さがゆき即興音楽ワークショップ

昨年秋のことになりますが、私は、ヴォーカリスト&ヴォイスパフォーマであるさがゆき氏が指導する、「第14回さがゆき即興音楽WS合宿」に、写真記録係として参加しました。 幼い頃からレコードや、親戚達の演奏でジャズに親しんださがゆき氏は、北村英治グループ、中村八代グループの専属ヴォーカルとしてプロのキャリアをスタートさせた後、ジャズのみならず現代音楽から邦楽まで、様々なジャンルのスペシャリストとの共演を通じて独自の表現論を形成してゆきました(彼女の経歴は下記の通り)。 http://www.aruma.be/profile.htm 即興演奏というのは、普通の音楽とは別種の、特別な表現様式であるかのように扱われることが多く、それ専用の学会を作る人達も居ますが、彼女が ”完全”即興 と語る即興は、様々な楽曲表現を生み出す根本原理とでも言うべき位置に置かれ、様式や技法を排した所に、時間芸術表現としてどんな本質があるのかが、厳しく問われます。 そのステージは、(ジャズミュージシャンによる即興セッションではしばしばあるものの)、クラシック音楽や、その延長である現代音楽における即興とは大きく異なり、演奏において、事前の約束事、規則の類(音階や和声、リズムなど)は全て排除され、演奏の開始・終了のサインすらありません(実際に、演奏者が観客と談笑している状態から突然、観客席から演奏が始まることもある)。 こうした自らの即興演奏に関し、彼女はしばしば弟子達に、「私の音楽の基本は全て、(完全)即興の中にある。」と語っています。実際、彼女のライブは、楽曲の様式で分類すれば、ジャズ、ブラジル音楽をはじめ多岐に渡ります。彼女が、自らの音楽に基本と語る完全即興をステージで披露するのは、年100回を超える彼女のライブステージの中の、1割あるかないかですが、声による即興が珍しくはなくなった現在も、彼女の卓越した発声コントロールと表現の幅広さは際立っています。 彼女の即興ワークショップではまず、自身の心のありように対して、目を開く大切さが指導され、次いで、心身の底から湧き出る、テクニックの披露ではない、表現者自身にとって必然性のある音(というより心身の動き)への自覚が促され、更には、音楽はもとより、武道も含む身体表現全てに通じるような基礎としての”グルーヴ”についての指導、セッションを通じての、共演者の音を聞きながら自らの応答をコントロールする(単に合わせるだけでもばらばらでもだめ)練習へと、指導は進みます。 その指導内容は、音楽というより、身体表現の指導と言っても差し支えないようなワークショップで、実際、これまでも、今回も、音楽以外の表現者(舞踏家、役者、パフォーマなど)が参加しているのですが、今回特筆すべきは、初日の夜、その場の流れで、即興セッションが、音を出さないセッションへと進んだ点ではないかと思います。 身体表現全てに通じるような彼女の音楽理念からすれば、当然起こり得る展開ですが、そうは言っても、毎回、ミュージシャンが大半を占めるこのワークショップで、音の無いセッションが成立したのは、今回が初めてでした。 (参加者からの感想とワークショップの模様を撮影した写真は、下記の通り) http://blog.goo.ne.jp/crescer_music/e/1400262d1fbf8025246f183e684537d9 http://blog.goo.ne.jp/crescer_music/e/6561bbe410d38f32951f4e0ee8198d4c かつての勤め先で、先天性高度難聴の子供達が、アニメの音楽に合わせて夢中で踊っている(彼らには音は全く聞こえず、かすかな空気の揺れと、床から振動として伝わる音楽のリズムしか感知できない)のを、何度となく目撃していた私にとっては、 人間にとっての、音楽の本質が、垣間見れた瞬間でした。 以下、参考ですが、さがゆき氏の即興パフォーマンスは、私の、YOUTUBEチャンネルにも一部収録されていますので、よろしければご参照願います。 https://www.youtube.com/user/THEMRSKYOU/videos
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民主主義の基本

評論家や識者と称する人の受け売りで知ったかぶりをする前に、まず候補者本人(の事務所)に話を聞いて、自分の頭で考えましょう。 http://www.youtube.com/watch?v=RRNUDqQxTF8&feature=share
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信仰とは

友人から紹介してもらった講演録です。 恐れ入りましたと言うほかないです。今の自分は、「勉強になりました」と言える段階にすら、至ってないでしょう。 http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/honda.htm
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絵画というより建築そのもの(応挙寺を見て)

先日、所用で兵庫県を訪れた折、日本海に面した香美町にある、大乗寺(通称”応挙寺”)を見学してきました。円山応挙が十代の頃、苦学する彼に大乗寺の住職であった密蔵上人が学資を支援したのが縁で、後年、絵師として名を馳せた応挙が、大乗寺客殿建築に際し、若い頃の恩返しにと、一門の精鋭を率いて大乗寺の障壁画、欄干の木彫りを手がけたのだそうです。 日本の寺院では通常、本尊となる仏像の周囲に、四天王像、あるいは十二神将像を配置しますが、大乗寺の客殿では、十一面観音像を安置した中央の仏間の周囲を、10の部屋(2階部分も入れると12)が取り囲み、それらの部屋の襖や壁全てに、応挙一門の手で様々な風景が描かれていました。近年の研究によると、描かれた襖絵は単なる風景画ではなく、仏間を中心とした曼荼羅図となるよう、それぞれの作品テーマが選ばれ、普通は四天王像で表現される価値観も、風景画に置き換えて描いたのではないかと、考えられているそうです。 それぞれの部屋に描かれている絵を漫然と見ていただけでは分かりませんが、それぞれの部屋に描かれた絵は、「水の流れ」を通じて隣室とつながっています。仏間に描かれた須弥山から流れ出た水は、仏間の南側(山側)の部屋を巡り、最後は仏間から見て北(海側)にある「山水の間」に描かれた海に流れ込んでいます。 寺院の現実の立地に合わせ、仏間から見て山側には山を描き、海側には海を描き、なおかつ作品の題材を四天王が象徴する価値観を表現するように選ぶ。 単に美しいだけでなく、現実世界の風景との符号を図りながら寺院に相応しいメッセージを込めるという重層的な空間構成は、現代社会での仕事に置き換えれば、単なる壁画制作ではなく、建築空間のデザインそのものと言えるかも知れません。 足の無い幽霊像という、前例の無い斬新な表現を開拓して一世を風靡した応挙は、大乗寺の襖絵ではオーソドックスな様式からの逸脱を避けながらも、卓越した写実力を発揮し、現代の目から見ても単なる様式に留まらないリアリティを感じさせる作品を残しています。制作に参加した他の絵師達の作品も、卓越した写実力で描かれ、見ていて飽きません。猿の間を手がけた長沢芦雪だけは、下絵を描かず、立てかけた襖に即興で一気に、水辺に遊ぶ猿達を描いた(毛並みは筆ではなく刷毛で描いた)そうですが、その描写はあくまで写実であり、このプロジェクトが一貫したコンセプトに貫かれていた様子が伺えます。 大乗寺の襖絵制作に、最晩年の8年をかけた応挙は、制作完了直後、63歳の生涯を閉じたそうです。60歳を過ぎた頃から病気がちとなり、病気で視力も衰えた応挙ですが、大乗寺に残した作品が絶筆ではなく、その他の仕事を幾つも抱えながら死を迎えた晩年だっそうです。 苦学して絵師となり、現代社会で言えば企業戦士のような生涯を過ごした応挙は、斬新かつリアルゆえに恐ろしい幽霊画も生み出しましたが、作品の殆どは地道に写実を追及したもので、一世を風靡した幽霊像も、病気がちな妻の姿がモデルだったそうです。 表面的な様式ではなく、様式に力を与えるための、裏方のように位置づけられた写実力の鍛錬の結果として、斬新な表現を生んだ(しかしそこにも固執しない)応挙。彼の存命時の人物評としては、面白味に欠けるという評価もあったそうですが、近年の研究では、彼の(単に写実的というだけではなく)、時として凄みを感じさせる表現は、彼の、決して平穏ではなかった生い立ちと、その境遇から逃げずに向き合った彼の生き様だからこそ生まれた、という見方も出ているそうです。 現在の私達が、芸術と呼んでいる行為は、ちょっと表面的な方法論や様式に、とらわれすぎてはいないでしょうか?その結果、新しい世界が広がるどころか、かえって、芸術がその力を発揮する場を、狭くしてはいないでしょうか? 生前は、良くも悪くも地味と評されていたらしい円山応挙による、200年前の空間プロデュースを見て、いろいろ考えさせられました。
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ユン先生

先週のことになりますが、12/19に地球環境パートナーシッププラザで開催された、ユン・ホソップ(Yoon Hoseob)氏の講演を聴講してきました。環境問題への配慮を訴えるデザイン”Green Design”の指導者かつパフォーマとして、長年国内外で数多くの実績を積み重ねて来たユン氏が開口一番語ったのは、自身に対する”反省”でした。 2010年、チリを大地震が襲った際、ユン氏の元にも国際NGOからすぐに復興支援の募金要請がきたそうです。ユン氏はさっそく、被災者のための行動をはじめましたが、その後しばらくして、チリ地震で被災した(人間以外の)動物を救援するための募金要請が届いたとき、ユン氏は、自分の頭が、人間のことでいっぱいになっていたのに気づいたそうです。 長年環境問題に取り組み、生態系破壊の問題にも長年関わってきたはずの自分が、いざとなると動物のことを忘れてしまう。これは大変バランスが悪いと、ユン氏は反省したそうです。彼はまず、チリ地震によって気づかされた、自らの思考のバランスの悪さを反省する弁を述べた後、自身や教え子たちの業績の紹介をはじめました。 この講演会は、同じ会場で開催されていた”グッドデザイン =グリーンデザイン”展の一環として開催され、同展では韓国国民大学のグリーンデザイン講座(ユン氏が作った講座で韓国初のグリーンデザイン講座)の学生の作品と、ユン氏の作品が展示されていました。同展のタイトルは、グリーンデザインこそが真のグッドデザインデアルというメッセージを込めたもので、ユン氏の講演も、個々のデザインのテクニカルな説明より、同氏の生活信条(アパートの3階にある自宅から、毎日自転車を担いで階段を昇り降りして、自転車通勤をしていることなど)や環境問題に対する考え方の説明に、多くの時間が割かれました。 そのため講演では、同氏が手がけたデザインの紹介だけでなくパフォーマンスの例、例えば、新聞社の発行部数水増しのために、販売されることなく捨てられる新聞紙を拾っては、それに絵を描き、行く先々で新聞社同士の不正な競争を告発して回ったエピソードや、具体的な用途も決まらないまま埋め立てが進む西南海(アジア最大の干拓だった)で、埋め立て工事開始前も開始後も、破壊される(た)生態系の大切さを訴えるパフォーマンスを行った話にも、時間が割かれました。 いわゆる脱原発運動にも協力しているユン氏は、胎児の超音波断層撮影映像を放射線マークのように並べることで、後世にまで残る負の遺産への懸念をアピールする作品も作っているのですが http://vimeo.com/39629081 https://picasaweb.google.com/110276236141169187570/20121224?authuser=0&feat=directlink (画面左側に並ぶ文字は、国名と、その国で稼動している発電用原子炉の数です) 脱原発の国際会議に参加したときの感想として、 「(大きな問題の)一部だけを大きく取り上げているような印象を受けた」 と、講演の冒頭で述べた反省と同様、バランスの悪さを指摘していました。 実際ユン氏は、再生可能エネルギーの普及を訴えるポスターのデザインでも、単にエネルギー供給の変革をアピールすれだけでなく、”節約”の大切さもアピールしています。下記のURLがそのポスターですが、顔の周りの矢印の傍らに書かれいるハングルは、太陽光、節約、水力、節約、地熱・・・というように、再生可能エネルギーと、”節約”が交互に書かれているそうです。 http://www.greencanvas.com/msg4/message792/message792.html 更に節約については、「1/3にするのは難しいが、1/2なら難しくはない」と、ペンキの使用量を減らした路上サインのデザイン案など、具体的な実践例も紹介していました。また「環境汚染を減らしたいから」と、世界的な著名人であるにもかかわらず、よほどの必要性が無い限り、飛行機を使うような遠距離の出張は避けているそうです。 http://www.greencanvas.com/gallery21/025.htm http://www.greencanvas.com/gallery26/008.htm ともすれば特定の問題だけに議論が集中しがちな、環境問題やエネルギー問題に深く関わりながら、常にバランスを大切にするユン氏は、環境問題の啓発や、いわゆる”環境にやさしい”デザインの実践だけでなく、民間企業や個人からの記念品製作依頼など、”グリーン”とは直接関係の無いデザインも手がけていますが、彼はそこでも廃品を利用するなど、環境問題への注目をさりげなくアピールしています。 http://www.greencanvas.com/gallery21/023.htm 講演の最後にユン氏は、ある女性からの、「長年勤めた鉄道会社を退職する父に贈る記念のトロフィーを製作して欲しい」という依頼について触れ、「あまりにうれしくて電話を受けながらその場でデザインを描き始めた」と、そのときのエピソードを嬉しそうに紹介していました。 国内外で数多くの実績を残した著名人であるにも関わらず、講演ではまず自分自身の反省から語り始め、結果のアピールよりも、問題に望む姿勢や、日常の生活態度や人々との関わり方について、多くの時間を割いて語ったユン氏はまさに、韓国を始め、日本や中国といった儒教文化圏において、 先生と呼ぶのに相応しい方ではないかと思いました。 思想や論理をアピールするばかりでなく、韓国だけでなく他のアジアの国々へも出かけて子供達と触れ合う時間を大切にして、 http://allabout.co.jp/gm/gc/197384/ 著名人になった今も、事情によっては名も無い個人からの依頼(親への退職祝い)を喜んで引き受けるユン先生の活動は、何よりも、周囲の人達との誠実な関わりを大切にしているように見えます。その姿勢は、顕在化した特定の問題について特定の方法による改善だけを掲げる多くの社会運動に比べ、実は運動としても、幅広い立場の人達に耳を傾けてもらえる、安定して強靭な、正に「持続可能」な運動なのかも知れません。
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加速する私達

昨日のことになりますが、東京は外苑前のギャラリー「ときのわすれもの」を久し振りに訪れ、長年の友人である井桁裕子氏の個展を見てきました。 これまでも、ユニークな作品を数多く発表してきた井桁氏ですが、その立ち位置は「人形作家」であり、言語的なストーリーやテーマをダイレクトに想起させる発表は、少なくとも私の記憶には残っていません。実在の人物をモデルにした作品も数多く手がけていますが、そうした製作でも、彼女の作品は、モデルについての何かを第3者に語るというより、モデルとの個人的な関係、個人的な思い(と言うより感触と言うべきか?)を、作家自身と親しい人に語るかのような印象がありました。 しかし、今回の個展での表題作「加速する私たち」は、実在の人物(吉本大輔門下の舞踏家高橋理通子)をモデルにしながらも、モデルの個人的属性から開放された、作家本人の、日常生活での思いが、ストレートに表現されいるように見え、作家本人と話してみたところ、やはり作家本人の問題意識の表現であることが理解できました。 凛々しく美しい女性はまっすぐ前を見つめ走り続けるが、その肉体は何かに激しく焼かれ燃え尽きつつあり、彼女の後ろで、ちぎれた乳房をつかみ必死で追いかける赤ん坊(次の世代)の視界は、飛んできたぼろ布でさえぎられている。 無自覚のうちに生を消耗させながら、私達は何のために、何処へ向かって加速し続けるのか? さまざまな社会問題を、現象面から語るのは、知識さえ溜め込めばいくらでも出来ます。でもそれが、自分自身の日常に対する問いかけにつながっているか? 少なくとも 表現 というのは、自分自身への問いかけに根っこがあって、はじめて成り立つのだろうと思います。 井桁裕子氏は、勉強不足をごまかすために付け焼刃の”コンセプト”を振り回す今時の多くの自称”アーティスト”とは正反対に、長年かけて造形力を磨きつつ、その造形力で何をするかを模索し続けている人。 今回の個展についての、作家本人のコメントは、下記をご参照ください。 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50030394.html
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軍事クーデターを舞台に描かれた人間ドラマ

