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zoom RSS 産業界と同じ構図(コモディティ化するアート)その1

<<   作成日時 : 2013/01/09 01:29   >>

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今日、知人の紹介で、埼玉県立近代美術館内の展示室で開催されていた、SMF(さいたま Muse Forum)という団体の発表(SMFさんなすび展) を見てきました。埼玉県立近代美術館では丁度、ベン・シャーン展や、地元絵画グループの展覧会が開催中で、これらの会場に並ぶ作品と、さんなすび展で紹介されていたSMFの活動を比較することで、日本で、カタカナで”アート”と表記される活動が抱える課題が、はっきりと見えてきました。

SMFの活動の詳細についてはここでは触れませんが、同団体のHPを読めば分かる通り、少なくともコンセプト(企画立案)の段階では、とにかくいろいろなアイデアを試そうとしています。 その数の多さで見れば、非常にクリエイティブな活動なはずなのですが、会場のある埼玉県立美術館で開催されていた他の展示と比べると、”アーティスト”という肩書きで活動している訳ではない日曜画家の作品と比べても、あまりに存在感が欠けている。刺さるものがなく薄っぺらい。

それはなぜなのか? SMFの活動の大半が”作品”というモノ作りではなく、その記録はビデオや写真や文字でしか残せないからなのか? そんなことを考えながら、会場に展示(掲示)されていた過去の活動の記録や、計画中(支援者募集中)の企画や、会場で無償配布されていた資料を何度も読み返しているうちに、ひとつ気づいたことがありました。

他ならぬ作家”自身にとっての創作”がほとんど語られていない


表現の方法論、具体的な手段の説明、鑑賞者(というか居合わせた)人の反応、アートと社会の関係、それは、それこそ掃いて捨てるほど雄弁に語られている。けれど、活動に参加しているアーティスト当人にとって、なぜその方法なのか?なぜその素材なのか? なにゆえ表現者というアイデンティティーで生きているのか? その記述が殆ど無い。 個々の表現について問わないまま、換言すればどのような営みを語っているのかがぼかされたまま、「アート」という言葉だけが一人歩きしている。 存在感の乏しさの理由が、そこにあることに気づきました。

切実さが語られない、作家(あるいはパフォーマ)自身の実感が語られない。それが、ベン・シャーン展や、絵画グループの作品展会場に並んでいた作品たちとの決定的な違い。

その違いは、表現手法が具象画ではなく抽象だから、とか、物理的に実在する対象を描くのではなくコンセプチュアルだから、とか、作品ではなくパフォーマンスだから、とか、方法論に由来する事柄でないのは明らかです。ピカソが描いたゲルニカは、表現手法が当時としてはきわめて奇抜であったにも関わらず、芸術鑑賞に関わる予備知識の有無に関係なく、不特定多数の人に現代戦争の恐怖を伝えた故に名作として歴史に残ったのだし、コンセプチュアルアートやパフオーマンスの先駆者の一人であるヨーゼフ・ボイスは、(彼の話の真偽は一部疑問視されているとは言え)、自らの作品やパフォーマンスと、自らの半生との関わり(表現行為に至る必然性)を、平易な言葉で語っていたことが記録に残っています。


言われてみれば、日本で、とりわけカタカナで語られる「アート」の大半で、切実さが語られていないのではないか?その疑問に辿り着いたとき、それは日本のアートに限らず、(日本)社会に広く見られる構図であることにも気がつきました。

その2」へ続く。 

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