さとうひろし 一有権者のブログ 

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zoom RSS 2016年9月29日追記:便乗アート

<<   作成日時 : 2016/09/29 02:00   >>

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東日本大震災以来、不景気の長期化もあってか、大昔の「セクト」「動員」とは違った形での社会運動が、少しずつ広まってきたように見えます。デモもイベント化し(只のガス抜きで終わってしまうという弊害はありますが)、アーティストと称する人達が、それぞれに工夫を凝らして参加するようになっています。それは裾野を広げるという意味では、プラスの効果があったかも知れません。が、体を張って行政や極右の暴力と闘っている人達の真似事を、安全な場所から後追いでやることまでを、「表現」だと言って賞賛する”芸術家”や評論家、大学教員がいるのは、ちょっと困ったことだと思います。

福島第一原子力発電所のメルトダウンから2ヶ月ほど経ち、政府が隠していたメルトダウンや、ベント・水素爆発による広範囲な放射能飛散が明らかになった後、東京の渋谷に展示されている、岡本太郎の「明日への」に、いたずら書きをした人達が居ました。
http://chim-pom.syncl.jp/?p=custom&id=13339952
http://www.cinematoday.jp/page/N0032438
http://numero.jp/news-20130426-chimpom-pavilion/
http://d.hatena.ne.jp/dark_side_01/20110522/1306073148

当時このいたずら書きを、芸術であるとか、純粋な行為であると書き立て、賞賛している評論家や、大学教員を、少なからず見かけましたが、考えてみれば、原爆の被爆者の方々へのケアなど核兵器の問題は、もう半世紀以上前から問題になり続けていて、この問題にちなんだ作品の制作も、数限りなくと言って差し支えないほど行われています。ましてやいたずら書きが行われたのは、福島第一原子力発電所から大量の放射能が関東から南東北に至る子範囲に飛散したことが明らかになり、大きな社会問題になった後でした。

芸術というのは、もっともらしい”論”を組み立てれば、どんなことでも(机上の空論としては)正当化できますが、

このいたずら書きは、社会問題の表現としても数十年遅れの後追いで、3.11関連の表現としても、マスメディアが報じた原発事故問題に後から便乗して、点数稼ぎをしたに過ぎません。

表現の自由は大切ですが、その、自由という権利を行使して行われた行為の質は、まず同業者の中で厳しく問われるべきしょう。


最近も、中垣克久という人の作品が、展示会場である東京都美術館から、撤去を求められる事件がありました。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014022202000144.html
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014021902000136.html
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-02-20/2014022001_04_1.html
http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014021901001680.html
http://www.huffingtonpost.jp/2014/02/18/nakagaki-katsuhisa_n_4812562.html

理屈(建前)の上では確かに、東京都美術館の要求は、表現の自由に対する侵害になるでしょう。けれど、表現の自由を主張する、ましてや署名を集めてまで美術館側を糾弾するのであれば、自由を主張する行動には、必ず、自由を主張して世に出す価値があるのかを、厳しく問いただす姿勢がなければなりません。

問題の作品はネット上でも一時大きな話題になり、私も作品を撮影した写真を何カットも見ましたが、少なくとも新聞やネットに掲載された写真を見る限りでは、彼の制作は、日頃体を張って、警察や極右の暴力と闘っている、運動家や弁護士、住民運動に関わる方々の真似事を、安全な場所から、後追いでやっている便乗に過ぎません。造形作品としての、美術的な配慮はあるのかもしれませんが、現実世界の、安全ではない場所で闘っている人達へのリスペクトは、どこにも見当たりません。

この作品の展示でも、極右による破壊活動などで真っ先に危険が及ぶのは、作者本人ではなく、作品が設置される美術館の職員です。自民党政権が、ヘイトスピーチを行う極右集団の暴行を、その模様がYouTubeに投稿されていても容疑者を検挙しないなど、極右の活動を事実上容認している現状を考えれば、職員に危険が及ぶ可能性は充分考えられます。

安全な場所から、現場で闘っている人達の真似事を、闘っている人達へのリスペクトも表現せずに、後追いでやることが、創作活動なのでしょうか? 表現行為なのでしょうか?

表現の自由とは、そんなことのためにあるのでしょうか?

建前に甘えた行動は社会からの信頼を失い、表現者自身の首を絞めることにしかならないでしょう。


2016/09/29 追記:

こうした便乗は、視覚表現の世界の中でも、(失礼な言い方かも知れませんが)主流からは距離のあるところで活動している人達の、スタンドプレイだろうと思っていたのですが、名のある美術館に作品が収蔵されている作家の中にも、似たり寄ったりのことをしている人が、居るようです。

昨日、東京都写真美術館で開催中の、「杉本博司 ロスト・ヒューマン」を見に行ってきたのですが、2つある展示室のうち一つは、アンダーグラウンドな演劇の舞台装置が、いくつも並んているような構成で、その、舞台装置のような展示物ひとつひとつに、架空の人物によるモノローグの体裁をとった、コンセプトの解説が掲示されていました。

ところが、そのモノローグの殆ど全ては、これまで書籍やインターネット上の記事に、何度も掲載されていた、おなじみの話(人類滅亡や現代文明崩壊の危険性を指摘した警鐘)ばかり。明らかに、数多くの先人達(学者やジャーナリスト等)の功績を拝借した内容であるにもかかわらず、モノローグの元になった先駆者達への言及や謝辞は、会場内にも、展覧会の公式ホームページ上にも、一切ありません。

表現行為というのは基本的に、アイデアそのものではなく、アイデアを、どのように表すか?の問題です。
従って杉本氏の展示におけるモノローグも、オリジナルとは異なる人称、言い回しで記載されているので、形式的には表現行為と言えます。
けれど、表現の仕方よりも、むしろ表現の意図(コンセプト)が評価の対象となる現代芸術において、他者から拝借したアイデアを断りもなく、自分自身が創造したアイデアであるかのように展示することが、容認されて良いのでしょうか?

少なくとも、アイデアの提供者に礼の一つも無いというのは、人としてどうかと思います。一連の展示の中で、杉本氏自身の創作らしいのは、杉本氏自身が活動する業界を批判した、「コンテンポラリー・アーティスト」のモノローグだけではなかったかと思います。

既に多くの美術館に作品が収蔵され、スタンドプレーをする必要などないはずの知名度がある作家が、還暦を過ぎてから、なぜわざわざこんなことをしたのか? 

私にはわかりませんが、この展示は、コンセプチュアルアートの中の、反面教師のひとつと、言えるのではないかと思いました。


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