記録的な低視聴率と評判のNHK大河ドラマ「平清盛」は、視聴率という先入観無しで見れば、(登場人物の中年期がそれに相応しいメイキャップになっていない点を除けば)充分世界に通用するレベルではないかと思います。近年良好な視聴率をマークしたとされる他の大河ドラマ(篤姫、こう、など)と見比べれば、「平清盛」は内容が悪いのではなく、大河ドラマの視聴者層が既に、中身の濃いドラマなど期待しない人々になっていたと、考えた方がよさそうです。 それはそうと、「平清盛」では、従来の源平合戦物語ではあまり語られてこなかった、当時の日本の政治情勢を前面に出したストーリー展開になっているという点で、非常に興味深いです。平家の盛衰を、平清盛という稀有な政治家のドラマとして描いた点が、このドラマのユニークな点であり、また最近の大河ドラマファンからそっぽを向かれた理由かも知れません。 源平盛衰を現代の目で見れば、源氏・平氏共、政府軍を構成する軍閥であり、その平氏の中の一門である伊勢平氏(後の平家)が三代に渡りじわじわ財を蓄え、遂には政局を左右する存在となったわけです。 そうした時代背景の中、宋国の文化・政治研究を通じて、貨幣経済の途方もない潜在力に気づいた御用学者信西はやがて後白河上皇のブレーンとなり、平家三代目棟梁平清盛と手を組み急進的な政治改革を手がける。一方清盛は、朝廷への忠誠と悪政に苦しむ庶民との板ばさみで悩んだ末に武士の世を目指した父の遺志を引継ぎ、自ら政争へと身を投じる。ほどなく政府(朝廷)は内部分裂状態に陥り、やがて軍部(武士)を巻き込んだ軍事クーデターの応酬が始まる。 信西は保元の乱で政敵の粛清に成功するものの、数百年封印されていた死罪を復活させたことで、政府内の対立は収まるどころか更に熾烈なものとなった。死罪復活で粛清を進める信西により身内の処刑を命じられたことで、源氏、平家の行く末も大きく分かれた。平清盛は身内の処刑を強いられてもなお、新しい国作りという大儀のため信西と行動を共にしたが、父の殺害を強いられただけで、政治的にも経済的にも何ら得るものが無かった(その裏には、武士の世を阻止するため、故意に武士同士の対立を画策する後白川上皇の思惑があった)源義朝は、クーデター(平治の乱)を起こし信西を抹殺する。しかしこのクーデターが源平の対立を決定的なものとし、源氏(河内源氏)一門は圧倒的な軍事力を誇る平家によって、壊滅状態に追い込まれ、義朝は敗走先で自害。 しかし、「武士の世」という大義のため心を鬼にして人を殺して来た清盛は、大義の盟友でもあった義朝の子の命を奪うことが出来ず、義朝の嫡男頼朝を、源氏代々伝わる太刀を持たせた上で伊豆へ流した。義朝の側室の子である牛若(後の義経)は、そのまま都へ住まわせた。 清盛の情が、やがて戦乱の世で平家を滅ぼすことになる。 平治の乱の後、武士の中で一人勝ちとなった平清盛は、自らが思い描く国(経済体制)作りに邁進するが、それは平家一族のみを富ませる結果となり、朝廷内で一人勝ちとなった後白河上皇(後に出家し法皇)や、信西の愛弟子であり後白河のブレーンでもある西光との思惑のずれが、時を追って目立ち始める。 こうした政情の中にあって、後白河法皇の妻である建春門院滋子(清盛の義理の妹)は、卓越した政治手腕により清盛と後白河法皇の共闘を何とか維持していたが、滋子の病死によって、政権は再び内部分裂状態に陥り、清盛率いる平家内部の結束にも亀裂が広がって行く。 政府(朝廷)内はやがて清盛追放のクーデター画策と粛清の応酬に陥るが、自らの余命を悟っていた清盛は、自らが目指す国づくりを急ぐため粛清の手を緩めようとはしなかった。しかし清盛が朝廷内の権力闘争に明け暮れている間、都からはるか離れた東国では、民を苦しめるばかりの平家を打倒すべく、流罪となった頼朝をリーダーに掲げた北条一族を中心に、武士達の組織化が進み、後白河側も権力掌握の切り札として源氏の利用を企み・・・・ もし平家物語が、政治ドラマとして描かれていたら、ジェークスピアに500年先行する偉業になっていたかも知れません。 蛇足: そして平家は源氏に滅ぼされますが、源氏の棟梁頼朝は、朝廷(=後白河法皇)からの影響を排除するため、たった一人の血縁である義経を、そのスポンサーである奥州藤原氏もろとも滅亡させ、血縁者を失ってしまう。頼朝の子は北条氏に暗殺され源氏は滅亡。最終的には源氏でも平家でも朝廷でもなく、伊豆の一豪族に過ぎなかった北条氏が権力を掌握し、源平合戦は幕を閉じます。後世から見れば、源氏は最後まで利用されるばかり。源平合戦は、日本版三国志でもあります。 頼朝に一目惚れし、頼朝を平家打倒のリーダーに育て上げた北条政子本人が、源氏の血を絶やしてまで北条一族を栄えさせようとしたのか? それは神のみぞ、知るところなのでしょう。
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良くも悪くも身体が決め手(大野一雄フェスティバル2012より)

現在横浜で開催中の、大野一雄フェスティバル2012 の中で行われた公演を、二つほど見てきました。それぞれ、演出に趣向を凝らした公演でしたが、良くも悪くも、ダンサー達の身体表現力で全てが決まってしまうことが、強く印象に残った公演でした。 一つ目の公演は、大橋可也&ダンサーズと、空間現代による 「ウイスパーズ」と「断崖」の二本立て公演。主催の大橋氏が”ハードコア・ダンス”と呼ぶ、一貫したストーリー性を排しながらも、様々な舞台や映画のワンカットをランダムに配置したような構成で、音楽(と言うより音響)も、楽音よりもノイズ・爆音を主体に、音声、微小音(微小音量での再生のため、何とマイクロフォンをスピーカとして使用)など主体としたハード・コアな構成。 二本共、非常に意欲的な試み、ではありましたが、ダンサー(今回は全員女性)が登場した途端、良い意味での緊張感が崩れてしまいました。ダンサー達は一応、振り付けをこなすだけの筋力と柔軟性を備えていたようですが、一人を除き、体幹や指先の動きにまでは配慮が行き渡らず、そのため存在感が希薄で、非常にしっかりと構成されていた音響に比べ、踊りの方は、単に女の子達がごちゃごちゃもつれ合っているという印象で終わってしまいました。 二つ目の公演は、藤本隆行構成による、「Node/砂漠の老人ver.β」。こちらの公演は、一つ目の公演とは正反対に、構成・演出の貧困さがダンサーの表現力で救われていた公演でした。 ”砂漠の老人ver.β”は、ヴァイオリンの生演奏やプロジェクターによる映像投影、CGによる映像制作、LEDを使った可変色証明等、様々なテクニックを盛り込んだものの、一つ一つのテクニックの使い方に、生演奏の内容も含めて目新しさや実験的要素を見出し難い上(エレクトロニクスを制御するソフトのプログラミング作業には、難易度の高い部分もあったそうですが)、それらを貫通する世界観が何ら感じられない散漫なものでした。上演終了後の、藤本氏のトークも、あれこれ知識を披露するばかりの散漫なもので、この人がなぜこの世界でフロントランナーのように言われているのか?非常に奇異な印象を受ける内容でした。 けれど、公演に出演した男性ダンサー(吉本大輔、白井剛カズマ・グレン)達のパフォーマンスは、表現者と呼ぶに相応しい内容で、正直言って、構成、演出は、余分な雑音と言っても差し支え無い内容でした。特に吉本氏、白井氏の表現力はダンサーの域を超え、動かずとも立ち姿そのものに、オーラが漂っていました(ダンサーと舞踏家の違いというのは、おそらくそのあたりにあるのでしょう)。 音楽の公演が、良くも悪くも演奏家の技量で内容が決まってしまうのと同様、 良くも悪くも、ダンスは身体が勝負ですね。 余談: 大橋可也&ダンサーズの出演メンバーの中で、唯一存在感を感じさせてくれたダンサーは、メンバーの中でもひょろりとした体型で中性的、顔立ちも童顔でしたが、メンバーの中で唯一(とまで書いてしまうと他のメンバーに失礼かも知れませんが)、妖艶な雰囲気を醸し出していました。 その妖艶な彼女の動きを良く見ていると、振り付けを、単に手足の動きとしてこなすだけではなく、体幹のポージング、動き、肩の動きと顎との位置関係、足先、手の指先のポジションや動きにまで、コントロールが行き渡っているのが分かりました。ダンスの表現力が、どこから来るのか?良い勉強になりました。とりわけ顎と肩との位置関係の大切さに気づけたことは、今回の収穫でした。
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勢いだけでは続かない(具体美術協会の末路)

先週、国立新美術館で開催されていた、”「具体」-ニッポンの前衛 18年の軌跡 ”を見てきました。全体的には、おおらかで、のびのびした印象の作品や記録ビデオが多く、今時の小難しい現代芸術とは、良い意味で違った趣が印象的でした。 http://gqjapan.jp/2012/07/03/nact/ ただ、それ以上の要素があるかというと、疑問を抱かざるを得ませんでした。確かに1950年代までの作品やパフォーマンスには、当時の既成概念には無かったであろう、自由奔放な発想が数多く、見ていてとても楽しいのですが、1960年代に入ると、50年代の彼らの作品群自体が既成概念化し、実験的、開拓的要素は見出し難くなっていきます。 会場で配布された資料や、展示見学後に図書室で読んだ資料を見ると、具体美術協会の作品は全て、リーダーとされた吉原治良個人による、いいか悪いかの二者択一で、出品が許されたり、許されなかったりしたそうです。また協会メンバーが、(自身の問題意識からではなく)吉原氏に評価される事を目指して作品を作っていたという評論が記載された資料もありました。 更に、1960年代以降、具体美術協会の活動が国際的に高く評価されたというのは、実際には当時、「アンフォルメル」という自らが提唱したコンセプトを世界に広げようとしていたフランスの評論家、ミッシェル・タピエが、具体美術協会の活動を、アンフォルメルと位置付けた上で宣伝したというのが実態だそうです。 そして、ミッシェル・タピエに取り上げられた後、具体美術協会の作品は、屋内に常設展示できるような”作品”、特に平面作品が中心となり、1960年代から加わったメンバーの作品群も含め、同協会の作品は、数ある”現代美術”活動の中に埋没していったように見えました。作品が、平面中心になっていった経緯については、吉原が作品の販売を重視するようになったからだ、という評論や、(多彩な表現を継続させられなかった点が)吉原の限界だという評論もあります。 1970年の大阪万博でのイベント「具体美術まつり」では、巨大ロボットや、イベント用に製作された自動車など、いわゆる”作品”ではない制作物が多数復活するものの、具体美術協会は1972年に、吉原治良の急死によって解散となります。 吉原が、自らの活動に具体美術という名前を付けた理由は、「精神が自由である証を具体的に提示したい」という願いからだったそうですが、具体美術協会の活動には、いつまで自由な精神が宿っていたのでしょうか?「誰もやっていないことをやれ」とメンバーを叱咤激励した吉原ですが、具体美術はいつまで、新しくあり続けることが出来たのでしょうか? 私は、1960年代はじめ、ミッシェルタピエによって祭り上げられた時点で、具体美術教会は既に、自由な精神(運動としての価値)も、着想の新しさも、失っていたのではいかと思います。具体美術協会は表向き自由を標榜しながらも、実際には吉原治良個人の価値判断に支配され、ミッシェル・タピエという個人の野心に合わせることで知名度を広げて行った。 けれど作家個々の探求の裏付けが弱い「新しさ」とは、要するに、既存の方法論や価値基準への捕らわれの裏返しに過ぎず、だから容易に売ることへの誘惑に引きずられ、最後(大阪万博)は、現実への無関心を良しとする(知恵や想いの継承という芸術作品本来の役割とは無縁の)政治的宣伝に、自ら進んで利用され、終わってしまったのではないかと思います。 会場で上映されていた、「具体美術まつり」の映像を見ると、確かにエンターティメントとして楽しいし、(当時としては)技術的に実験的であり演出法として斬新でした。このイベントは、その後の日本でのエンターティメントに、少なからぬ影響を与えたのかも知れませんが、このイベントに、表現としての新規性や、なにか定まった視点なり継続性のある探求の片鱗があるかと言うと、首を傾げざるを得ませんでした。 率直に言って、具体美術協会の活動は、美化され過ぎではないかと感じました。 けれど、 現在のコンテンポラリが、具体美術協会の末路を克服するような創造力を持ち得ているかと言うと、疑問が残ります。視覚にせよ聴覚にせよ、その大半は、自らの商売のために先人達の試みを、思想、あるいは方法論として固定化し、かつ権威化することで自身と大衆の虚栄心をくすぐり、金を回しているだけ。だから「~に師事」という徒弟関係をプロフィールに記載しなければいけなくなる。とまで書くと言い過ぎでしょうか? そもそも精神の自由(芸術の創造性)と(何かを造る)手法の新規性とは別問題だと思います。具体美術協会は、創造性=手法の新規性、としてしまったところに、限界があったのではないかと思います。具体美術協会は自らを権威化することができず、リーダーの死と共に終焉しましたが、今の日本の現代美術や現代音楽の大半は、大阪万博で能天気なショーを企画した、末期の具体美術協会と同じ、いや、エンターティメント性に乏しい分、具体美術協会以下なのかもしれない。そのような視点も持てるなら、国立新美術館での”「具体」-ニッポンの前衛 18年の軌跡 ”は、非常に有意義な企画展だと思います。

