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zoom RSS 音にも通じる絵画論(磯江毅さんが遺した言葉)

<<   作成日時 : 2011/08/29 23:04   >>

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先日、練馬区立美術館へ、「特別展 磯江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才」を見に行って来ました。
http://www.museum.or.jp/modules/topics/index.php?action=view&id=43

磯江毅さん(1954-2007)は、極めて写実的な絵画作品で知られ、作品の大半を制作したスペインでは”グスタボ・イソエ”の名で親しまれ、マドリード・リアリズムと呼ばれる作家達の中でも、優れた作家として、国内外で高い評価を得ていたそうです。
会場には、人間技とは思えないような、緻密に描写された具象画が並び、特に90年代以降にモノクロで描かれた作品は、遠目には銀塩写真と見分けがつきません。ただしその精密さは、”スーパーリアリズム”と呼ばれるイラストレーションとは異なり、現代の写真プリントに似た質感を追うのではなく、明らかに、西欧絵画の歴史の延長線上にある、描かれた物(人)が経てきた時間や、描かれた場所の気配を感じさせる表現でした。

もっとも、絵画について大した造詣も無い私は、会場に展示されている作品から、それ以上は読み取ることができず、ただただ、人並み外れた技術(と、作品を完成させるまでの、気の遠くなるような手間を淡々とかけ続ける精神)に、びっくりするだけでした。もし、会場に展示されていたのが、作品と、作品に対する解説だけだったら、私はこの体験を、わざわざブログに書こうとはしなかっただろうと、思います。

でも会場には、何箇所か、解説文だけでなく、磯江さん自身が生前遺した言葉も、掲示されていました。例えば、写実について、

「見つめれば見つめる程、物の存在が切実に写り、超現実まで見えてくることがある。そこまで実感し、感動を起こす精神の存在をもってして初めて、実を写せるのではないだろうか?習い覚え、慣れ親しんだテクニックだけに頼って機械的に描かれた画面に、実が宿るはずがない(1991年)」

と言う言葉を遺しています。いわゆるスーパーリアリズムと、磯江さんの写実性が全く異質なのは、こうした姿勢が画面に現れているからなのでしょう。またこの言葉は、「物」を「楽譜」に置き換え、「描く」を「演奏(または歌唱)」に置き換え、「画面」を「音」に置き換えれば、そのまま音楽にも当てはまると思います。クラシックでも現代音楽でもジャズでもロックでも、先人達をはるかに凌駕する技巧で演奏したり歌ったり出来る人は、今はもう、日本でも珍しくありません。完成された”形”の継承を目指す人も大勢居ます。でも、プロとかアーティストと言われる人の中でも、磯江さんの言うような「実」の表現を目指している人は、どれほど居るのでしょうか?

更に晩年は、写実について次のようにも語っています。
「写実は出発点であって、最終目的だとは思っておりません。いうならば写実を極めることは、写実でなくなってしまうと考えています。物を良く見るということは、物の成り立ちを見極め、やがてそれを解体、解剖することだと思うようになったのは、私の個人的発想ではなく、長年住んだスペインで、見ることを極めてきた、ヨーロッパ美術の歴史が、教えてくれたことだと確信しております(2006年)」

19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパで、風景やポートレートの(作家それぞれにとっての真実)探求の過程で、後に印象派と呼ばれる表現が生まれたり、見えない物を描こうとする未来派の活動があったり、対象を文字通りか解体し、再構成するキュビズムが生まれ、色彩や形それ自体の美的価値の追求から抽象画が生まれた歴史を考えれば、更に古くは、レオナルドダビンチが、画家であり解剖学者でもあり、「空気」という物の成り立ちの研究から飛行機械を考案した技術者でもあることを考えれば、磯江さんの上記の言葉は自然に受け入れることが出来ますが、日本では未だに、視覚表現(絵画)でも聴覚表現(音楽)でも、表現、評論、鑑賞、研究が、もちろんそれらの全てではないでしょうが、表面的な様式毎に分断されがち、分断された断片毎に権威化されがちで、写実が写実でなくなるような、様式横断的な(特定の方法論から開放された)プロセスを学んだり、研究したり、実践したり、奨励する活動は滅多に見られません。

また、(上記の言葉とも通じる内容ですが)自分と”写実”との関係について、
「日本人にとって日本語が母国語であるように、私にとって写実は、対象の再現であって私自身の表現方法でもあるのです。しかし、西洋美術のもっともプリミティブな形で、根本でもある写実表現は、絶対的に信頼できるものでありながら、それを自分の問題として進化させてゆくことが出来ない限り、
”本当の写実絵画=普遍性を持った絵画”とはいえません(2005年)
と、語っています。

これも、視覚表現に限らず、身体表現にも、音楽にも、そのまま当てはまると思います。クラシック音楽でもジャズでもロックでも、過去の評価基準に頼っていたり、過去の名演を目指しているうちは、モノマネにはなっても、音楽という「表現」にはなり得ないと思います。ジャズの世界で、金銭的な安定や成功を目指して活動する人達が、しばしば「営業系」と蔑まれるのは、彼らの大半が、ジャズを自分の問題として進化させようとせず、大衆に認知された既存の評価軸(=金になり易い)に合わせた活動しか、していないせいでしょう。


コンテンポラリー(現代○△)と呼ばれる表現領域においてさえ、過去に確立された様式や方法論にいつまでもすがったり、祭り上げたり、家元争いのような場面を目にすることが珍しくない日本の芸術界は、何か大事なものを、学び忘れているのではないでしょうか?


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