊り手が乗っています(ほぼ1日中踊りを見せ続けなければいけないので交代で踊っている)。今回は初日(10/17)しか時間が取れず、踊り手全員をチェックするのは無理だったんですが、 一人居ました。すごいのが。 http://www.youtube.com/watch?v=altLD8PZ6SY 身なりはヒョットコですが動きはほとんどブレイクダンス。仰向けになって舞台の縁から上半身を乗り出したり(山車をハコ乗りする奴。暴走族かお前は!) 。なのにしっかり和風に見えるのは、手の平の動きが日本舞踊だから。メリケンはこういう手の返し方はしません。 「和」のコアを残しながら世界の流行りを組み込んだ巧みなアレンジ。 民族芸能は、こうやって新陳代謝し続けるのが本来の姿ではないでしょうか?この踊り手さん、普段もダンスかパントマイムをやっている人でしょう。乗っていたのは志多町、弁慶の山車。この山車、要注目です。 そしてもう一人印象に残ったのは、山車ではなく、午後2時ちょっと前に本川越駅近くの常設舞台で踊っていたおかめさん。 http://www.youtube.com/watch?v=sXb6tTZHcHo 昼間に常設舞台で踊るのは、どうやら子供らしく、このおかめさん以外の踊り手は明らかに小学生か中学生で動きもたどたどしかった。この子もひょっとしたら中学生か高校生かも知れないけれど、今回見たおかめの中では一番セクシー。 7年前の川越祭りの山車で踊っていた、やたらセクシーなおかめさんは見当たらず。今年チェックした山車のおかめは、動きがぎこちないか、わざとらしい。腕と首の動きだけで女らしさを出そうとすると、わざとらしくなる。やはり踊りは立ち姿から。腰つきでセクシーさを出せないとダメ(って、もちろん腰を振るとかそういう意味じゃありません)。

ジャンルを超えた表現

昨夜は友人のさがゆきが今、最も大切にしている共演者の一人である潮先郁男さん(G)と、渋谷毅さん(Pf)と彼女のライブ。 演奏される曲は、スタンダードジャズか、それより更に古い1920~1930年代の曲たち。 潮先さんの刻むグルーヴはとてもゆったりとしていて穏やか。しかし弦をはじくタイミングは正確無比で一瞬のスキも無い。規則的という意味での「正確」ではなく、グルーヴという揺らぎから一瞬たりとも離れないという意味での正確無比。だから聴衆には豆粒ほどの緊張感も与えない。ヘビメタキッズが如何に速弾きを極めようとも到達できない境地だろう。 ライブによっては、観客をはらはらさせるほど上機嫌で演奏してしまう事もある渋谷さんも、昨夜はほぼ素面の勝負。もう数年間続いている3人のセッションの中でも、とりわけ魅力的だった昨夜の演奏。 日曜日に彼女が参加した完全即興演奏 http://hiroshi-s.at.webry.info/200910/article_8.html と、1日おいて行われた昨夜のライブとでは、同じ「音楽」という言葉では括れないほど、その方法論は異質。実際、アンダーグラウンドの極地であるような完全即興演奏と、オーソドックスな楽曲のライブとを、日常的に、両方共「アーティスト」に恥じないレベルで展開しているプレーヤは、少なくとも日本では、さがゆきを含め、片手で数えられるほどしか居ないだろう。 けれど、音楽や芸術についての予備知識を全部取っ払ってこの両日のプレイを思い起こすと、恐ろしく似通っている。一音一音へ、とりわけ音が出る瞬間への配慮のきめ細かさが、まるで一本の糸でしっかりつながっているかのように、同じ美学で貫かれている。違いは、音階を使うか使わないか、それだけ。彼女も自分の日記で両日のライブの共通性を語っている。 http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=28777&log=20091014 ジャンルを問わず成り立つ表現が実際に存在するということを実感した昨夜。さがゆきがなぜ、前衛的な音響表現とオーソドックスな楽曲の歌唱とを、分け隔てなく追求することが出来るのかが、良く分かりました。 昨夜3人がライブを行ったのは、新宿にある「あうん」という店 http://aunaun.fc2web.com/ 恐らくスタンダードジャズファンの中でも、相当コアなジャズファンしか知らない店(私もさがゆきがライブに出演するまで全く知りませんでした)。常連のお客様の中は、私が生まれる前からレコードはもちろん、生でもジャズを聴きまくっていた方々も。ライブハウスとしては、値段が高い店ですが、出演者の話では、その分しっかり、出演者へのギャランティーとして還元されているそうですから、ジャズの好きな方は、一度足を運んでみてください。
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トリは必見

横濱ジャズプロムナード http://www.jazzpro.jp/home/index.html の創立メンバーの一人であった、ライブハウス「エアジン」のマスター梅本さん http://www.airegin.jp/ が現在力を入れているのは、 観光資源化された(芸術としての鮮度を失った)ありきたりのジャズではなく、アンダーグラウンドな即興演奏イベント。 http://www.airegin.jp/event/impro2009aki.html 梅本さんが自分の店で、毎年春・秋の2回開催する「インプロ(imprevisation)音楽祭」で聴ける演奏は、実験的なパフォーマンスだけに、正直、当たり外れが激しいです。まともに楽曲演奏ができないからメチャクチャやってごまかしている連中、私の子供時代の「前衛」のパタンを繰り返しているだけの連中(芸術というより凡庸な大道芸)、そんなパフォーマンスが半分以上かも知れません。 けれど、毎回、最終日近くの夜の部は、当たりのことが多いです。音階を使った表現をマスターした上で、音階から自由になる演奏に進んだ人達のプレイが聴けることが多いです。 今回のインプロ音楽祭の最終日(11/11)、トリを勤めたのは、スイスから来日した、Jurg WICKHALDER(s.sax) × Cris WIESENDANGER(piano)。 ゲストは さがゆき。 終始歌心溢れる即興演奏でした。 インプロ音楽祭の出演者ですから一見すると、楽譜を演奏するときの手法には全く無頓着なのですが(サックスの開口部を口に当てて吹いたり)、一音一音、とりわけ音の出る瞬間への配慮の細やかさが印象的でした。 ラストのアンコールでの、西洋音階(特に和音の美しさ)を生かしたプレイは、improvisationもできる音楽家と、インプロしかできないパフォーマの違いを、白日の下に示すかのようでした。 この3人は紛れもなく音楽家。かつて自らが立ち上げたジャズプロムナードと、袂を分かった梅本さんの意気込みが、功を奏した一夜でした。
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