官製差別(教育を受ける権利を奪われた人達)後編

前編からの続き) 最初に書いたように、ろう者は中途失聴者とは異なり、「障がい」と言うより「マイノリティ」と呼ぶべき境遇の人達で、そのアイデンティティと不可分の言語(日本のろう者の場合は日本手話)と、文化(ろう者特有の生活様式やマナー)を共有しています。しかしこれらの言葉や文化は、文部科学省による手話排除政策によって、ろう学校の中だけでなく、社会でも一層厳しく拒絶されるようになり、多くのろう者達を苦しめてきたそうです。 ろう者の子を持つ親が、手話を使おうとするわが子に手を上げる、学習の機会を奪われた上に無能扱いされる。何かをやろうとしても(ろう者)だからダメと決め付けられる。このような差別は、親もろう者の場合には、ひどくならないようですが、ほとんどのろう者は、聴覚に異常の無い(いわゆる健聴者の)両親から生まれて来るそうです。この日の講演で、具体例は殆ど出ませんでしたが、米内山さん(ろう者)によると、悲惨な事例はいくらでもあるそうです。 最近では、聴者のための手話学習サークルも増え、一見すると、ろう文化への理解が広まったようにも見えますが、殆どの手話サークルで指導されている手話は、ろう者が使う日本手話とは文法が全く異なる、日本語対応手話だそうです。この手話は、日本語を、その語順に従って、擬似的に手と指で表現する言葉ですが、語順が日本手話と全く異なる上(日本手話の語順は英語に類似)、文法規則の中に、表情や上半身の動き(日本手話では不可欠)が無く、ろう者にとっては非常に理解しにくい表現だそうです。ろう者の米内山さんは、日本語対応手話にはろう者のアイデンティティの匂いが全く無いと、日本語対応手話の乱用に警鐘を鳴らしていました。 筆者補足: 日本語対応手話は、日本語の単語を、逐次(日本語の語順に沿って)手や指の動きに置き換える表現で、手指日本語とも呼ばれます。どちらの言い方を使うかは論者の政治的スタンスにより、今回の講演者である、玉田さんや米内山さんなど、日本手話がろう者のアイデンティティである面を強調する人達は、手指日本語と言いますが、ウイキペディアなどネット上では、日本語対応手話という言い方が優勢のようです。一部のテレビ番組の画面脇に出る手話通訳の映像は、日本手話と日本語対応手話が混ざっているケースが多いようです。 また、(健聴者対象の)手話サークルで指導する手話コーラス(音楽に合わせて手話を演じる)も、その大半が日本語対応手話で演じられるにも関らず、それをろう者の前で披露しようとするグループが後を絶たないことから、手話コーラスは少なからぬろう者から、「ありがた迷惑」と非難されていることも、前の勤め先で知りました。 米内山さんによると、日本の手話サークルの数は世界一だそうですが、例えば北米には、手話サークルに相当する活動自体が存在しないそうです。ろう者のコミュニティーの外部で、手話指導(ましてやろう者が使わない手話の)をするという発想が、北米には無いそうです。 このように、ろう者を取り巻く、社会の現状について、批判的な認識を示した講演者のお二人でしたが、お二人共、自ら積極的に社会に溶け込み、一歩一歩、状況を改善してきた実績がある上での批判なので、非常に論理的、具体的で、対案も明確であり、説得力がありました。 玉田さとみさんは、日本手話の導入を頑なに拒絶する文部科学省を尻目に、まずは、日本手話を教えるフリースクールを開設し、その実績を元にNPO法人バイリンガル・バイカルチュラルろう教育センター(BBED)を立ち上げ、更に2008年、当時の構造改革特区制度を利用し(実際には何度も応募・落選を繰り返し様々な苦労があったそうですが)、都内品川区にろう児のための私立学校「明晴学園」を、米内山さんと共に創立しました。その傍ら、ろう者達から「聴者が日本手話を身に付けるのは不可能」「聴者がろう児を手話で子育てするのは不可能」と言われながらも、日本手話を学び、今ではろう者と、日本手話で会話をしています。 一方米内山明宏さんも、ろう者劇団の立ち上げ、運営をはじめ、様々なメディアでの手話(ろう者向けの)監修など、多彩な文化活動の実績で、日本で最も著名なろう者の一人です。 学術の世界では、日本手話による書記日本語などの教育には効果が無いという意見も根強い(ただしその事を示す具体的データも無い)ようですが、今回の研究会では、玉田さん達が、これまでのバイリンガル(日本手話と書記日本語)教育実践の成果に基づいて制作した教材(書籍やDVD)が、複数紹介されました。また米内山さんからは、近年普及が進んでいるスマートフォンやタブレット端末で再生できる、ろう者(ろう児向け)のコンテンツ日本手話の動画を収録したコンテンツ出版への協力が、要望として述べられました(出版関係者が集まる会合なので)。 その他、質疑応答の場で出た話としては、 最近、さまざまなハンデを持つ人達への「情報保障」が、法的に定められる動きが出て来たのは良いが、何が情報保障かを、当事者でない人達が一方的に決めている現状には問題がある。(玉田さん) ろう学校や手話サークルでの、日本語対応手話の氾濫で、日本手話の使い手が減り、ろう者のアイデンティティーが奪われる懸念を抱いている(日本手話などの、Sign Language だからこそ伝えられる心情が多々ある)。(米内山さん) 手話に限らず、言語教育にはネイティブの指導が不可欠。日本の言語教育はネイティブの指導が無いので、ろう者教育でも英語教育でも成果が出ない(米内山さん)。 (北米では聴覚障害者でも航空機パイロットのライセンスが取得できる事等を例に挙げ)「ろう者だから無理」を無くすのが、大人の仕事。(米内山さん) (「聴覚障害者を音楽会に誘って良いものだろうか?」という質問に対して) ろう者でも、音楽への接し方や好みは人それぞれなので一概に言えない。相手が「行きたい」と言ったら誘えば良い。特別に気を遣う必要は無い(米内山さん) ろう者にも音楽を楽しんでもらおうなど、聴者の文化をろう者に押し付ける発想自体が大きなお世話(玉田さん)。 日本におけるろう者教育が立ち遅ている、一番の原因は文部科学省の政策ですが、それを助長するような心は、私達一人一人の中にも潜んでいるのではないでしょうか?官僚だけを責めても、問題は改善されないような気がしました。 また、一口に「ろう者」と言っても、考え方は様々で、日本手話、日本語対応手話に対する意見もいろいろあるようです(私は以前、ろう者の方々のブログで、日本語対応手話や手話コーラスを、ありがた迷惑と批判する人達と、聴者がろう者を理解するためのステップの一つとしての効用を認め、表立った批判を避けている人達がいる事を知りました)。現状では、先天的な聴覚障害者の全てが、ろう者のコミュニティーに入り、日本手話を身につけられる訳でもなく、問題は複雑です。 私は、玉田さん、米内山さんのスタンスを支持していますが、彼らとは異なる意見については、下記などをご参照願います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8D%E3%81%86%E6%96%87%E5%8C%96 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E8%A9%B1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8D%E3%81%86%E6%95%99%E8%82%B2
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官製差別(教育を受ける権利を奪われた人達)前編

先週末、久しぶりに出版UD研究会の会合に参加してきました。今回のテーマは、「ろう児・ろう者にとっての読書」で、話題は主に、未成年のろう者(ろう児)の学習環境についてでした。私にとっては、十数年前、当時の勤め先での社会貢献活動の一環として勉強した、ろう者を取り巻く社会環境についての、再勉強になりましたが、改めて驚いたのは、日本の文部科学省による、執拗なまでの手話の排除でした。 ろう者とは、先天的か、言語獲得前の幼い時に、音声言語獲得に必要な聴力を失ってしまった人達(約1000人に一人の確率で生まれる)のことで、音声言語を獲得してから聴力を失った中途失聴力者とは、全く異なる世界(音というものがはじめから存在していない)に生きている人達です。ろう者は、ろう者同士のコミュニティーの中で暮らす限りにおいては、社会生活に何ら支障が無く、障害者というより、マイノリティーと言った方が適切な境遇の中で暮らしています。 現在、日本のろう者が日常会話で使っている、「日本手話」と呼ばれる身体言語(手、指の動きだけでなく、表情や上半身の動きにも文法規則がある)は、明治11年、京都の聾学校(京都盲唖院)で使われたものが起源だそうで、昭和のはじめ頃には聾学校だけでなく、ろう者の間で広く使われていたそうですが、1933年(昭和8年)、鳩山一郎文部大臣が、全国の聾学校での手話使用を禁止し、ろう者の教員は次々とろう学校を解雇されました。それ以来現在に至るまで、聾学校では、口話法(話者の唇を見て音声言語を理解させる訓練法。現在では補聴器も併用)が唯一の教授法として教育指導要領に定められ、これを生徒に強制し続けています。 しかし口話法は、ろう学校の生徒に強制されてから80年が経過したにも関らず、教育法としては、極めて例外的なケースを除き、学習効果が見られないことが広く知られています。実際日本語には、唇(口)の動きでは全く判別できない単語が多数あり、ある程度以上の聴覚機能がないと、いくら補聴器を使っても、視覚を頼りに音声言語を判別することは、物理的にも不可能であることが分かっています。 文部科学省が現在も採用する口話法(現在は補聴器が併用されるので「聴覚口話法」と呼ばれる)のせいで、ろう児のほとんどは学校で基本的な学力を身につける機会を奪われ、高等教育に対応できるレベルの書記日本語(読み書き)を身に付けるのが厳しい環境に置かれているそうです。 この日の研究会の、講師の一人であった米内山明宏さん(ろう者)も、ろう学校で口話法を強制された一人ですが、ろう学校の授業では、(さっぱり分からないのに)教師の唇から目を離すことができず、発話の訓練では、(自分で発音の確認が出来ないので)、自分の発声が上手く行ったかどうか?いちいち教師の顔色を伺はなければならず、「普通に息が出来ない」状況だったと語って(もちろん日本手話で)いました。では、ろう学校での授業になじめなかった米内山さんが、どこで現在のような流暢な書記日本語(読み書き)を学んだかというと、たまたま近所に住んで居た、ろう者のおんじさんからだそうです。この方が実は、先に触れた、1933年の手話禁止で、ろう学校を解雇された国語教員に方だったそうで、米内山さんは、日本手話だけで、書記日本語の文法(ろう者にとって理解しにくい、て、に、を、は、の使い分け方も含めて)を教わったそうです。 その方は、「もし生まれ変わることが出来るなら、もう一度聾学校の教員になって、(自分が解雇されたせいで)途中で放り出す結果になった生徒(ろう者)達に、最後まできちんとと読み書きを教えたい」と語り、教職を辞めざるを得なくなったことを、後々まで悔やんでいたそうです。 つまり、 日本では、1933年に手話が禁止される前、既に、日本手話による書記日本語(読み書き)の指導法が存在し、教育現場で実践されていた、ということです。 日本手話は、既に言語として、ろう者の間に定着していたので、文部科学省がろう学校での手話を禁止した後も、日本手話は継承され続け、近年は、実際にろう学校でも、表向きのカリキュラムには存在しないものの、手話による指導も増えつつあるそうです。2011年には、障がい者基本法の改正において、手話が「言語」であると明確に規定されましたが、日本の教育指導要領では未だ、手話による指導が認められておらず、ろう学校の授業で手話の使用が許されるのは、国語や数学などの基本教科以外、学校独自の裁量が許される授業に限られているそうです。例えば札幌聾学校では、従来、口話法の指導に充てられていた「自律活動」と呼ばれる授業で、日本手話の指導が行われているそうです(けれど大半の聾学校では残念ながら、ろう者が使う日本手話とは文法が全く異なる、日本語対応手話と呼ばれる特殊な表現が用いられているそうです)。 西欧では1980年代以降、ろう者コミュニティーの間で共有されている手話を言語と認め、ろう学校教育にも公式に手話が導入されているそうですが、日本の文部科学省は、手話につていは未だ、「黙認」するに留まっています。 この日の講師の一人である、玉田さとみさんは、1999年に生まれた次男が先天的な聴覚障害(ろう者)だったことから、ろう教育に関ることになったそうです。 ろう者には「日本手話」という言語が継承されていることを知り、口話法教育の無益さも知った玉田さんは、最初はろう学校、次に教育委員会、最後に、監督官庁である文部科学省へ、ろう学校への手話導入(教育指導要領の中に、ろう者の母国語として手話の授業を取り入れ、ろう児が日本手話で読み書きその他の勉強が出来るようにする)を訴えたそうですが、文部科学省側は、 「手話は研究されていない(実際は数多くの研究例があるので嘘)、実績もない(1933年以前は日本手話による授業が行われていたので嘘)」 という、少し調べれば嘘だと分かるような理由をつけて、要請を拒否したそうです。 更に、「それならばこれから、自分の子供を使っても良いから研究して欲しい」と頼んだところ 「子供を実験台にできない」 と、あたかも、研究目的の授業というもものが存在しないかのような説明で、手話による教育の研究を拒否したそうです。 更に、(聴覚)口話法の実績の無さを指摘したところ 「ある面では問題があることは承知している」 と、ごまかしたそうです。 玉田さんが後に、「全国ろう児をもつ親の会」を設立し、米内山さんと共に、日本手話の授業を行う学校法人「明晴学園」を創立したのは、上記のような、文部科学省による、執拗な手話排除(特に日本手話排除)があったからだそうですが、文部科学省による執拗な手話排除は、ろう学校の中だけでなく、ろう者の家庭にも、暗い影を落とし続けてきました。 後編に続く。
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要するに奢り2(ユニバーサルデザインシンポジウム聴講記)

6月29日、臨海副都心のメガウエイブで開催された、「ユニバーサルデザインシンポジウム 2012」に参加してきました。 各企業の発表は、その会社の”現場力”が反映された内容で良い勉強になったのですが、気になったのは冒頭の基調講演の内容でした。 基調講演は、産学連携推進機構理事長の妹尾堅一郎氏による、「デザイン起点型イノベーションとスマートデザインの可能性」というタイトルの講演だったのですが、講演内容は、具体的な商品やサービスの紹介を除けば、10年以上前から、指摘されていた課題ばかりでした。デザインや、バリアフリーや、ヒューマンインターフェースの世界では、遅くとも今世紀初めまでには(古いものは1980年代から)広く認識されていたトピックが、今でも人を集めるイベントの目玉になっている。ではいったいこの10年はなんだったのか? 例えば、 妹尾氏が配布した資料に記載されていた >イノベーション=社会・産業・生活等の「価値システム」の基本モデルを大きく変えること という話を、(デザイナーでも企業家でもマーケティング担当でもない、技術者だった)私が始めて知ったのは、1990年代前半でした。こうしたイノベーション(当時は価値創造と呼ばれる事も多かった)をやらなければ製造業が生き残れないだろうことは、当時研究開発部門でも共有されつつありました(そして後年、各社共懸念した通りの事態に陥った。当時中国や韓国の凄まじい技術革新は予想されていなかったが、価格競争の激化により、年を追って利益率が下がるだろうことは予想されていた)。 >「事業起点型イノベーション」の方法論としての「デザインドリブンイノベーション」 *ここで言うデザインとは、新たな価値形成、商品設計、ビジネスモデル構築も含む広義のデザイン の必要性も、1990年代には日本国内でもしばしばメディアに取り上げられていた課題です。 また妹尾氏がスマートフォンの特徴として掲げた、シンプル、直感的操作、ワクワク感の重要性も、現在のパソコンやタブレット端末の実現を予言した(実現を目指して研究していた)アラン・ケイ氏が1970年代に指摘していたことは、コンピュータサイエンスの世界では広く知られており、1980年代には、アップルコンピュータ社のMacが、その具体像として発売されていました。 つまり日本国内では、20世紀末からその必要性が指摘されてきた機能(サービス)を具現化したビジネスが未だ皆無で、課題解決が未来の話になっている(棚さらしにされたまま)ということです。やるべきと分かっていることを、事情はどうあれクリアできなかったのですから、国際競争力が落ちるのは、残念ながら自明です。 広義のデザインにおける、多岐に渡る課題を、「スマートデザイン」というキーワードで互いに関連付けた妹尾氏の手腕にケチをつける気は毛頭ありませんが、日本企業における(広義の)デザイン上の課題を手際よく解説した妹尾氏の講演によって、日本の、とりわけ大手メーカーの、10年以上に渡る(怠惰に近い)停滞が、改めて浮き彫りになった印象がありました。 その他の講演については下記の通り。やはりトヨタのマンパワーと資金力が際立っていました。 「ロボットと暮らす社会に向けて トヨタの介護医療支援ロボットへの取り組み」トヨタ自動車パートナーロボット部部長 玉置章文氏: トヨタの数あるロボット開発のうち、医療介護関連に限っての事例紹介だったが、開発中の機種が3つや4つではない模様。並行して開発している機種は二桁に届くかも知れない。また、講演では詳細説明が無かったものの、研究のアプローチが、普通の工学系の研究室(機能を一つ一つ検証)や学術界(仮説を一つ一つ、別々の調査・研究で検証)とは全く異なる模様。仮説検証の積み上げではなく、医療・介護現場の人達からの要望に基づき、フィールドテスト用の試作機(検証すべき機能を多数搭載)をダイレクトに制作し、定量評価も一つ一つの機能検証というより、現場の人の評価を数値化する事に重点が置かれている印象(個々の機能検証用のデータは自動収集されるように初めから設計されているのかも知れない)。その上で、脳波で制御する電動車椅子のデモ映像を見せるなど、基礎研究レベルの技術力もさりげなくPR。2010年代中に、何らかのパートナーロボットを商品化する予定とのこと。スピーチも全く淀みなく過不足なく、極めてプロフェッショナルな印象l。 「あそびで社会に貢献するという発想 -ボーネルンド30年の取り組みから」 ボーネルンド取締役広報室室長 村上裕子氏: 輸入玩具・遊具の販売を通じて、子供の生活環境に合った遊びを開発・提案しているという触れ込みだったが、実際の講演内容は、輸入元(の国であるデンマーク)や顧客側のトライアル紹介が大半で、同社による自発的な問題発見や、改善に向けてのトライアル、顧客からのフィードバックに対する自発的な取り組みがどの程度あるのか(会場で配布された資料を見ても)よく分からず、他人のフンドシで相撲を取っている印象はぬぐえなかった。講演内容の時間配分も、半分近くが具体性を欠く思想表明に割かれており、怪しい健康食品・器具の営業と同類の印象を受けた。もし自分が顧客側の担当者だったら、この企業との提携には慎重にならざるを得ないだろう。もっとも、演台に立った同社の取締役が、同社の現在の、現場(子供達が遊んでいる場)での取り組みを、充分に把握していなかった可能性は残る。 「「いつもの便利×もしもの備え」シリーズ開発への取り組み」 パナソニック アプライアンスマーケティング ジャパン本部本部長 原正一郎氏: 表題の商品シリーズ開発裏話の紹介。ポイントは、①全て既成商品の仕様変更か商品化済み技術の応用であること(技術開発成果ではなく潜在需要発掘の成果) ②既存の慣例やルールを打ち破り、従来は不可能だった迅速な商品化と物流に成功したこと。 の2点に集約され、講演内容は、新商品の開発だけでなく、東日本大震災直後の、被災地への乾電池提供も含まれていた。「何をすべきか」が明確であれば、そして、お客様、社会への貢献が、上位概念として(海外拠点も含む)全社で共有できれば、パナソニックのような巨大組織であっても、既存のルールを打ち破ることができるという好例。ただ気になったのは、個々の商品はみな、どこかで見た(海外のベンチャーが同様な商品を開発済みでネット通販等で購入可能)ものばかりだった点。品質や、大量供給の安定性は日本の大手家電の方が格段に優れているだろうが、構想力はどうか? ひょっとしたら日本メーカーは、社内のデザイン・イノヴェーションにコストと時間を割くより、世界の優れたデザインを、(デザイナーにとっても)適正な価格で仕入れるようにした方が、世界規模で見た場合、より大きな社会貢献が出来るのではないか?という気がした。 以上。
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パッシングを仕掛ける政治家達

お笑い芸人の河本準一氏の母親が、生活保護を受給していたと、大きな騒ぎになっていますが、冷静に考えるとこれは違法行為でも何でもなく、稼ぎのある息子に扶養してもらわないのがけしからんという、必ずしも普遍的とは言い難い価値観に基づくパッシングです。ましてや相手は公人ではなく、芸能人の母親とは言え一般人です。このような事実上のリンチを、自民党の国会議員(片山さつき)までもが率先している異常さに、私たちは気づくべきでしょう。 そもそも親族に扶養させるという考え方自体、その是非を問わなければいけない問題です。日本国憲法では婚姻を当事者の合意による(親族の都合は関係なし)と定めていることからも分かる通り、少なくとも建前上は、世帯を分けて暮らす人は互いに独立した存在であり、社会保障も本来は、世帯単位、あるいは個人単位で考えるべきものです。基本的には、親族の年収は関係ありません。扶養義務というのも基本的には社会的に自立可能な段階にまで成長してない未成年を、成人(通常は親)が守り育てる義務のことで、その義務も、義務を果たせるよう社会制度がサポートするのが大前提です。扶養者の経済状況や、被扶養者の発達過程にハンデがあるなど、特別な事情があるときは、個人ではなく社会制度が扶養義務を果たさなければいけないのも、言うまでもないことです。 もちろん日本には、親族が弱い者(特に年長者)の面倒を見るという慣習があり、その慣習のおかげで安定を保ってきた地域社会が数多くある事実は否定し難いので、その慣習も軽視はできませんし、私も感情的には、裕福な子供が貧しい親を扶養しないという話を聞けば、釈然としない印象を持ちます。ただしこうした価値観に基づく親族の扶養はあくまで、配慮した方が良い場合もある慣例の中ひとつに過ぎず、強制すべき規範ではないし、ましてやルールとは言えないでしょう。 今回、報道されるや否や、自民党の片山さつき議員が率先して行った、河本準一親子へのパッシングは、その直後に小宮山厚生労働大臣が、生活保護関連法の具体的な改定案(支給額の10%削減、扶養困難の立証責任)を発表するなど、偶然にしては出来すぎの、タイミングの一致があります。河本氏の母親の生活保護受給は、マスメディアが報じる前から、生活保護制度を変更する口実に使うパッシングの材料として、あらかじめ狙いをつけられていた疑いもあります。少なくとも、生活保護の適用規制や支給額減額を考える勢力が、スケープゴートを探してた可能性は充分に有り得ます。 http://mainichi.jp/select/news/20120526k0000m010086000c.html http://mainichi.jp/select/news/20120526k0000m040123000c.html (情報源を確認できない話ではありますが)、扶養義務については、以下のような指摘もあります。 「日本の生活保護申請時に、家族への扶養困難証明が義務化される話を相方(米国籍)に話したら眉を寄せた。理解不能。「独立してるんだから、家族に連絡取ること自体わからない。責任は申請当事者にしかないじゃん」→当然の回答。アメリカでは扶養義務はないし、そんな考えも浮かばない。」 https://twitter.com/#!/ChieMatsumoto また、一連の報道は、日本の生活保護制度が、あたかも不正受給で脅かされているような印象を与えるものですが、実際には、本の生活保護受給率は、2011年で1.6%であり、ドイツの9.7%、フランスの90%以上など、諸外国と比べても異常に低いことを、弁護士の小山哲氏がツイッターで報告しています。 つまり統計上、日本の生活保護は、不正受給よりも、本来生活保護を受けるべき人に保護を与えない、不法かつ非人道的支出切り詰めの方が、桁違いに大きな問題だということです。 ところで、河本親子への批判を率先した、自民党の片山さつき議員は、河本さんの母親に、受け取った生活保護費を返納させましたが、これには法的根拠はありません。国会議員が法的根拠のないことを一般市民に要求(表向きは提案という言い方ですが)する事が、果たして容認されるのでしょうか? 河本氏の母親の生活保護需給は、福祉事務所の承認を経て支給されていたことが、既に明らかになっています。 http://mainichi.jp/mantan/news/20120525dyo00m200017000c.html 更に片山さつき氏は、自身のパッシングを正当化するために、吉本興業所属の芸人に過ぎない河本準一氏を、「公人」であると、社会通念から逸脱した独善的主張をしています。どんなに有名になった人であっても、法に基づく社会的権限が無い限り、公人にはなり得ず、私企業の従業員に過ぎないお笑い芸人は、紛れもない私人です。 http://mainichi.jp/sponichi/news/20120526spn00m200002000c.html このような、国会議員による、社会通念から逸脱した行動(事実上の、特定の一般市民に対するリンチ)が批判されない日本の政界の不健全さにも、私たちは注意すべきでしょう。 NPO法人自立生活サポートセンター・もやい代表理事である稲葉剛氏は、この騒動についてツイッターで、 「「生活保護の前にまず扶養」「発達障害を家庭で予防」…。DV、虐待、子どもの貧困、自殺、引きこもり、介護、障がい者の自立生活など、この数十年間、私たちの社会は家庭内に押し込められてきた問題を一つずつ外に出すことで社会の責任を果たそうしてきた。その時計の針を戻すのは誰か?」 「生活保護と最低賃金はリンクしている。今回の河本氏の件で生活保護の基準を下げることは、同時に最低賃金も下がることに繋がる。すると、社会的に弱い立場の方の賃金、パートや派遣の賃金はもっと下がる→相対的貧困率がさらに上がる→負のスパイラルに。雇用と社会保障はセットで考えるべき!」 と、パッシングの背後にある政治動向に警鐘を鳴らしています。 また同じくツイッターで、河本準一氏の母親へのパッシングで隠蔽されかねない問題として、 「横浜市ケースワーカー「不正受給ばかり問題にされているが、ケースワーカー側の説明不足が原因になっていることが多い。収入申告などの制度が複雑で、新米ケースワーカーは自分でもわかっていないことがある。」」 と、本来議論しなければならない問題点を、具体的に指摘しています。 私たちは、パッシングで人気を稼ぐ政治家に惑わされることなく、本当は何が問題なのか? 落ち着いて考える必要があると思います。片山議員による、あまりに見え透いた扇動と、それに応じた小宮山厚生労働大臣の言動については、早速慎重な対応を求める提言がなされています。 http://seikatuhogotaisaku.blog.fc2.com/blog-entry-33.html 追記: 片山、小宮山議員が茶番劇で隠そうとして生活保護の実態が、下記で報じられています。女性が生活保護申請に来ると、「体で稼げ」と言って申請受理を拒否する、一部自治体の対応は、隠蔽されている違法行為の、氷山の一角でしょう。 http://diamond.jp/articles/-/19744

絵画に学ぶ即興(連休美術展巡り その2)

先の連休中はもうひとつ、「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」も見に行ってきました。 彼が20年以上に渡る創作活動の末に辿り着いたアクション・ペインティング、とりわけ彼の名を世界に知らしめた、オールオーヴァーと呼ばれる、画面のどこにも重心や方向や構図らしきものを作らない作品について遺していた言葉が印象的でした。 キャンパスの上に塗料を垂らすプロセス自体については、「経験からして――塗料の流れをコントロールすることは可能であるように思われます。大部分はね。私は用いません――偶然は用いません――なぜなら、私は偶然を否定しているからです」と述べ、偶然に任せるのではなく自らの技能によるコントロールを重視する一方、「絵の中にいる時、私は自分が何をしているのか気づいていない。」「私は変更したり、イメージを破壊したりすることを恐れない。なぜなら、絵画はそれ自身の生命を持っているからだ。私はそれを全うさせてやろうとする」と語り、そのコントロールによって、意図的に何かを描くことも否定していました。 ひとつひとつの動作は表現者の技能に裏付けられている一方、その技能に、”意図”を介入させない。これは視覚表現・聴覚表現を問わず”即興表現”に共通する考えではないかと思います(即興は、偶然とは違う)。私の友人さがゆきが、自らの「完全即興」を語るときも、指導するときも、「ほんとうにいい演奏のあとは「自分がガンバった」のではなく、「自分は何もしなかった」と感じる。」、「普段は思考力を高め、演奏では忘れる。顕在意識が潜在意識に移った時、本物になる。」、など、常々同じようなことを語っています。 そしてさがゆきが、しばしば同じステージで即興と楽曲との間をシームレスに行き来するように、彼女より半世紀以上前の時代に新たな表現を開拓していたポロックも、オールオーヴァーに留まる事なく、やがてオールオーヴァーと抽象的な構図、更には具象との自由な融合を模索するようになりました。けれど当時のアートシーンはそれを衰退と評価し、彼は再びアルコールに溺れ、自殺同然の事故死を遂げてしまいました。 こうした先人達の挫折の積み重ねがあって、現在の自由な表現が、表現として受容される社会があるのだなと再認識した次第です。それと同時に、ジャクソン・ポロックのように歴史に名を残した先人達にとって、彼らが到達したスタイルは、それぞれ、彼ら自身の人生にとって必然性のあたもので、必ずしも他者に必然性があるとは限らない、ということも、再認識させられました。
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5/11追記:色彩の説得力/言葉の胡散臭さ (連休美術展巡り その1)

先日の連休では、三つの美術館に行きました。一つ目は、東京都現代美術館で開催されていた「靉嘔 ふたたび虹のかなたに」  およそ40年、基本的な方法論を変えずに制作を続ける靉嘔(5月に81歳になる今も現役の作家)氏の回顧展。虹色で描くと言っても、作品の多くはオレンジと緑色が印象が残るように配色されていて、統一感、安定感がありました。見ていて気分が良い作品群。芸術として(の実験性・創造性)はどうかという議論はあるかも知れませんが、アニメキャラのパクりで財を成すことをアートだと吹聴しまくる、日本の視覚芸術界の一派のように、アーティストに対する評価をミスリードする害を撒き散らす訳でもなく、「これでいいじゃん」と納得させられる存在感がありました。 同時開催されていた福島秀子、田中敦子(いずれも故人)の回顧展も、日本におけるコンテンポラリー・アートの概念を創った先人達の軌跡として、良い勉強になりました。 水戸芸術館で開催されていた、「ゲルダ・シュタイナー&ヨルク・レンツリンガーー力が生まれるところ」も、結晶の析出を利用した作品群など、配色の美しさが印象に残る企画展でした。 これだけセンスがあるならば、何もコンテンポラリ・アートなどに閉じこもっていなくてもいいのに、と思わせるような、理屈抜きで楽しめる作品が多かった一方、布の切れ端やら発砲スチロールのかけら等、様々なかけらに、それにまつわる物語の説明をキャプション付けて「Sweet Little Nothing」と名づけたり、様々な人の涙を標本ガラスの上で乾かし、顕微鏡で覗かせて「Tear Reader」という作品にするなど、無理やりコンセプチュアルな体裁を整えたかのような作品もありました。 評論家や学芸員に媚びるようなわざとらしさ。彼の地ではひょっとしたら、”現代芸術家”の肩書きを振りかざせるような、コンセプチュアルな体裁があった方が、安定した社会的地位や生活が出来るのかも知れませんが、作者に美的センスがあるだけに、一部の取り組みが、ある種の見苦しさに感じられました。 この企画展と同時に、公益法人水戸芸術振興財団の主催で開催されていた増本泰斗展は、失礼ながら、これに輪をかけてわざとらしく、中身の薄い展示でした。 会場入り口で配布されていた資料に記載された、長文に渡る説明によれば、作家は様々なワークショップを「悩み、学ぶための実験」として行ったことになっていましたが、外国人へのインタビューを納めたビデオを除けば、他は幼稚な戦争ごっこでしかなく、ワークショップの模様を撮影したビデオにも、資料の説明文にも、このワークショップならでは「学び」や「悩み」はおろか、作品のテーマになっているはずの戦争についても、ワークショップの参加者達が、普通に戦争体験を見聞きする以上の発見をした痕跡はありませんでした。この展示(ビデオ上映)の企画者である竹久侑氏(水戸芸術館現代美術センター学芸員)は、作家の増本泰斗が広島出身の両親から聞いた被爆体験を題材に作品を制作していると解説していましたが、何のことはない、他愛ない遊びを、あたかも社会的意義があるかのように見せかける、詭弁の技を披露しているに過ぎないと、認識せざるを得ませんでした。 水戸芸術館は、以前、ヨーゼフ・ボイスの回顧展で、彼が来日した際のインタビュー等を日本語字幕付きで紹介したり、非常に有意義な企画展も行っていますが、今回のような、「裸の王様」に出てくる仕立て屋同然の企画展は、芸術の振興どころか、芸術の自殺行為ではないかと思います。 コンセプチュアル・アートとは、その手法ならではの、アートでなければなし得ない新たな発見があって、初めて存在価値が生じるのであって、作品(あるいは何らかの行為)の存在価値を厳しく吟味する(その上で世に問う)ところに、芸術を支援する組織や学芸員の存在価値があるのではないかと思います。 表現の自由だからと言って、何をしても良い訳ではないでしょう。ましてや学芸員や公益法人は。 5/11追記: ファッションデザイナーの山本耀司氏は、下記のインタビュー終盤近く、作品作りついて 「作るものには嘘がつけない。言葉ではいくらでも嘘つけても」と延べています。 現代芸術についても、全く同じことが言えると思います。 http://fashionjp.net/soen/fashion/feature/yohjiyamamoto120507/
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アートを追うばかりでは本物を見失う

先週の金曜日、久々に加藤崇之さんのエレクトリック即興ソロを聴きました。  即興と言っても現代音楽系のように無理矢理不協和音や無音階にこだわる訳でなく、フリージャズのように暴れまくる訳でもない。楽曲、和音、無音階、ノイズ(電気由来だけではない)、爆音が、シームレスに織り交ぜられながら展開する演奏。これらを使い分けているのではない、組み合わせるのとも違う。彼の頭の中で鳴り響く、多次元空間上の音楽が三次元空間に投影されている。そう思わせるような一体感。  この孤高の世界を聴けるのは、ソロの時か、さがゆきとの即興ユニット”シナプス”として演奏する時くらい。  こういう演奏を聴いてしまうと、コンテンポラリだのノイズ系だのインプロだのエレクトロニクスだの・・・カテゴライズされたパフォーマンスの不自由さを、実感せざるを得ません。カテゴライズすると、パフォーマ自身の発想が貧困でもそれをごまかせるし自覚しなくて済む。カテゴりに所属しないと居場所が作れないような人の舞台を用意したり、カテゴリ自体を用意したり、彼らが自分達の半端さを正当化する理屈(方法論、音楽論の類)を用意することで、自分の居場所をつくっている人達もいるし。  加藤さんはソロパフォーマンスでの、独自の表現をカテゴライズしないし”論”じない。だから自由で創造的。でも論じないからアート(芸術)畑で語られることはないし、彼の普段のフィールドであるジャズ畑の中でさえ語られない。  何か新しい表現が生まれた時、それを世の中に広めるためには言葉が必要。いちいち長い言葉で説明していたのでは広まらないからキャッチフレーズ(カテゴリ)も時には必要。でも、キャッチフレーズ(カテゴリ)が広まると今度は断片的な技法だけの模倣が横行して、創造的な努力を面倒くさがる連中が自分を正当化する道具に(カテゴリが)使われるし、そういう連中を増やして地位を得ようとする評論家だの指導者だの学者だのがどんどん出てくる。様式の呪縛から開放されるつもりが、新たな呪縛(志の低い人達にとっては居心地の良い逃げ場)をひとつ増やすだけで終わりがち。 (少なくとも日本では)、世の中の文化の中で最も先鋭的に精神の自由を追求する(からこそ存在意義がある)はずの”芸術(アート)”でさえ、カテゴリ(呪縛)の集合体だったりする。 だから(少なくとも日本では)、芸術(アート)ばかり追っていると、本物を見失う危険があると思います。たとえば加藤さんみたいな人を。
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アートシーンなんて無い方がいい?

昨日、西荻窪のギャラリーで見た個展、タイトルは「グローバル社会におけるわが国の限界と障壁」という立派なもの。 作品制作の趣旨説明には、「わが国のグローバルにはいくつかの大きな問題点や摩擦が無い訳ではない。私は90年代初頭から作品を通じて、この問題に警鐘を鳴らして来た。しかしながら当時の社会では・・・再度日本社会に対して問題提起するものである」と立派な志説明が続く。果たしてその問題提起とは 日本映画界の”前バリ”のサイズがグローバル化されておらず、出演者だった某米国有名男優が激怒した・・・ 等々、何のことはない、漫才のボケネタの出来損ない。 要するに、発想・思考プロセスはお笑いのネタ作りそのものだれど、演芸のステージで真剣勝負するのを避けて、アーティストという肩書きと能書きで、自分が目立てそうな居場所を作っているだけ。 視覚・聴覚表現を問わず、真剣勝負から逃げていい気分に浸りたいだけという、逃げ道”アート”など、(困ったことに)今の日本では、そうでないアーティストを探すのが大変な位ありふれていますが、救いようが無いのは、ギャラリーはじめ、アートを支援したり広める側の人間達が、そういう輩をアーティストとして祭り上げている点。自由と、逃げ口上(言い訳)の区別を世に問う責任感が欠如している点。 この個展も、アーティストの支援者を自負する知人の紹介で行っただけに、日本のアートシーンの水準(志)の低さを、改めて痛感させられました。 私が、あるアーティストをずっと応援し続けているのをご存知の方も多いかと思いますが、視覚・聴覚表現を問わず、日本のアート・シーンとか、アート業界の類は、一度跡形も無く壊滅してしまった方が、むしろ文化が育つかもしれないと、正直思います。 逃げ口上を並べ立てる輩が珍しくもない、どころか数の上では多数派かも知れない集団を、何で世間が相手にしなくちゃいけないのか、ましてや何で応援しなくちゃいけないのか? アートシーンが絶滅し、「アート」とか「芸術」とかいう枠組(カテゴリ)が日本では忘れ去られてしまった後、アーティストとか芸術家とか言う肩書きを名乗らないでも、その生き様が、人々の心を揺り動かすような人だけが、語り継がれる存在になればいいのではないかと思います。 芸術表現に限らず、どんな人生を歩もうと、自由の探求イコール、自身を問い詰め(逃げやごまかしが無いか!)続けるプロセスだと思います。

スマートハウスに気をつけろ

日本では、(自家発電などの)余剰電力全量買取制度がまもなくスタートするのを受けて、家庭用自家発電や家庭用蓄電装置の販売合戦が加速していますが、こうした商品、いわゆるスマートハウスを普及させる事が、再生エネルギーの普及に貢献するのか? ドイツに住む環境ジャーナリストの村上敦氏が、ツイッターを通じて問題点を指摘しています。 村上氏のツイートを読むと、再生エネルギー普及に必要なのは、各家庭の余剰電力を買い取ったり、家庭毎に蓄電池を置くことではなく、電力の地産地消を目指した自然エネルギー発電設備を増やす事と、(蓄電をするのであれば)変電所などにまとまった規模の蓄電設備を設置すること。つまり、再生エネルギー普及でも、適切な規模を考えないと、逆効果になるようです。 以下、少々長くなりますが、村上氏が(日本時間)1月31日にツイートした指摘を引用します。  当時から様々な研究機関、専門家がすでに、各世帯にバッテリーを設置して、系統安定化を図るという試みに対して、国民経済学的にナンセンス、かつ、系統安定化に貢献しないと批判をおこなっていましたが、今月号のPhoton誌では、この辺の話が特集してあります。  要はバッテリーなんていう高価なものを、民生家庭のミクロの部分に押しこむことの経済的、技術的な合理性はなく、系統安定化対策が必要であれば、ピンポイントで最も有効なところに(例えば変圧地点など系統サイドに)入れこむことが大切という専門家調査結果が出てきたという話。  ということで、FIT2012年にも家庭配備の個別型のバッテリーの推進は配慮されませんでしたし、BSWの要求の声も徐々に小さくなっていますから、ドイツではこのテーマはほぼ解決されたとして、問題は日本。  日本の抱えている最大の問題点は、個別の家庭用PVにおいては、余剰電力買取制度を採用していること。基本的にこの制度は(今の日本の設置量レベルでは問題にならないにしろ)、系統に対してより負荷することに寄与します。というのも、PVで発電している時間帯の電力消費を、できるだけPV余剰としての販売を増やすために、PV発電のない時間帯に移すことを経済原理的に推し進める政策だからです  本来は系統を使わずとも地産地消できたはずの最も貴重なPV電力の特性を、政策でわざわざ打ち消しているわけですね。で、これに伴って、本来は費用対効果では絶対にペイしない、HEMSや個別のバッテリーなども注目を浴びている市場があるわけです。これは原理的に矛盾を抱えたまま進展しますから、PV電力コストが、独のように20~25円/kWhとグリッドパリティした瞬間にその矛盾は表面化します。  具体的には、これまで日射のない時間帯に消費電力を移すことが目的だったシステムが、日射の時間帯に消費電力を移すことのほうが経済的合理性がある市場に、いきなりぽつんと佇むようになるわけですね。だからこそ、グリッドパリティが来たときにも影響しないFITに徐々に家庭用PVも軸足を移してゆくべきかと。一気にやって市場が崩壊しても困りますが。  なお、費用対効果の面でも悪く、系統の安定化にも寄与しない個別バッテリーだとか、HEMSだとか、スマートハウスだとかの商品を持て囃すことは再考する必要があるかと思います。これらのことと、地域に分散してPVを設置することの利点とは全く別の話ですから。 以上。引用おわり
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”コンテンポラリ”の現場を知っている人達(その2)

1月13日のライブ終演後、出演者ナガイ・ショウコが現代音楽のプレーヤであることや、バークリー音楽院で、体系的な専門教育も受けたという過去から、話題は現代音楽事情へ。 会場となったライブハウス「エアジン」のマスター、梅本さんはかつて、交響楽団にトランペッターとして在籍し、武満徹ほか現代音楽の演奏経験も豊富。1960年代から70年代にかけては、実際にヨーロッパに住んでいたので、著名な作曲家と実際に仕事をした事もある人。 今では巨匠とされるシュトックハウゼンも、ヨーロッパで彼と仕事をした梅本さんの印象では”変人”。自分の作品上演で、とにかく自分がどこかに出ないと気が済まない人だったそうで、自作の演奏中に、パンツ一丁でステージの端から端まで歩いて行ったこともあるそうです。 今の日本では神格化されがちなジョン・ケージも、当時のヨーロッパでは特別著名な存在ではなかったそうで、梅本さんは、ケルンで彼と初めて仕事をしたとき、彼がアメリカ人であることも知らされず、彼のファーストネーム"Cage"の読み方が分からなかった(ドイツ語読みで「カゲ」かと思った)そうです。 その時の演奏で梅本さんの楽譜には、異なる音高の3つの音符だけが書かれたいたそうです。 そして、何の説明もなくリハーサル開始。梅本さんが譜面に書かれた音を「これかな?」と吹いて見ると、ジョン・ケージからダメ出し。「譜面に書かれた音は、出してはいけない音」だと言う。ところがこの譜面、実は五線譜の左側に何の記号(ト音記号など)も書かれていなくて、基準の音高が分からない。梅本さんが質問すると、ジョン・ケージは、「音の高さは演奏者が決めればいい」と言ったそうです。 つまり演奏者は、ジョン・ケージが指示したルールの範囲内で、自分の好きな音階を作れば良い訳で、梅本さんによると、この例に限らず、ジョン・ケージの作品には、(ある程度以上のスキルがある)演奏者をワクワクさせるような、魔法があったそうです。シュトックハウゼンの作品の中にも、音を出すパートの楽譜には何も書かれず色が塗られているだけ(どう音で表現するかは演奏者任せ)、"Silent"と書かれた楽譜が来たら、演奏のフリをする、という作品があったそうで、数々の現代音楽作品の演奏を経験した梅本さんの話では、面白い作品に出会ったときは、観客の存在も忘れて、演奏に夢中になってしまったそうです。 梅本さんによれば、1960~1970年代の途中までは、今と違って、現代音楽がまだ、様式化されてなかった時代だったので、演奏家はそれぞれ様々な表現を試み、作曲家も(特にジョン・ケージは)、自分が意図しないハプニングをむしろ喜んでいたそうです。もちろん、それまでの音楽の良識を覆す訳ですから、必ずしも観客に受け入れられる訳ではなく、演奏が終わる頃には殆どの観客が劇場を出て行ってしまい、わずかに残った観客から大喝采を浴びる、という結末も珍しくはなかったそうです。けれど作曲家も楽団も、劇場主さえも、それを良しとする空気が(少なくとも梅本さんが長く住んだケルンには)あって、現代オペラでは、舞台に戦場をあまりに生々しく再現したために、招待されたお年寄り(戦争経験者)が何人も、救急車で病院に運ばれるような公演(開演前から救急車を何台も待機させてある)もあったそうです。 梅本さんがヨーロッパに住んでいた1960~70年代は、このように、新しい、というより掟破りの演奏が次々試されていたそうですが、演奏家としての経験が必ずしも豊富でない作曲家にとって、自分が頭の中でイメージした音を演奏家に伝えるのは、実際にはかなり困難な作業で(作曲と演奏の分業化が進んだ20世紀後半は、その方が普通になってしまった)、作曲家と演奏家の橋渡しをしていたのが指揮者だったそうです。日本人で言うと、小澤征爾さんも、武満徹やジョン・ケージなど、現代音楽の作曲家と演奏家の橋渡しで活躍した一人だそうです。 今の日本では、ジョン・ケージはじめ、現代音楽に大きな足跡を遺した人達が神格化されがちですが(梅本さんもナガイさんも、”神格化”という言い方をしていました)、新しい表現が生まれる現場では、今では神様扱いされている人達も、あれやこれやの試行錯誤を(時には奇行も)繰り広げていたようです。考えてみれば、どんな分野でも、創造の現場というのはそういうものですが、一度何らかのスタイルが市民権を得てしまうと、現実に起きていたことは忘れ去られ、神話が生まれるのは、分野を問わず世の常なのかも知れません。 ナガイさんの話では、いわゆる「ジョン・ケージおたく」(ジョン・ケージの業績の記憶や記録の収集や作品再演に夢中になる人達)はアメリカにも少なからずいるそうですが、そうした、形として残った部分に熱中する活動は、創造や、芸術精神の継承とは、ちょっと違うのかも知れません。
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”コンテンポラリ”の現場を知っている人達(その1)

昨夜(1/13)横浜のライブハウス”エアジン”で行われた、Marcos Fernandes, ナガイ ショウコ, さがゆき の3名によるセッションは、日本では滅多に無いかも知れない、音楽性豊かな コンテンポラリ・ミュージック(現代音楽)のライブでした。 日本で”現代音楽”と言うと、”音楽”と呼ばれている表現に接して得られる感動を、わざわざ否定するような表現を崇めるような風潮もありますが、ニューヨークで、ピアニストとしての演奏や映画向け作曲の傍ら、現代音楽分野の作曲・演奏(実演)を続ける ナガイ ショウコの作品演奏が中心となったこの日のライブは、ジャズ(特にフリーインプロビゼーション)や民族音楽(邦楽のような堅苦しい上流階級の音楽ではなく祝祭で民衆を沸かせるような音楽)を楽しむようなノリで、そのまま楽しめそうな内容でした。 ”作品”の演奏ですから当然、譜面はあったのですが、作曲者のナガイ以外の二人にとっては本番でステージに立って初めて見る譜面。要するに、敢えてぶっつけ本番で演奏に望んだのですが、譜面の指示に従って演奏しているような堅苦しさが微塵も無い、卓越したジャズメン達の即興のような、緩急自在かつなめらかな展開。 作曲者のナガイは、演奏技能が卓越している上(その時点で、クラシック崩れで現代音楽に逃げてきた連中とは大違い)、どんなにトリッキーなことをしても激しい音を出しても、視野狭窄に陥るような息苦しさが微塵も無く、常に開放的でおおらかさえ感じさせる演奏。それは恐らく共演者の一挙一動に反応するセンスが卓越しているせいもあるのでしょう。演奏が始まる前、ピアノにいろいろ”プリペアド”な仕掛けがしてあったので、何かまた小難しくてクソおかしくもないことやらかすんじゃないかと、個人的には内心気になっていたのですが、結果的には全くの杞憂でした。 (1st. ステージ終了後、ピアノの仕掛けをよく見た所、離れた所に張られた(音高がかなり異なる)2本の弦を、それぞれ、フレキシブルな金属アームの付いたクリップでつまみ、金属アームの反対側には圧電素子らしき円盤状のセンサ付いていました。その圧電素子らしきセンサの出力が(恐らくシリーズ接続された)2台エフェクタボックスに接続されていて、クリップでつままれた弦が振動すると、パーカッションのような音が出力される仕掛けになっていました。) ヴォイスのさがゆきは終始、まるで彼女が普段やっている完全即興(Abstract)のように柔軟で自由な表現。本人曰く、若い(スタンダードジャズ専業だった)頃、先輩から、譜面を一度目を通しただけで頭に叩き込む(さがゆき曰く”3秒ルール”)という荒行を仕込まれたおかげで、ぶっつけ本番には慣れているとのこと。実際には、声ばかりか、(恐らくは譜面に記載されていないであろう)持参した鳴り物の数々を駆使しながらの、つまり初見の上にアドリブを交えてのヴォイスパフォーマンス。 この日はパーカッション、というより、各種鳴り物担当だった Marcos は、自身が前面に出ることはせず、ピアノとヴォイスとをなめらかにつなぐ潤滑油役に徹したプレイ。この3人が初顔合わせ、かつぶっつけ本番であるにも関わらず、絵画に例えれば必要にして十分な余白を残しながらの背景描写。 生演奏家としての表現力に富んだプレーヤ達によるコンテンポラリは、コンテンポラリだからと言って、特別な聴き方や予備知識が求められる訳ではない。人の手で演奏される必然性のあるコンテンポラリというのは、そういうものだということを、再認識させられたライブでした。 そして本番終了後、 現在一時帰国ツアー中のナガイ・ショウコが現代音楽を志向しているミュージシャンであることや、バークリー音楽院で、体系的な専門教育も受けたという過去から、話題は現代音楽事情へ。かつては交響楽団にトランペッターとして在籍し、ヨーロッパでの現代音楽演奏経験も豊かな、エアジンのマスター梅本さんの昔話が、これまた面白い話ばかりでした。 その2へ続く
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置き去りにされてきた問い(最近見た展示から) その1

先日、目黒区美術館に、「DOMA秋岡芳夫展 -モノへの思想と関係のデザイン-」を見に行ってきました。デザイナー、あるいは作家としての、秋岡芳夫氏の作品を数多く集めて展示した意欲的な企画でしたが、私達が彼の業績から学ぶべきことは、作り手としての彼自身の仕事や、伝統的な手仕事の再評価活動なのか?考えさせられる部分がありました。 日本の敗戦後、家具など木工製品を中心とした製品の設計やデザインから、デザイナーとしてのキャリアをスタートさせた秋岡芳夫はやがて、カメラやバイクなどの製品のデザインも手がけるようになり、カメラ、露出計、さらには現像タンクに至るまで後にロングセラーとなる製品を数多く生んだ一方、童画家としての活動も続け、学研の雜誌「科学と学習」の付録も手がける。 更に1960年代後半以降は、製品デザイン自体よりデザインプロセスの開拓に力を注ぐようになり、68年の104会議室(のちのグループモノ・モノ事務所)、70年代以降は木工と中心とした手仕事の再評価や、「生活デザイン」との融合に力を入れるようになり、1977年の東北工業大学教授就任、82年の共立女子大学生活美術学科教授に就任など、大学での研究活動にも乗り出す。 というのが彼の大まかな業績だそうで、展覧会場には彼の作品や、彼が収集した日本の木工工具などが所狭しと展示されていました。会場に並んだ展示物を見て回ると、秋岡氏の、手仕事へのこだわりばかりが目立ちますが、会場では一箇所にしか展示されていない、104会議室での活動録に目をやると、それとは違った側面が見えて来ます。 彼は104会議室でのデザインプロセスを、「会議によるデザイン」と呼び、(メーカーの都合ではなく)生活者の立場から、優れたデザインを生み出す方法を試行錯誤していました。その試行の中には、スライドプロジェクタを使って黒板に写真を投影し、投影された写真にチョークで重ね書きをするという、1990年代以降に実用化されたマルチメディア会議の手法を先取りする活動があったばかりでなく、日本の縦割り社会の弊害(富国強兵のための国策会社の名残で、デザイン団体でさえ横のつながりが無い。デパートも、問屋毎に売り場が分かれているだけ。)や、今で言う、企業の社会責任の希薄さ(企業活動は外部経済に支えられているのに、日本の企業は外部経済に利益を還元しない。)、過当競争の弊害(大して知識差のない企業同士が競争すると、宣伝やシェアの奪い合いのために利益の多くを消耗させてしまう)、更には、市民活動の弱さ(日本は市民社会の実体が弱い。市民社会が企業を育て、企業が市民社会と共に発展することができない。)といった、現在もなお、ほとんど手つかずのまま積み残しになっている問題点が、明確に指摘されていました。 彼はまた、デザイナーは市民社会の代弁者であるべき、とも述べていたそうで、彼が後年、木工を中心とする軽工業製品のデザイン活動に軸足を移していったのは、単に木工品、あるいは手仕事の魅力を伝えるためではないでしょう。もし彼が、現在のように、誰でも知識さえあればパソコンを使ったシミュレーションで機械を設計することができ、ロボットを自分で作って自分でプログラミングできる時代に生きていたら、それでも彼は自分の体外活動の軸足を、木工に移していたでしょうか? 1970年代から1980年代頃の技術で、市民が自分で企画し、デザインし、職人さんに作ってもらえるような製品がどんなものだったか?彼の活動は、その時代の制約を踏まえて、理解する必要があるのではないでしょうか? また彼は、日本の工芸について、手間暇かけて作る従来の工芸は、人件費が高くなってしまった日本ではもはや(産業として)成立しないことを70年代に喝破した上で、休みの日を利用したり、現役を退いた高齢者の手で生産する「裏作工芸」を提唱し、それが77年からの東北工業大学就任につながっています。 その経緯は展覧会場でも、一応掲示されてはいたのですが、展覧会場では「裏作」への試みに触れないまま、彼の、工芸(その殆どが手工業)への愛着を示す資料ばかりが展示されていました。 これはどういうことなのか?これでは単なるノスタルジーではないか?秋岡芳夫という人は、若い頃さんざ工業デザインを手がけたあげく、古典に回帰しただけの人間なのか?彼の古典回帰を称賛するために、わざわざ関係者から膨大な遺品を借りてきたのか? 経済の現実をしっかり見据えた上で、新たなデザインプロセスと生産方式を模索していた(生前結果を出せたかどうかは別として)はずの人間を、あたかも古典再評価の功労者であるかのように祭り上げたキュレーションには、違和感を覚えましたが、この展覧会を見た後、インターネットで秋岡芳夫を検索してみると、やはり”裏作”工芸についての詳しい記述は見られず、昔から伝わる工芸技術の再評価活動についての記載しか見当たりませんでした。 http://www.town.oketo.hokkaido.jp/teshigoto/about/index.htm http://gakken.jp/ep-koho/?p=4244 秋岡芳夫という人は、工業デザインの世界ではかなり知名度の高い人だそうですが、果たしてその後継者達は、彼の遺志を理解しているのか? 彼が生前、明確に述べた問題を直視しているのか? (遺志が尊重され、問題意識が引き継がれていたら、こんなキュレーションになっただろうか?)  そんなことを考えていたら、今月初めにみた、もう一つの展覧会(展示会)の事を思い出しました。 その2へ続く
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語らぬ存在感と語る空虚さ

ここ一週間ほどの間に、都内での所用の合間、二つほど作品展を見て回りました。 一つ目は、銀座のステップスギャラリーで開催中の、串田治さんの個展。 (上記URL上では、色の階調がかなり単純化されてしまっているので分かりにくいですが)それこそありとあらゆる色相、明度、彩度の組み合わせ。デザインの入門書に書いてあるような色の組み合わせで言えば、必ずしも綺麗ではない、むしろ綺麗でない組み合わせの方が多いのに、見苦しさが全く無く、四方の壁全てに作品が掛けられた会場はとても居心地がいい。紙の上に絵の具(水彩またはアクリル?)で描かれた、画材の組み合わせとしてはミニマムな構成なのに、色彩の強さや厚みや深みや、透明感に様々なヴァリエーションがある。 事務室の壁にはさりげなく、きっちり写実的に描かれた作家の自画像。それも正面、左右、上から見た図。自筆のプロフィールには、芸術論、方法論の類の説明はなく、ただ、自らの平面作品作りに向けた姿勢を、ごく大まかに振り返った記述があって、最後に「しかし次に来ることは見通せないので、やりたい事をやろう」と結ぶのみ。 見せびらかしたり意識的にアピールする要素が作品にも説明にも全く無い、極めてストイックな個展。と言うより、その必要が全く無いほど、作品が醸し出す空気に落ち着いた存在感のある作品展でした。 二つ目は、熊谷守一美術館のギャラリーで開催中の、石田節子さんの個展。彼女の個展を見るのは3回目。これまで、おとぎの国の街に立っているものや、道路を、一度バラバラにして、再構成したような絵画を描いていた石田さんの今回の個展は、テーマを明確に"Landscape"とした一方で、具体的なモノを連想させるような形の描き込みを極力控えた、抽象的な作品群。 けれど、贅肉を削ぎ落とすように具象性を抑制した構成は、少なくとも私にとっては、風景としての普遍性を感じさせるものでした。それは、自分がどこか街なり山なり海なり水中なりで、素敵な景色に出会った時の感動から、”何処の”という説明的要素を取り去った後に残る印象に通じるものがありました。 正直言えば、前回、彼女の個展に行ったときは、これと言った感想が頭に浮かばず、作家に感想を聞かれて答えに困ったのですが、今回は、20分位、作家といろいろ話をすることができました。 二人共、アート誌で特別話題になるような、独創的なアプローチをしている訳ではありませんが、地に足の付いた、しっかりした存在感があるような印象を受けました。 作品の価値というのは、作家がどれほど、対象を深く掘り下げようとしているか? ではないかと思います。 (その掘り下げ方がユニークかどうかというのは、実は2の次3の次のような気もします) 物事のとらえ方をひとひねりしただけで、コンテンポラリ・アートと認められ、ひとひねりを他人に体験させることが、アート・イベントとして認められててしまう時代になってから、もう何十年も経ちますが、考えてみれば、そうした活動は、ビジネス用語に置き換えれば、ブレイン・ストーミングの段階にすぎません。 ブレイン・ストーミングは、そこで出てきたアイデアの中から現実世界に反映させる価値のあるものを選び出し、現実世界で生きる人間が抱える課題に対する、方向性がありなおかつ継続的な取り組みの糧にしてこそ、意味があるのですが、(少なくとも日本の)アートの世界では、ブレインストーミングの先を問う姿勢に乏しく、それが、芸術の社会的認知を妨げる一因になっているのではないかと思います。 これは作家のみならず、アートディレクション、アートプロデュースに関わる人間の、意識の問題ではないか? ああだこうだと理屈をこねることなく、静かに、しっかりした存在感を放つ作品に触れるたびに、(日本ではカタカナ表記される)アートの空虚さを実感します。
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音にも通じる絵画論(磯江毅さんが遺した言葉)

先日、練馬区立美術館へ、「特別展 磯江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才」を見に行って来ました。 http://www.museum.or.jp/modules/topics/index.php?action=view&id=43 磯江毅さん(1954-2007)は、極めて写実的な絵画作品で知られ、作品の大半を制作したスペインでは”グスタボ・イソエ”の名で親しまれ、マドリード・リアリズムと呼ばれる作家達の中でも、優れた作家として、国内外で高い評価を得ていたそうです。 会場には、人間技とは思えないような、緻密に描写された具象画が並び、特に90年代以降にモノクロで描かれた作品は、遠目には銀塩写真と見分けがつきません。ただしその精密さは、”スーパーリアリズム”と呼ばれるイラストレーションとは異なり、現代の写真プリントに似た質感を追うのではなく、明らかに、西欧絵画の歴史の延長線上にある、描かれた物(人)が経てきた時間や、描かれた場所の気配を感じさせる表現でした。 もっとも、絵画について大した造詣も無い私は、会場に展示されている作品から、それ以上は読み取ることができず、ただただ、人並み外れた技術(と、作品を完成させるまでの、気の遠くなるような手間を淡々とかけ続ける精神)に、びっくりするだけでした。もし、会場に展示されていたのが、作品と、作品に対する解説だけだったら、私はこの体験を、わざわざブログに書こうとはしなかっただろうと、思います。 でも会場には、何箇所か、解説文だけでなく、磯江さん自身が生前遺した言葉も、掲示されていました。例えば、写実について、 「見つめれば見つめる程、物の存在が切実に写り、超現実まで見えてくることがある。そこまで実感し、感動を起こす精神の存在をもってして初めて、実を写せるのではないだろうか?習い覚え、慣れ親しんだテクニックだけに頼って機械的に描かれた画面に、実が宿るはずがない(1991年)」 と言う言葉を遺しています。いわゆるスーパーリアリズムと、磯江さんの写実性が全く異質なのは、こうした姿勢が画面に現れているからなのでしょう。またこの言葉は、「物」を「楽譜」に置き換え、「描く」を「演奏(または歌唱)」に置き換え、「画面」を「音」に置き換えれば、そのまま音楽にも当てはまると思います。クラシックでも現代音楽でもジャズでもロックでも、先人達をはるかに凌駕する技巧で演奏したり歌ったり出来る人は、今はもう、日本でも珍しくありません。完成された”形”の継承を目指す人も大勢居ます。でも、プロとかアーティストと言われる人の中でも、磯江さんの言うような「実」の表現を目指している人は、どれほど居るのでしょうか? 更に晩年は、写実について次のようにも語っています。 「写実は出発点であって、最終目的だとは思っておりません。いうならば写実を極めることは、写実でなくなってしまうと考えています。物を良く見るということは、物の成り立ちを見極め、やがてそれを解体、解剖することだと思うようになったのは、私の個人的発想ではなく、長年住んだスペインで、見ることを極めてきた、ヨーロッパ美術の歴史が、教えてくれたことだと確信しております(2006年)」 19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパで、風景やポートレートの(作家それぞれにとっての真実)探求の過程で、後に印象派と呼ばれる表現が生まれたり、見えない物を描こうとする未来派の活動があったり、対象を文字通りか解体し、再構成するキュビズムが生まれ、色彩や形それ自体の美的価値の追求から抽象画が生まれた歴史を考えれば、更に古くは、レオナルドダビンチが、画家であり解剖学者でもあり、「空気」という物の成り立ちの研究から飛行機械を考案した技術者でもあることを考えれば、磯江さんの上記の言葉は自然に受け入れることが出来ますが、日本では未だに、視覚表現(絵画)でも聴覚表現(音楽)でも、表現、評論、鑑賞、研究が、もちろんそれらの全てではないでしょうが、表面的な様式毎に分断されがち、分断された断片毎に権威化されがちで、写実が写実でなくなるような、様式横断的な(特定の方法論から開放された)プロセスを学んだり、研究したり、実践したり、奨励する活動は滅多に見られません。 また、(上記の言葉とも通じる内容ですが)自分と”写実”との関係について、 「日本人にとって日本語が母国語であるように、私にとって写実は、対象の再現であって私自身の表現方法でもあるのです。しかし、西洋美術のもっともプリミティブな形で、根本でもある写実表現は、絶対的に信頼できるものでありながら、それを自分の問題として進化させてゆくことが出来ない限り、 ”本当の写実絵画=普遍性を持った絵画”とはいえません(2005年) と、語っています。 これも、視覚表現に限らず、身体表現にも、音楽にも、そのまま当てはまると思います。クラシック音楽でもジャズでもロックでも、過去の評価基準に頼っていたり、過去の名演を目指しているうちは、モノマネにはなっても、音楽という「表現」にはなり得ないと思います。ジャズの世界で、金銭的な安定や成功を目指して活動する人達が、しばしば「営業系」と蔑まれるのは、彼らの大半が、ジャズを自分の問題として進化させようとせず、大衆に認知された既存の評価軸(=金になり易い)に合わせた活動しか、していないせいでしょう。 コンテンポラリー(現代○△)と呼ばれる表現領域においてさえ、過去に確立された様式や方法論にいつまでもすがったり、祭り上げたり、家元争いのような場面を目にすることが珍しくない日本の芸術界は、何か大事なものを、学び忘れているのではないでしょうか?
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実務者の使命とは(対照的な二人の専門家、大学のモラル)

7月27日、衆議院厚生労働委員会において、東京大学アイソトープ総合センター長の児玉龍彦さんが、政府と国会の原発事故対策について、科学的かつ詳細に根拠を説明しながら、政府・国会の無責任な対応を厳しく批判しました。 科学に携わる実務者として、尊敬すべき模範的態度だと思います。 http://yosinori.tumblr.com/post/8170926146 http://www.youtube.com/watch?v=eubj2tmb86M&feature=share http://www.slideshare.net/ecru0606/ss-8725299 http://www.slideshare.net/ecru0606/ss-8725343 http://diamond.jp/articles/-/13615 日本政府や、”御用学者”と呼ばれる専門家達は、福島第一原発事故現場を中心とした極めて広い(100kmを超えるケースもある)範囲で、放射線の空間線量が、一般人の受容限度とされている(日本政府が安全基準の論拠としているICRPが設定した基準である)1mSvを超える地域があることが判明した後も、「ただちに健康への影響は無い」の一点張りで、放射能の除洗作業等の対策を先送りし続けています。 その中で児玉さんは、下記のように、最新の遺伝子解析を根拠に、これまで「微量」扱いされてきた量の放射能が体内に蓄積した場合でも、増殖性の前ガン状態につながる遺伝子損傷が生じることを指摘し、従来のような、(結果が出るまでに長い年月を要する)疫学調査に基づく対策が不適切であり、かつ別の手法(遺伝子解析等)に基づく対策立案が可能である(にも関わらず政府も国会も対策を講じていない)ことを説明しています。 http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-626.html >しかし、統計学的に有意 だという事がわかったのは >先程も長瀧先生からお話しがありましたが20年後です >20年後に何がわかったかというと >86年から起こったピークが消えたために >これは過去のデータが無くても因果関係がある >という事がエビデンス(evidence 証拠・根拠)になった >ですから、疫学的証明というのは非常に難しくて >全部の事例が終わるまで大体証明できないです >ですから今 我々に求められている >「子どもを守る」という観点からは全く違った方法が求められます >そこで今行われているのは >ここには国立のバイオアッセイ研究センターという化学物質の効果をみる福島昭治先生という方が >ずっとチェルノブイリの尿路系に集まる物を検討されていまして >福島先生たちがウクライナの医師と相談、集めて >500例以上の、前立腺肥大の時に手術をしますと、膀胱もとれてきます >これをみまして検索したところ >高濃度汚染地区、尿中に6ベクレル/ℓという微量ですが >その地域ではP53の変異が非常に増えていて >しかも、増殖性の前癌状態 >我々からみますとP38というMAPキナーゼと >NF-κB(エヌエフ・カッパー・ビー)というシグナルが活性化されているんですが >それによる増殖性の膀胱炎というのが必発でありまして >かなりの率に上皮内のがんができているという事が報告されております >それで、この量に愕然といたしましたのは >福島の母親の母乳から2~13ベクレル >7名で検出されているという事が既に報告されている事であります 更に児玉さんは、8月に入ってから数多く報じられた通り、すぐに実施可能な具体策を例示しながら政府・国会の怠惰を厳しく批判しました。 一方、福島第一原発事故直後から、放射線が人体に与える影響について、ツイッターなどで情報発信を続けている、東京大学医学部附属病院放射線科の中川恵一准教授らのチーム(通称”チーム中川”)は、虚偽の情報を発信して場面はほとんど無いものの、放射線の影響については、(疫学的に)未確認の影響については、実在しないかのような印象を与えかねない表現で一貫しており、更に原発事故直後には、チェルノブイリ原発事故で増えた癌は小児の甲状腺癌だけだという、事実に反する情報も発信しています。 http://hiroshi-s.at.webry.info/201103/article_2.html 中川氏自身の発言を見ても、「100mSv以下は数字が無いから『科学』ではなく一種の『哲学』だ」と言いながら、その一方で過去に、被ばくによる発がんリスクより、飲酒や喫煙のほうが危険などと、自ら「科学てはない」と言った領域について具体的な評価を示すなど、発言が矛盾しています。これでは「御用学者」と批判されても仕方が無いでしょう。 http://getnews.jp/archives/130538 またチーム中川は、これまでに、(原発事故などによる)放射能拡散の影響について、たばこによる発ガン率などとの比較を行なっていますが、たばこの害と、放射能拡散(特に内部被曝)では、ダメージを受ける臓器も症状も全く異なるので、比較する事自体が非科学的です。こうした情報発信の内容を見ても、中川恵一氏らのグループの一連の発言は、「科学」ではなく政治的意図を持って行われていると(御用学者であると)、疑われるのは当然です。 統計学的(疫学的)には未確認のリスクについて、他の科学的手法を用いて推量を行い、具体的な対応策を提案した人物と、統計学的に未確認のリスクについて、態度をあいまいにし続け、具体的対策の発信にも消極的な人物と、どちらの人物の行動が実務者として責任ある態度か? 私は間違えなく前者だと思います。 ちなみに、 ドイツシュピーゲル誌のインタビューでも、放射能の具体的低減策については何ら触れることなく、福島県民200万人を、放射線被害の疫学調査の被験者にするプランばかりをを主張する長崎大・福島医大の山下俊一教授の社会性の低さ、というより確信犯的な悪意は論外でしょう。 児玉さんが国会で指摘した通り、これまで「微量」とされてきた放射能でも遺伝子に損傷を与える事例が既に確認されている、つまり、低線量被爆でのDNA損傷は短時間で修復されるという、山下教授の説明は事実に反するのですから。 http://ex-skf-jp.blogspot.com/search/label/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB http://www.spiegel.de/international/world/0,1518,780810,00.html このような発言を公然と行う人物を教授に採用している、大学のモラルが問われる事例だと思います。
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山下達郎さん(誠意・節度のある大人とは)

今日(正確には昨日ですが)、山下達郎さんが、朝からTOKYO FMの殆どの番組にゲスト出演していました。 6年ぶりのニューアルバムのプロモーション企画だそうで、私は午後2時過ぎから番組を聴き始めたのですが、山下さん自身のトークの内容は、ほとんどアルバム以外の話題、それも番組毎に違う切り口、山下達郎ファンに限らず、幅広いリスナーにとっても非常に面白い内容だったと思います。 午後の番組「シナプス」では、洋楽作曲家オタクを自認する山下さんの面目躍如な話題の数々。手持ちの音源をデータベース化するため、定期的に人を雇って入力作業をしなければ間に合わないほど、今もひんぱんに音源収集を続けている話や、(音質にうるさいので)他社スタジオへの出入りが禁止になっている話、過去2回ほど、音質の不満で工場を止めた(レコード盤の工場?)武勇伝などなど。 「シナプス」では時には笑いも取ってリスナーを楽しませてくれた山下さんですが、夕方の報道番組「Time Line」では一転して(と言う書き方は大変失礼ですが)、社会人としての理性的なコメントに徹していたのが印象的でした。 いわゆる”識者”や評論家、マスメディアの論説委員等にありがちな、批判だけ好き放題した挙句、「ではどうすべきか」には言葉を濁す無責任な言動とは対照的に、具体的な事件・事故への言及は避けながらも、 「大きな災害や事件に巻き込まれなくても、人生には様々な悲しみや苦しみがあるし、それは他者の苦しみと比較できるものではない。」と、世の中の出来事をどう受け止めるべきかを、上から目線ではなく、自分を例に語る姿が印象的でした。 「社会は変わり続けるもの。それをどう受け入れるか。」、「(暴動や震災のような)大きな変化があれば音楽も必ず変わる。自分達の音楽も、やがてはビートルズ以前の昭和歌謡のように見られる。そうなったとき、如何に自分達の音楽とリスナーをつなげて行くか?」「音楽の楽しみ方が今のように(LPやCDから、YouTubeやiPhoneなどの、無料も含むネット配信中心へと)変わることは分かっていたので、数年前から対応できるように準備していた。」 など、社会の変化を、避けられないものとして受け入れざるを得ないとの発言が多かった一方、 「自分にとって興味があるのは、今でも生身の人間だけ。それに一番近いものとして、今でもラジオ(放送への出演を)大切にしている。ツイッター(等のネットメディア)はヴァーチャルな感じがする。」 と、(自分の仕事を社会の変化に適応させつつ)自身のブレない立ち位置をきっぱり語っていました(Web2.0だのFacebookで世界が変わるだの浮かれている”識者”達とは対照的に)。また音楽と社会との関わりについては、 「音楽で世の中が変わると思われていた時代もあったけれど(特にロックでは)、音楽にそんな力は無い。これからは、音楽本来の役割(一人ひとりの心に語りかける)が期待されるようになる。音楽にとっては良いこと。」 と、やはり、ブレない立ち位置を大切にする姿勢を語っていました。 午後10時から放送された「SCHOOL of LOCK」でも、大人としの見識ある、なおかつ決して上から目線にならないコメントが続きました(この番組は中学・高校生向け)。 この番組で山下さんは、自分が所属するレコード会社の若手の曲を紹介しながら、「自分の世代は、音楽自体に影響力があったせいもあり、音楽で何をやりたいかがあいまいなまま、ミュージシャンになったが(自分自身も含めて)、最近の若手は、音楽で何を伝えたいかがはじめからはっきりしている」と、若手の音楽に対する姿勢について肯定的にコメントし、自身が好んで聴く邦楽は、ロック(それもかなりハードな)が多いという、山下さん自身のアルバムの内容からは想像しにくい一面も披露してくれました。 更に山下さんは番組の中で、現在社会の親子関係について、「自分が若者だった時代と比べて、親子(の世代)が語り合うのが容易で、良い時代になった。音楽も、広い世代に共有されるようになった。自分が若かった時代は、親世代からは決して理解されなかったし、自分達も、大人を信用できないと思っていた。」と、肯定的に評価していました。この見解には、おそらく批判もあるでしょうが、こうした発言は、山下さん自身が、彼らの親世代とは一線を画した価値観で、仕事だけでなく子育てもこなしてきた自負の表れという面も、あるのではないかと思います。 番組の終盤近く、山下さんは、「青春とは、無限の可能性」と語る一方、視聴者(10代)からの、「幸せとは、具体的に何で​すか?」という質問には、「自分って、この位。 と許せること」と答えていました。「夢は必ず実現すると言う人も多いけれど、世の中そんなに甘くない。自分に言わせれば夢はほとんど​が実現しない。夢が実現しなかったとき、どうするか?」だとも。 許すということは、「許さない」「責める」という選択肢もあ​ったということ。換言すれば「この位」ではない自分になれた可能性を認めた上での「許す」であって、努力もしないで現状を容認するのとは大違い。 山下さんは、40年近い音楽家活動の中で、ビジネスとしてのえげつない部分に向き合わなければならない場面が、少なからずあったことを、はっきり認めた上で、(それでも)音楽を嫌いになった事が一度も無い自分は幸せだと語っていました。 夢(と言うより憧れ)を決して捨てず、なおかつ結果や過去には固執しないことで、前向きな精神を保つ。山下さんのこの日のコメントからは、そんな生き様が見えてきます。 世間では、「夢=ビジネスでの​成功」を暗黙の前提に、若者に経済競争をけしかける無責任な大人が珍しくありませんが、山下達郎さんは、ビジネスの世界では間違えなく成功者の一人である一方、大方の大人とは一線​を画した、節度と誠意のある人ではないかと思います。

6/22加筆:差別という概念自体が無かった時代

今年は法然上人生誕八百周年だそうです。法然上人は、それまで特権階級の学問だった日本の仏教を、民衆のための教え(現代的な意味での宗教)として、あらゆる人に分け隔て無く布教した先駆者として、歴史に刻まれています。 世の中に、歴然とした身分差別があった、というより統治の基本構造が身分制度だった時代。”差別”という概念自体が、現代から過去を振り返る視点であって、当時は恐らく、”平等”という概念自体が存在しなかったのでしょう。 人間には生まれながらに貴賎の差があるのが自然の摂理のように見なされていた時代、仏の道を進む機会を与えられた人々の中には、経典に記された理想の生き方と、現実をどうすることも出来ずに死んでゆく民衆(道端に遺体が放置されているのが当たり前の社会だった)との落差に心を傷める人も、大勢居ただろうと思います。 自然科学が殆ど体系化されず、経験則の積み重ねでしかなかった当時の日本では、仏教は唯一の科学だったでしょう。けれどその仏教は、裕福な特権階級や超人的な修行に耐えた人間に、救いの道を示しても、世の中の大多数の民衆には、何の救いも与えない。おまけに当時の日本では、仏教の布教は御法度。6世紀頃日本に仏教が伝来して以来ずっと、仏教はあくまで国家を統治するための学問であって、民衆に知られてはならない国家機密だった訳です。 分け隔て無く民を救う教えだったはずの仏教を、なぜ民衆のために生かしてはならないのか? 大和朝廷が日本を統一してから、自らが仏教で得た知恵を生かし、今で言う慈善事業に身を投じた僧は和知れず居たと思います。空海のように、今で言う土木工事のプロデューサを日本各地で引き受けた(その多くはフィクションかも知れませんが)天才も居ました。 けれど、法然上人の登場まで、布教という違法行為で民衆を救おうとした僧は現れませんでした。いや、実際には無数の僧が試みたのかも知れませんが、大きな運動になる前に活動を潰されてしまったり、一般人にも理解できる教義を編み出せなかったのかも知れません。 国家権力に独占されていた膨大な情報の中から、学問に接する機会も文字を学ぶ機会も無い民衆にも理解できるエッセンスを抽出し(それだけでも常人がいくら努力しても達成できない成果ですが)、五百年以上守られてきた禁を破って、全ての人を一切の分け隔て無く極楽へ導く。 身分の貴賎が自然の法則のように当たり前だった(差別という概念自体が存在しない)時代。現代的な意味での「宗教」という概念が存在せず、仏教が(現代の自然科学に相当するような)学問だった時代に、人々を、「分け隔て」なくという発想をしただけでも、とてつもなく独創的なのに、更にそれを具体化する方法まで編み出し、実行してしまった。 浄土思想の基本の一つである「悪人正機説」も、法念が日本で最初に、理念として明確に打ち出したと言われています。ただしここで言う悪人とは、現代的な意味での悪人、つまり悪事を犯さない選択肢があったにも関わらず悪行に陥った人間ではなく、生まれながらの境遇のせいで、倫理的に好ましくない事に手を染める以外、生き残る方法が無かった人々を念頭に置いた言葉で、悪人正機は、こうhした境遇の人達の救済を願った理念だとも言われています。 法然の両親は、(今で言う軽工業)技術を持った裕福な渡来人の末裔で、法然の父は地方官吏だったと言われています。が、官吏と言えば聞こえは良いものの、実際には、その出自ゆえに地方の利権の調整役を任され、彼は、法然がまだ幼い修行僧だったときに、その利権争いで暗殺されたと言われています。 法然が最後に父を訪ねたとき、父は、「間もなく私は殺されるだろう、しかし決して、仇を取ろうなどと考えてはいけない」と言い残したと伝えられています。自分の出自ゆえに殺戮の応酬に巻き込まれ、けれど息子には、その連鎖を断ち切るよう言い残した法然の父。法然の言う「悪人」とは、自身の父のような境遇の人達だったという説もあるそうです。 日本の歴史上初めて、現代的な意味での”宗教”を布教した人物として歴史に残る法然上人の功績は、思想上の革命と言っても差し支えないでしょう。実際、革命だったからこそ、権力から弾圧を受けたのでしょう。 法然が始めた現代的な意味での宗教はその後、親鸞日蓮を通じて様々な祈りに展開され、日蓮に至っては(特権階級ではなく)民衆の平和を最上位概念に置いた統治システム構築という、当時の政治的価値観を180度ひっくり返すような運動を試みます(結果的には弾圧されますが)。法然とは全く別の出発点から生まれた禅宗も、武士階級から民衆へと広まって行きました。 よく、日本の文化は「侘び寂び」とか「和の心」とか言われますが、それよりほんの数百年歴史を遡って見れば、法然、親鸞、日蓮などに代表される極めてラディカルな思想運動が存在したことを、私達は忘れてはいけないと思います。「侘び寂び」の元になった禅宗にしても、室町時代に一休禅師のような、ラディカルな思想家(今で言う、リアリスト、実存主義者か?)を生んでいるし、現代の茶道の源流となった千利休にしても、わざわざ喧嘩を売るような表現法で、旧来の価値観や慣例を打ち破って行った(その結果何人かの弟子は殺され自らも切腹を命じられる)わけです。 法然、日蓮は革命家 一休 利休はパンク と理解しても、差し支えないのではないかと、思います。 参考:浄土宗ホームページ http://www.jodo.or.jp/index.html
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やまだひさしが面白い

今、FM東京で平日午後放送されている「シナプス」という番組で、スタジオに来たゲストが、自分で自転車を漕いで発電した電気で自分のCDを紹介するというコーナーがあります。発電機にラジカセがつないであって、電気が止まるとCDの ON AIR も止まる仕掛けになっているそうで、ラジオだから現場の様子は見れませんが、ゲストが必死に自転車を漕ぐ様子の中継がなかなか面白いです。 もちろん、放送局全体のエネルギー消費を考えれば、省エネ効果はゼロでしょうが、エネルギー問題を、理屈をこねずに、お笑い番組のノリで、ラジオを通じて”日常”に取り込んでしまうセンスはなかなかのもの。 この番組のパーソナリティの やまだひさし さんは、数年前まで同局の夜の時間枠で、中高生対象のバラエティー番組(はっきり言って、私好みの相当オバカな)を担当していたのですが、夜から昼への担当変更で(言っていいこと悪いことの基準が激変する)と、対象リスナーの大幅変更(学生を中心とした未成年から社会人、高齢者)にもかかわらず、やまだひさし というカラーを損なわずにユーモアたっぷりのトークと展開しています。 先の東日本大震災でも、番組の明るい雰囲気を損なうことなく被災地からの情報を精力的に紹介し、福島原発事故に絡んだ問題でも、(立場上)政治的スタンスを一切明かせない中で未来につながる建設的な話題を次々紹介しています。 この人の気配り、聡明さは、なかなかです。さすがプロ。
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皮だけ剥がれた岡本太郎

東京国立近代美術館へ「生誕100年 岡本太朗展」を見に行ってきました。 http://taroten100.com/index.html 良くも悪くも、予想通りの内容でした。  岡本太郎の回顧展には、これまで2回ほど足を運びましたが、それらと比べ、今回は特に新しい切り口も見当たらず、というよりむしろ、以前よりも作品の形態や色彩のユニークさを紹介することに的を絞った印象さえある展示。戦後の再製作しか現存していない「痛ましき腕」のキャプションに、再製作との表示もなく、オリジナル版の製作年しか掲示されてないとか、やや雑な部分があるのはちょっと気になりましたが、岡本太郎入門編としては、戦前から晩年までの作品が網羅されていて、良い展示だったと思います。  けれど同時に、「岡本太郎も、幾多のスタイルの中の一つ」扱いになっちゃったんだな、という印象もぬぐえませんでした。「芸術は爆発だ」の意味も、対極主義の意味も、一応説明はされていましたが。  私は仙台で仕事をしていた頃、休みの日に美術館の図書室に通って岡本太郎全集を読んでいたんですが(16巻までしか読めませんでしたが)、全集の中身は社会の常識に対する挑発の歴史でした。もちろん今でもよく取り上げられる”縄文の発見”など、民俗文化への(当時としては極めて)斬新な解釈も数多く語られていますが。彼が挑発し続けたのは、画壇だけでなく、芸術全体、社会全体。だから岡本太郎が、戦後日本の芸術を牽引した一人として歴史に刻まれた訳で、昨年亡くなった荒川修作さんも、岡本太郎に触発され(て日本に居場所がなくなった)一人だそうです。  でも今、岡本太郎の作品を語る世に伝える人はたくさん居るけれど、岡本太郎の戦いを伝える人は皆無。戦いがあったこそ彼は紛れも無い芸術家だったはずなのに。  岡本太郎が社会に放つ挑発は、そのまま本人に跳ね返り、本人の言動の矛盾が露呈する。その矛盾を誤魔化さず、自分との矛盾と戦いながら社会にもぶつかって行く。昔読んだ岡本太郎全集の詳細はもう覚えていないけれど、対極主義って、キャンパスの上だけの話じゃなくて、そういう生き様の話じゃなかったのか?遺された作品も、1960年代半ば以前のものを知ってしまうと、それ以降のものは、デザイン性の方が際立って感じられてしまう。だから公共スペースに置けるようになったのでしょう。渋谷駅ビル内に修復展示された巨大な壁画「明日の神話」も。  1970年の万博プロデューサを引き受けてから、やたら分かり易い(良く言えば理路生前とした)話しかしなくなって、自己の矛盾を露呈するような真似をしなくなったから、対極主義の教祖岡本太郎をリスペクトしていた人達から総スカン食らって(当時を知っている人は「ミイラ取りがミイラになった」と言ってました)、万博が終わったらタレントになってしまい、晩年はドクター中松と双璧を成す変な爺さん。  日本でカウンターカルチャーが短い最盛期を終えようとしていた1970年代はじめには、長いモノに巻かれまいとするアーティスト達から抹殺され、本人が(パーキンソン氏病で)タレント活動も出来なくなった最晩年にようやく(養女である敏子氏の尽力で)再評価された時は、日本の芸術界に社会と戦う機運など無く、作品だけが、様式のウンチクを語る美術評論の対象として祭り挙げられていた。  岡本太郎さんは、皮だけ剥がれて剥製にされて、見世物になったような気がします。それは本人の身から出た錆なのかも知れないけど、皮の中にあったモノのことを伝えてくれる人は、何処に居るんでしょう? 今私が詳しく知りたいのは、万博プロデューサを引き受けてからの岡本太郎の言動の変化。  岡本太郎が変な爺さんキャラでテレビに出ていた80年代半ば、来日したヨーゼフ・ボイスは現代芸術の延長線上に自ら提唱した「拡張された芸術概念」を語り、作品を目的としない社会活動をこれからの芸術としてブチ上げた(既存の現代芸術にヒジ鉄を食らわせた)。1950年代の岡本太郎だったら、死期を悟ったヨーゼフ・ボイスの、この挑発に、何と応えただろう?
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2/17追記:米英よりも好戦的だった日本のイラク戦争報道

昨日、「イラク戦争の検証を求めるネットワーク」主催のシンポジウムに参加してきました。 http://iraqwar-inquiry.net/?p=678840820 イラク戦争への協力が、適切だったか否かの検証を行う事は、国会で議決済み(2007年イラク特措法延長の付帯決議として)なのですが、未だ実施されていません。一方検証実施済みのオランダでは、米軍のイラク侵攻とそれへの協力は違法だったという結論が既に出ていて、英国でも検証委員会がブレア元首相など関係者への喚問を続ける一方、委員会権限で、イラク戦争に関わる文書を、公文書のみならず個人宛のメモやEメールも含めて一般公開するという、徹底的な情報開示が進んでいます。 今回のシンポジウムは、イラク戦争検証議員連盟が正式に発足したのを受けたもので、イラク戦争(米軍のイラク侵攻)自体についての法的、人道的問題について、特別新しい情報はなかったのですが、イラク戦争に対する日本のメディアや政府の姿勢について、いくつか新たな報告がありました。 アジアプレス代表の野中章弘さんからは、NHK放送文化研究所が集計した、イラク戦争に関する各国メディアの報道姿勢について報告がありました。 同研究所が2004年に発行した年鑑によると、イラク戦争に関するテレビ報道のうち、イラク市民の被害を扱った報道が、米国ABC放送(World News Tonight)やBBC放送(10 O'clock News)では3番目に多かった(1位は米軍の動き、2位は米政府もしくは英軍の動き)のに対し、テレビ朝日(ニュースステーション)では4番目、日本テレビ(きょうの出来事)では6番目、NHK(ニュース10)およびTBS(NEWS23)では8番目。フジテレビ(ニュースJAPAN)に至っては全く報道しなかった実態が明らかにされています(ただし米国のテレビ局全てがイラク市民の被害を報じた訳ではなく、Fox News では日本のフジテレビ同様、調査対象期間中全く報じなかったそうです)。 海外主要メディアと比べ、日本のテレビ局は、イラク市民の被害を伝えなかったこと。 とりわけ、 フジ・サンケイグループはイラク市民の被害を全く報道しないという特異な報道姿勢であった点に、 注意を払うべきでしょう。 今回のシンポジウムでは、陸上自衛隊情報保全隊が、市民やジャーナリストの行動を監視・記録し、独断で「反自衛隊活動」を記録していた問題も取り上げられ、この監視活動には法的根拠は無く、情報保全隊の監視活動が、シビリアンコントロールから逸脱している実態が、指摘されていました。 その他今回のシンポジウムでは、フリーディスカッションの場で、今後の運動方針について様々な意見が出ましたが、イラク派兵差止訴訟原告の池住義憲さんから提案のあった、国会でのイラク戦争検証は、政府がイラク戦争支持に至った経緯の検証と、自衛隊のイラク派兵に至った経緯の検証(誰が、いつ、どんな情報に基づいて、どんな理由で、どんな法律に従って、どんな権限に基づいて決定を下したのかを明らかにする)に的を絞るべきという考えは、非常に効果的ではないかと思いました。 他のパネリストからは、イラクにおける自衛隊の活動内容や、戦争支援(結果的に米軍による虐殺やイラク国内の混乱を後押し)との間に優先順位を付けることへの疑問も出ましたが、池住さんが提案した2項目について、まず政策判断の善悪を判断するための事実関係を明かさない限りは、他の問題についても、政策判断としての是非を議論できないのではないか(倫理観による水掛け論に終わってしまうのではないか?)と思います。 会場から、イラク戦争の検証より、アフガニスタン(政府の腐敗や米軍による虐殺を助長する)復興支援や、ミサイル防衛計画を中断させる方が優先度が高いのでは?という意見も出ていましたが、そのためにもまず、米軍が起こした戦争に対して日本政府が行った対応の是非を、法的な根拠から検証する作業が必要だろうと思います。 また、今回のパネリストの一人である孫崎亨さんは、9.11以降の米国が、国連憲章に定められた自衛のための戦争を逸脱し、将来の脅威(になりそうな要素)を事前に破壊するための一方的な侵略(イラク攻撃など)を政策として定めた点と、日米の同盟関係が、2005年締結「日米同盟未来のための変革と再編」を機に、自衛隊を米国の政策(米国外への一方的な攻撃)に組み込む方向に変貌した点をh指摘し、イラク戦争検証は、今後の日米関係をどうするかを考えるために不可欠である(歴史は過去を知るためではなく、現在と将来を考えるとために学ぶもの)と、何度も述べていました。この視点からも、池住さんの提案は重要だと思います。 余談: 孫崎享さんが、ツイッターやフェイスブック等ソーシャルメディアを利用した市民パワーの盛り上がりについて、非常に楽観的な見通しを述べたのに対し、ジャーナリストの野中さんはじめ、具体的な社会問題に取り組んで来た経験の長いパネリストの方々は、日本の市民(世論)の変化については、極めて慎重な見通し(ソーシャルメディアが普及しても社会に高い関心を持つ日本人はごく一握りにとどまる)を語っていたのが印象的でした。 追記: アメリカ政府が、全く嘘の話を理由にイラク攻撃を決定した経緯は、菅原出さんの著書「戦争詐欺師」 http://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%A9%90%E6%AC%BA%E5%B8%AB-%E8%8F%85%E5%8E%9F-%E5%87%BA/dp/4062153424 に詳しく掲載されていますが、2月16日には、英国の新聞紙上で、その経緯の一部(ラフィド・アハメド・アルワン・ジャナビ氏がフセイン政権を倒すため嘘の情報を流した事を認めた)が、改めて報じられたようです。 http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2785653/6823689
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足元を見据える所から表現は生まれる

昨日たままま通りがかりに見つけたのですが、 房総半島の館山で、シーカヤックとスキンダイビングのサービスを営んでいる、久保誠さんの水中写真展、素晴らしい内容でした。 新宿のエプソンショールームで2/10まで開催中の写真展 http://www.epson.jp/epsite/special/special_06.htm ウエブ写真集(IE非対応だそうです。google crome や firefox などのブラウザでご覧ください) http://web.me.com/ashibiyo_ra/kumakos_photography/top.html 素潜り写真道(ブログ) http://ashibiyora.exblog.jp/ 久保誠さんのお店のホームページはこちら http://ashibiyo-ra.ms-n.com/ フリーダイビングを楽しむ人を海中で撮影したポートレートが中心。観光ガイドやダイビング雑誌に載っているいるような、真っ青な海ではないし、被写体のコントラストからすると、海水の透明度もまちまち。ストロボ無しの撮影なので、サンゴ類の鮮やかなオレンジやピンクの色も出ていない。なのに一点一点に、しっかりとした存在感と落ち着きがある。色彩が、ほとんど海の色一色のせいか、ヒーリング系の本にありがちな写真の軽薄さが無い。 実はこれがリアルな海中の風景。南の海へ行ったって、いつでも海がコバルトブルーなわけじゃない。旅行雑誌やダイビング雑誌で良く見かける鮮やかな色彩の海中風景は、海の透明度の良い日を狙って撮ったり、強力なストロボ光を当てて色彩を際立たせたカットも多い。 私達がなにげなく、”海中の自然の風景”と思ってしまう景色は、実はメディアから刷り込まれた固定観念だったりする。 久保さんの写真は、(従来の海中写真らしさをなぞらず)、自分自身が日常で体験する景色を真正面から受け止めているから存在感がある。 水に潜っている人を被写体にしている点も、スクーバダイバー(タンク背負って潜る人)が撮影した写真を見慣れた目には、恐らく目から鱗。陸上では誰もが普通に撮るスナップ写真やポートレートを、スクーバダイバー達はほとんど撮らないし、メディアも”水中写真”として取り上げない。これも固定観念の典型。 自身の日常の営みから離れて表現しようとしても存在感が生まれないのは、、写真や絵だけでなく、音楽でも同じでしょう。 刷り込まれた”らしさ”を追う活動に命は宿りません。それはジャズでもロックでも、クラシックでも現代音楽でもなく、フリーでも、即興でもなく、只の猿真似、ならまだマシな方で、大抵はアーティスト”ごっご”。世間的には「芸術」とされているクラシック音楽や現代音楽も含めて。 ”ごっこ”に明け暮れる人生は、年齢を重ねるほど空しくなります。自由な表現を求めていたつもりが、気がつけば、同じ仲間と同じ遊びでツルんでいることしか出来なくなっている。それはかつての、麻雀、ゴルフに明け暮れたサラリーマン達と何ら変わりはない生き方。 そうならないよう、気をつけたいものです。
posted by オフィシャルひろし at 22:29Comment(0)TrackBack(0)